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ヘンゼルと悪い魔女  作者: 銀ねも
第一章「留まってはいられない」
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人喰いに浚われる

流血表現を含みます。

 ウメヲが行ってしまった。ルシカンテは、青褪めた空から視線を落とした。

 門の傍らの護柵が打ち破られている。ルシカンテの胴よりも太い、立派な樫の丸太が千切れ飛び、あたりに転がっていた。殻のクマが、破ってしまったのだ。そんな強い体で襲われたら、人間はひとたまりもない。ルシカンテはぞっとして、上腕をさすった。

 猟師たちが、忙しく働きだしている。ルシカンテは、クマが燃え尽きるまで、緊張した面持ちで見張る、三人の猟師たちに話しかけた。


「さっきの、影の民は、なんだったの? 爺さまと親しいの?」


 若い猟師が、横目でルシカンテを見やる。疑問を投げかけるルシカンテを傍目にかいて、五月蠅そうに眉間に皺を寄せた。


「さぁな、おれが知るかよ。奴さんはおめぇに、随分気安くしとったすけ。おめぇの方がよくしっとるんでねぇか」

「知らねぇ。おら、影の民ば見たのも初めてだもの」


 ルシカンテの言葉を遮るように、若い猟師が舌を鳴らした。眦を決している。怒りを向けられる理由がわからなくて、ルシカンテは当惑した。壮年の猟師が、若者に肩をぶつけて、頭を横にふる。悔しそうに顔を歪める若い猟師に代わって、彼がルシカンテの疑問にこたえた。


「ウメヲ・オリュシは、影の民と交流ばもつ、唯一無二のおひとじゃ。オリュシがいねかったら、影との契りば結ばれなかった。今度のこともきっと、ウメヲ・オリュシがいいようにやってくれるべ。わしらは、わしらさ出来ることばして、オリュシの帰りば待つだけじゃ」


 ルシカンテは頷いた。次いで、尋ねる。


「おらにも、なんか手伝えること、ある?」

「今ぁ、外は淵とつながっとるんじゃ。女の身でふらふらしとったら、カシママさもっていかれる。ウメヲ・オリュシが言った通り、家さ帰ぇってれ」


 壮年の猟師の応えは、にべもない。 ルシカンテは項垂れた。

 カシママは、石の心臓をもつものからひとを護ってくれる、ありがたい霊性だ。しかし、その一方で、血肉をもつ女の胎を借りて、生まれ直すと言う怖い側面も持っている。カシママを胎に宿した女は、カシママに食われていなくなる。掟で、護柵の外へ出た女は、カシママに持っていかれたものとして、二度と柵の中へ入れないことになっている。

 予想はしていたが、ルシカンテがここにいても、邪魔でしかないらしい。

 とぼとぼと家路につこうとしたルシカンテを、年老いた猟師が呼びとめる。年輪のように皺を刻みこんだ顔をやわらかくして、諭すように言った。


「クジラの肉でご馳走ばこさえとけ。ウメヲ・オリュシは、腹ば空かせて帰ってくるだろうからのぅ」


 老猟師の言葉が、暗中の導火のように、ルシカンテの心に点った。

 ホボノノの一大事に、皆の役に立ちたいと言ったのは、逃げ口上ではない。けれど、本当のところ、何かをして気を紛らわせたかったのだ。すべきことがないまま、家に一人で籠って時間がたつのを待つのは、あまりにも心細い。

 ルシカンテは老猟師の心置きに感謝して、ほほ笑みかけた。


「うん。そうする。あんがとね」


 踵を返そうとしたとき、男の慟哭が上がった。目をやると、ウダリが女房の亡躯に縋りつき、咽び泣いていた。猟師仲間の数人が、ウダリを引き剥がし、家の方へ連れて行く。あとあと、ちゃんとお別れをさせてくれなかった、と恨まれることになりかねない、損な役回りを請け負った猟師仲間たちの顔色は、黒く沈んでいる。誰かがやらなければならないことなのだ。

 死者を悼み、悲しみと嘆きによって流された涙は、死した魂の足を凍らせる。足が凍った魂は、冥府へ続く海の岸辺で立ち往生してしまう。我を忘れて涙する者は、死者の旅路の妨げにならぬように、遠ざける習わしだ。

 ルシカンテは、取り残されたウダリの女房の傍らに跪いた。腹には外套がかけられていて、膨らんでいた筈なのに、窪んでいる。赤黒い水たまりができていた。血色のよかった顔から血の気が引き、見開かれた瞳は、永遠の恐怖に凍りつかせている。

 ウダリの女房はルシカンテの素行の悪さを、たびたびウメヲに告げ口していた。ルシカンテは、ウダリの女房が煩わしいと思っていた。そう文句を言うと必ず、ウメヲに窘められた。叱ってくれる大事なひとを、粗末にしてはならないと。

 ウダリの女房は、噂すきのお喋りだったが、影口を叩くだけで終わらせることはせず、必ずウメヲに知らせた。彼女に悪意しかないのなら、ウメヲに知らせ、忠告することは無かっただろう。ウダリの女房の死によって、ルシカンテはそのことにはじめて気付かされた。

 彼女の小言を煩わしいと疎んじていたことが、申し訳なく、恥ずかしかった。いけないとわかっていても、ぽろぽろと涙が流れ落ちる。


「ウダリのおっかぁ……痛かったね、辛かったね。可哀そうに……」


 ルシカンテは、ウダリの女房の顔に手を伸ばした。血と汗で額に張り付いた前髪をそっとはらおうとする。その手を、若い猟師が叩き落とした。

 ルシカンテは驚いて、若い猟師を見上げた。若い猟師は、肩を怒らせている。強張った頬がひくひくと痙攣した。


「なにば、泣く。嫌ってた癖によ。ああ、そうか。おめぇ、ウダリのかかぁが、あの世さ行けねぇように泣いてんのか。よくもそげに、底意地が悪ぃことが出来るもんだ。ウダリのかかぁば、殺すだけでもあきたらず」


 若い猟師の辛辣な皮肉を聞いて、ルシカンテは呆けた。日頃の行いが祟って、軽侮の視線に晒されるのは慣れている。しかし、憎悪を込めた蔑視を向けられるとなると、話は別だ。毎朝毎晩注がれたとしても、慣れることはないだろう。若い猟師は、唾を吐き捨てるように、憎々し気に言い放つ。


「ウダリのかかぁが死んだのは、おめぇら姉妹のせいだ。おめぇらがカシママば怒らせたのが悪ぃんだ。いつかこうなるって、皆して言ってたのによ、耳ば貸さねぇで、好き放題して。おめぇらは、呪われた娘だ。ウメヲ・オリュシはおめぇらば、淵さ捨てにゃならねかった。……アイノネが、内地の人間ば淵さ呼び込んだんだ。あいつは、内地の人間と逃げたんだからな。おめぇら姉妹は災厄の化身だ。ホボノノば滅ぼす厄病神だ!」


 若い猟師は激昂し、身ぶるいしてルシカンテを弾劾した。

 頭のすみの冷めた部分では、わかっていた。若い猟師は、混乱しているのだ。若い世代は、影の民の庇護を受けた、安全な暮らししか知らない。同胞が無残に食い殺されるのを見て、うろたえている。行き場のない恐怖と憤怒を、あてこすらなければ立っていられないくらいに。足場が抜け落ちてしまいそうなのだ。

 わかっていたけれど、ルシカンテとて、冷静ではなかった。ルシカンテは、若い猟師のきつい中傷に傷つき、凶暴になった。若い猟師の胸倉に飛びつき、がなりたてる。


「そんなの嘘だ、出鱈目言うな!」

「やめねぇか。みっともねぇ」


 見兼ねた壮年の猟師が、ルシカンテを若い猟師から引き剥がした。鋭く舌を打つ若い猟師と、ふーふー唸っているルシカンテの間に分け入り、呆れ果てている。老猟師が悲し気に首を振った。


「おめぇらが言い合って、どげする。ウダリのかかぁは、帰ってこねぇぞ」


 そう言われてしまうと、ルシカンテは項垂れるしかない。若い猟師も決まりが悪くなったのか、悪態をつくのをやめて神妙な面持ちになり、黙り込んだ。見張りの三人が、空気の重さにいたたまれずに、目を落とす。

 見張りの目が離れた隙に、恐ろしいことが起こった。祓い火に燃やされていた、殻のクマが、突如として跳ね起きた。巨体を震わせて土の上を転がり、火を揉み消す。

 見張りがまごついている間に、三人まとめて前脚で薙ぎ払ってしまった。

 ルシカンテは、殻のクマと真っ向からさしで向かい合った。一瞬で、心臓が凍りつき、冷たい血が全身をかけめぐり、熱を奪う。

 殻のクマが右の前足を大上段に振りあげても、竦んだ体は、悲鳴すら絞りだせなかった。

 殻のクマの右腕は、無慈悲な力でもって振り下ろされた。鉤状の長く鋭い爪が、ルシカンテの左肩に食い込む。肉を抉り、骨を砕き、薄い体を破る。芯がへし折られる。

 体が大きく揺れて、ルシカンテは地震が起こったのかと錯覚した。知らないうちに、めり込むようにして、地面につっぷしていた。

 不思議と、痛みは感じなかった。おぞましい痺れと、胸が詰まる圧迫感だけがある。内臓が飛び上がり、喉から飛び出しそうな悪寒に、ルシカンテの体は、勝手にがたがたと震えた。殻のクマがすぐ傍に近づいてきたが、恐怖心すらマヒしてしまっている。人々の悲鳴や怒号が聞こえるが、痺れた頭では内容がわからない。

 殻のクマは、前脚でルシカンテを突きまわした。ルシカンテが動かないことがわかると、外套の襟首を咥えて、身を翻す。そのまま駆けだした。

 速すぎて、過ぎゆく景色が無数の線の連なりにしか見えない。ぶんぶんと、首と手足がひっこぬけそうなくらい遠慮なく振りまわされた。それでも、あるのは奇妙な浮遊感だけだ。

 ルシカンテは朦朧としながら、辛うじて意識を繋ぎとめていた。殻のクマの動きが、次第にゆるやかになっていく。景色が見えて来た。

 踏みならされた草と、湿った土。殻のクマは、歩き慣れた獣道を進んでいるらしい。だいぶ走ったから、ここはもう、淵なのだろう。

 ルシカンテは、あたりを見回す為に首を廻らせようとしたが、体は思うように動かなかった。痛痒の感覚もない。まるで、魂が半分抜けてしまったかのように。

 不意に、殻のクマが歩みをとめた。喉から不穏な音を発している。唸り声はどんどん激しくなり、ついに、ルシカンテを地面に落とした。

 ルシカンテの体は、地面にうつ伏せになっている。手足が、ばらばらの方向へ折れまがり、首も捩れて横を向いていた。丁度良く、殻のクマと相対しているものが視界に入っている。

 立派な角を生やした、血肉をもつ雄シカが、切り立った崖を這う細道を塞いでいる。黒い目はおののき、怯えきった様子できょろきょろしているが、脚は泰然自若として動かない。とても、ちぐはぐだった。おかしいのは、行動だけではない。シカの四足は、毛皮ではなく、銀色の流体に覆われている。たがいに絡みあう草木の深い色が、光沢のある脚の表面に美しく写り込み、せせらぐ川のように穏やかに移ろっている。ルシカンテは、痺れた頭の奥で呟いた。


(カシママの使いだ)


 あの銀色の流体は、伝承のカシママだ。体の部位が欠けた血肉をもつものが、カシママに出会うと、銀色の体を分け与えられることがある。与えられた銀色の体は、時間をかけて血肉に馴染み、傍目にはわかりにくくなるらしい。たまたま仕留めた血肉をもつ獣の体の一部が銀色に溶けだして、はじめて、それとわかることが多いと聞いている。

 それらは、カシママの使いと呼ばれる。カシママは、この使いを手足のように用いて、殻の獣をおびき寄せる。

 殻のクマは、それを心得ている。警戒しても牽制しても、使いが退かないと知ると、早々に諦めて道を譲った。ルシカンテの服を咥え直し、転向する。

 使いの雄シカは、機に乗じて俊敏に駆けた。大きな体で、殻のクマに体当たりをしかける。

 殻の獣は素早く振り返る。両の前足を雄シカの背に叩きつけ、つぶすように押さえつけた。力は拮抗している。殻のクマはルシカンテを放り出すと、雄シカの首にくらいついたずぶり、と濡れた音がして、背の産毛がぞわりとたちあがる。

 ルシカンテは、背から地面に倒れ込んだ。顔の上で、雄シカが苦しみもがいている。溢れだした血が固い毛をつたい、ルシカンテの顔に降り注いだ。雄シカの体が、水に引きこまれるように沈む。銀色の脚がどろりととけている。銀色の流体が津波のように、ルシカンテの体をのみこんだ。

 ルシカンテは驚愕して、叫び声を上げようとした。その口の中に、水のように流れ込んでくるものがある。砕かれた左肩の傷口からも、なにかが流れ込んでくる。ルシカンテは目を見開いた。背筋を、煮えたぎる湯のように熱いものが駆け巡っている。さっきまでなくしていた痛みが、注ぎ込まれている。

 ルシカンテは、気が遠くなるような苦痛の濁流に飲み込まれ、泣き叫んだ。

 銀色が、ルシカンテの体を侵略していく。外側から、内側から、ルシカンテをべつのものにつくりかえていく。ルシカンテは震えあがった。じわじわと、ふちから侵食されていくのを、ぞっとするほど鮮明に感じる。


 ――― カシママは、血肉をもつ女をもっていって、胎に宿り生まれなおす


 興味津津で聞いていた口伝えの話が、恐慌の呼び水になる。ルシカンテは透明な蛹のなかで、死に物狂いでもがこうとした。


(やだ、壊さねぇで! 頼むから、おらば壊さねぇでけれ、後生だから!)


 手足が銀色の液のなかであがく。叫ぶたびに、小さな気泡が浮かんで、外へは届かずに虚しく弾けた。


(助けて! 誰か、助けて! 爺さま!)


 ルシカンテは絶叫した。目の前が泡でいっぱいになる。ばたつかせた右手が、不意に、蛹を突き抜けた。

 外気が棘のように肌をさす。鳥肌がたった。その手首を、ひんやりとしたものが掴む。カシママだ。カシママにつかまった。ルシカンテは咄嗟にそう思って、渾身の力を込めて跳ね起きた。

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