影の民
家々が立ち並ぶ人気のない路地を駆け抜けると、むわっと濃い血臭が漂い、思わず足がとまる。家床を支える柱の影から顔を出すと、猟師たちの後ろ姿が見えた。若い猟師が、血塗れの女を横抱きにしてウメヲの許へ運んでくる。ウメヲは、二本の足ですっくと立っている。ひどい怪我はなさそうだ、体には。
ウメヲは、銀色に燃え上がる石の心臓をもつものから目を外さない。横顔は、痛みをこらえるように顰められていた。
「……ウダリのかかあか。気の毒なことばした」
事切れた女はウダリの女房だった。惨たらしい死体を指の隙間から恐る恐る確認すると、確かにウダリの女房である。ついさっきまで、生き生きと動きまわり、お喋りに興じていたのに、もう動かないなんて、とても信じられない。
若い猟師が土を蹴り、憤懣やるかたなしと地団駄を踏んだ。
「まだ夏さならねぇのに、なして、殻のクマがいるだ! 穴さこもっとる筈じゃねぇのけ!」
「こいつは、穴持たずじゃ。でかくおがって、籠る穴ば見つけらんかったんじゃろう」
ウメヲが簡潔に応える。若い猟師は俯いた。血がついた両手を、擦り合わせている。ウメヲの隣に立つ壮年の猟師が、銀の炎を睨みつけたまま低く言った。
「ウメヲ・オリュシ。なして殻の獣が、護柵ん中さはいってきたと思う。影の民はここば護ってくれるんじゃねかったのけ」
ウメヲは開きかけた唇を、閉じて色が白くなるだけ噛みしめた。答えかねているのだ。そんなことがわかっていれば、ウメヲは民が誰ひとり死なずに済むように手を打っただろう。 沈黙が猟師たちに重くのしかかり、肩を落とさせる。
項垂れた猟師たちの上空を、大きな翼をもつ影がよぎった。ルシカンテは猟師たちと同じように空を仰いだ。
太陽を背負い、被膜の翼をもつものが、偵察に来た鳥のように旋回している。翼は凍り葉のように透き通り、葉脈のような血管の巡りを露わにしている。神秘的な美しさだった。
猟師たちは反射的に得物に手を伸ばしたが、ウメヲが腕を伸ばしてそれを制した。
「影の民の使者じゃ……心配すな。ありゃ、ワシらさなんの悪さもしねぇ」
影の民の呼称が、居合わせた者全員の警戒心と危機感を煽る。だが、ほかならぬウメヲがそう言うならと、猟師たちはぐっと堪えて得物を収めた。皆が得物をしまうのを確認したウメヲは、翼をもつものを仰ぎ、両腕を広げた。翼をもつものが、滑空して地に降り立つ。どよめきながら猟師たちが退き、ひとの輪の中心にウメヲだけが残される。その正面に、翼をもつ人影が舞い降りた。翼は畳まれると、マントのように優雅に背で翻った。
影の民の姿はまるで、背の高い人がよく磨かれた黒曜石の板金鎧を身に付けたようであった。霧雨に濡れたような輝殻の表面を、細かな水の粒が躍っている。頭に牛のような角を二本生やし、鼻先にもサイのように角がある。腕と足には、コオロギのようにぎざぎざと棘が並んでいたが、指はちゃんと五本にわかれていた。輝殻で身を覆った、ヒトの姿をした石の心臓をもつもの。
(あれが、影の民)
その姿は妖しい程に美しく、異様である。殻のクマよりもずっと、恐ろしいものを内に秘めているように思われるのは、前評判のせいばかりではない。
影の民はウメヲの正面に凛と立つ。殻の奥で赤く光った双眸は、血と似た色をしている。
影の民の、蜥蜴のように大きな口が開かれた。氷が鳴くような、軋んだ不明瞭な声が虚ろな胸腔に響き、口腔から外へ解放される。
「内地カラ血肉をもつヒト、大勢デ押し寄せた。火デ、淵ヲ荒らしまわッテいる。多くの獣が狩られた。こんなこと、今までになかった」
影の民はひどく難しそうに舌を動かし、喉を震わせて言った。人語の発声は、影の民の体の構造には、むいていないのかもしれない。それでも、影の民が人語を解して操っている。驚きだった。猟師たちは困惑して、たがいに顔を見合わせている。やがて、ひとりがおずおずと口を開いた。
「なして、内地の人間は淵の獣ば狩る。下手したら、自分らが食われかねねぇのに」
「内地の人間たち、石ノ心臓ヲ集めている。たくさん殺して、たくさん奪った」
ざわめく猟師たち。影ノ民は質問に応える際も、いっさい目線をウメヲから逸らさなかった。ウメヲだけを熱心に見詰めている。
「影ノ民、トテモ怒ッテいる。ホボノノ、約束ヲ忘れタ。ホボノノ、約束ヲ思い出すマデ、影ノ民、護りヲとりあげる。内地ノヒト達二追わレタ獣たち、怒り狂いホボノノヲ襲うだろう」
それはホボノノに対する死刑宣告だった。場が騒然となる。猟師のひとりが、怒りに顔を引き攣らせて叫んだ。
「なんだ、そりゃ! 内地の奴らのやることで、なしてホボノノさ死人が出る!」
「血肉を持つヒト、内地モ、ホボノノモ、一緒。ホボノノ、内地ノヒトたちノ蛮行ヲ、とめなけれバ。影ノ民ノ怒り、収まらない」
影の民の理不尽な怒りの矛先を向けられて、猟師たちは憤り、戸惑っている。動揺が波のようにひろがり大きくなっていく。ルシカンテの胸にも、恐慌の津波が押し寄せた。
影の民の庇護が無ければ、殻の獣はまたホボノノを襲いに来るのだろう。そうして、また誰かが食い殺されるかもしれない。
護柵の中は絶対に安全だった。庇護の恒久性を疑いもせず、安穏と暮らしてきた。今まで、こんなにも、死を近くに感じた事はない。
影の民の話しを聞いていたウメヲが、静かに口を開いた。
「わしが一人で行く、内地の人間どもさ話して来よう」
ルシカンテは目を見開いた。猟師たちも大変驚いて、素っ頓狂な声をあげる。
「何ば言っとるだ、ウメヲ・オリュシ!」
「向こうは徒党ば組んできとる! ひとりで行ったところで、どうなる! 下手したら、嬲り殺しにされっかもしれねぇ! 行くからには、こっちも大勢で出向かにゃならん」
ウメヲは猟師たちの意見をきっぱりと撥ねつけた。
「猟師が総出で出向いたところで、やりこめられるかどうか。それに、うまく追い返せたとしても、またいくらでも出直して来るじゃろう。内地にゃ、ここと比べもんにならんくれぇに、ひとが仰山おる。そげないたちごっこさ、ホボノノは付き合いきれん。話して、納得してもらうしかねぇべや」
「だども、他に何人か連れて行ってけれや。いくらウメヲ・オリュシでも、一人じゃあまりに無鉄砲だ」
「影の民が怒りばおさめるまで、ここの護りはねぇんだ。祓い火ば掲げて、護柵ばなおして、近づいてくる獣どもば追い払って。総出でやっても人手が足りねぇくれぇだぞ。一人で済む遣いに、二人も三人もさくゆとりはねぇ」
「にしてもよ、淵さ一人で行かれねぇべ! 内地の奴らば見つける前に、獣どもさ食われてしまう!」
ルシカンテは胸の前で両手を握り合わせて、首がとれてしまいそうなくらい何度も頷いた。猟師たちの言う通りだ。ウメヲの言う事も一理あるが、ひとりで行くなんて、いくらなんでも無茶である。カシママのこけら探しの時だって、徒党を組んでいくのだ。
進展のない押し問答を断ち切ろうとするかのように、影の民が翼を大きく広げた。猟師たちがおののく。影の民はウメヲをじっと見つめて、とうてい生き物のものとは思えない、無機質な声で言った。
「ウメヲ、淵ヘ連れテ行く」
ルシカンテは耳を疑った。ウメヲを連れていく? あの影の民は、そう言ったのか?
ウメヲはくぼんだ眼窩で目を瞠っている。暗がりで探るように、目を細くした。
「いいのかおめぇ、そげなことして、仲間から睨まれねぇか」
「影ノ民、一刻モ早く内地のヒト達ノ騒ぎを鎮めろト言った。ホボノノの働きヲ、見届けろトモ言った。ダカラ、ウメヲ連れテ、飛ぶ」
影の民は言いきった。揺るがない姿勢が、犬の見せる、意固地なまでの忠誠心のようでさえあった。ウメヲは、しばらく悩んだ。おもむろに頷く。
「頼む」
ルシカンテも猟師たちも、成り行きが呑みこめない。影の民は迷いのない足取りでウメヲに近づいた。背の高いウメヲが、項を逸らして影ノ民を見上げている。影の民はウメヲの顔を覗きこんだ。
「ウメヲノ仲間ガ食われるノ、見ていた。何モせず」
影の民の声は、一本調子だったが、なんとも言えない、迷子の子供のような話し方だった。首を傾げる仕草が、不釣り合いな例えだが、リスのよう。
「ウメヲ、怒っている?」
影の民はウメヲの肩口に鼻の角をすりつける。殊勝と称するには、幼稚過ぎる仕草だ。影の民が、人の死に罪悪感を抱く感傷を持ち合わせていることが、ルシカンテには驚きだった。ただ、ウメヲを連れて飛びたったら、そのまま影の民の里へ運んで行って、ぺろりと食べてしまうのではないか。と、疑う必要がないように思える。
ウメヲはそっと手を伸ばした。恐るべき顎から鼻先から伸びた角にかけてを、ゆっくりと撫でる。
「怒っちゃいねぇよ。お前にはどうしようもねかったんだ……損な役回りさせられて、可哀そうにな」
ウメヲに情けをかけられると、影の民はうっとりと目を細める。外見は厳つく、情けをかければ「愚弄するか!」と激昂しそうな、矜持の高い生き物に見えるのに。影の民はウメヲの掌に擦り寄って、言った。
「ヒトノ言葉、わかるノ、自分だけ。納得しテ来ている。大丈夫、ウメヲ。大丈夫」
影の民は翼を羽ばたかせた。強い風がおこり、影の民が宙へ浮かびあがる。背を向けたウメヲの脇の下に手を差し入れ、抱えあげた。それを見ていたら居ても立ってもいられなくなって、ルシカンテは柱の影から飛び出した。
「爺さま!」
「ルシカンテ」
ウメヲの顔色が目まぐるしく変わる。ほっとしたような表情は、次の瞬間には厳しい顔になっていた。
「何があったか、いくら呑気者のおめぇでも、わからん筈はなかろうが。皆皆の邪魔さなる。家さ帰ぇれ。戸締りして籠ってれ」
ルシカンテはウメヲの言葉が終るのを待ち切れず、遮るように言った。
「なぁ、爺さま。本当にひとりで大丈夫け? おらぁ、心配だよ。爺さまさなんかあったらと思えば、おら……心配で心配で……」
言っているうちに涙ぐんでしまって、ルシカンテは俯いて鼻を啜った。他に、いい代替案が思い付いたわけでもないのに、口出ししたって無駄なことはわかっている。それでも、不安で不安で、黙って行かせられなかった。
「ルシカンテ」
影の民に名を呼ばれて、ルシカンテはぎょっとした。影の民は邪魔をされて怒っているのかもしれない。涙が引っ込んだ。
怖々見上げた先にいる影の民は、ルシカンテをじっと見つめている。恐ろし気な風貌におさまった双眸が、上限の月の形にたわむ。
「大丈夫、大丈夫」
こどもを宥めるような口調で言われて、ルシカンテは目をぱちくりさせた。影の民は、とても怖い。けれど、今はなんだか優しそうに思える。
影の民を見上げていたウメヲが、呆気にとられる猟師たちに号令をかけた。
「皆の衆、急いで護柵ばなおせ。祓い火ば燃やして、獣ば祓うのじゃ。このクマ公が燃えつきて石の心臓さなるまで、祓い火の番ば、しっかりな」
猟師たちが応諾する。ウメヲは、ルシカンテを見下ろした。何か言いかけた唇を一度結び直し、一言だけ言った。
「良い子さして、待っとれよ」
「爺さま……」
ウメヲの一言で、ルシカンテは泣きたくなるくらい、ほっとした。ウメヲは帰って来ると言った。ウメヲは嘘をつかない。きっと、無事に帰って来る。
ルシカンテは頷いた。泣くまいと、目に力をこめて見上げると、ウメヲの口角が少し痙攣した。ウメヲは咳払いをひとつして、掠れた声で促した。
「待たせてすまん。行ってけれ」
影の民が大きく羽ばたき、舞い上がる。はやい風に乗って、南の空へ向かって飛んだ。大きな翼の影は、黒々と伸びる木々の向こう側へ消えていく。