蛇足2
老人というには、若い。だが、壮年とも言い難い。水気を失い、乾き始めた体には、今も尚、逞しい隆起の名残があった。
男は薄い唇に人差し指を当てて、腰をぐっと折り曲げた。青天の瞳を左右にきょろきょろとうつろわせ、にぃっと唇の端を吊り上げる。
「しーっ、落ちついて、落ちついて。塔に囚われた麗しき姫君がいると聞いて、これは出番じゃないか、ってことでやって来た。ただの王子様だよ。ちょっとばかり、トウがたった王子様の推参だ。洒落が利いているだろう?」
ルシカンテは、男を食い入るように見つめた。男は「照れるぜ」と笑い、ルシカンテの、耳にかかる髪を、触れるか触れないかの微妙な手つきで靡かせた。
男がぴんと背を伸ばす。背が高い。ギャラッシカよりは低いが、ヘンゼルよりは高い。全盛期は、ギャラッシカくらいの上背があったのかもしれない。
男は、足を肩幅に開き、腰を落とし、膝を曲げると、両腕で凹凸を掴んで、壁をよじ登る真似をした。年輪のように刻まれた皺をさらに深めて、破顔一笑する。
「君が長い髪をばっさり切ってしまったから、壁をよじ登って来た。本当は、恋の翼でひとっ飛び、と行きたいところだったが。ふわりと舞い上がるには、この身は、色々なものを貯め込み過ぎていたようだ」
あんな恋や、こんな恋。そんな恋もあったかな。などと、男は細長い指を折って数えている。その間に、ルシカンテは、頭のてっぺんからつま先まで、男をじろじろと眺めまわした。
月光を糾ったような美しい銀髪を、ほつれなく、形のよい頭に撫でつけている。上等な仕立ての紳士服をちょっとだけ着崩して、着こなしていた。襟元のボタンが外され、首元が晒されている。寄る歳波によって皮が弛み、肉が削げて、筋張っているが、干物ではない。崩れた色気がある。
大声で人を呼びながらぱっと駆けだすべきだろうか。と、頭を悩ませている間に、ルシカンテは、この男に馴染み始めていた。
ウメヲと年の頃は、同じくらいだろう。歳を重ねた者だけがもつ、独特の、抱擁するような安心感と、この男特有の、軽さがあいまって、警戒心を働かせない。
しかし、怪しい奴だということは明白である。ルシカンテは、ぐるりと瞳を動かし、怪訝な表情をつくると、首を傾げて男に訊ねた。
「あんた、誰?」
男は、ひょいと片眉を上げて笑った。悪戯を成功した悪童の笑い方だ。男は、素早く咳払いをすると、気持ち良さそうに大声で歌いだした。
「『あっちへふらふら、こっちへふらふら。きっと死ぬまで、落ちつかない。いや、待てよ。あいつなら、死んで土に埋められても、じっとしていられない。『風来公』は、墓穴から這い出すだろう。野ざらしになって、干からびて、風に吹かれてふわふわと、何処かへ飛んでいくのさ』……聞いたこと、ない? 誰かが俺の為につくってくれた歌さ」
男は、ひどい音痴だった。ルシカンテは、咳払いをして、零れそうになった笑いを誤魔化す。平静を装って、男を見上げた。
「風来公っていうの?」
「君の名前は」
「ルシカンテ」
男は、ルシカンテの名が、甘美な美酒であるかのように口の中でころがす。陽気に笑った。
「ルシカンテ。可愛いお口から聞くと、ますますいい名前だね。響きが気に入ったよ。きっと、なにか特別な意味がこめられているんだろう。
俺の名前は、君の名前とは違う。次々と通り過ぎる人々が、一瞬だけ俺を呼びとめる。その便宜を得る為の記号でしかない。だが、君とはもっと親しく話がしたいから、俺のことは最も気安く『カラバ』と呼んでくれ」
立て板に水で語る男につられて、ルシカンテは頷いていた。男の言葉を受け止めて、疑問を返した。
「カラバ……さん。カラバさんは、何しさ来たの?」
「お姫様の許へ忍んで行く王子様は、なんだかんだと御為ごかしを言いたがる。だが、つまるところ、お姫様のキスが目当てなのだ」
カラバは一度ルシカンテに背を向けると、肩越しに振り返って片目を瞑って見せた。その仕草が、あまりにも軽薄で、ルシカンテは噴き出してしまった。
「ふふっ。お姫様といつでもキス出来るように、カラバさんは、お髭ば蓄えねぇんだね。当てが外れて気の毒だども、おらはお姫様じゃないよ。カラバさんは、何しさ来たの?」
カラバは、目をぱちくりさせた。驚いた、と呟いている。そんなことを言われて、ルシカンテのほうが驚き、呆れてしまった。カラバは、そんな適当な言い逃れで、追求を煙にまけると、思っていたのだろうか。
闖入者と呑気におしゃべりしている自分にこそ、最も呆れてしまうが。
カラバは、顎に手を当てて、ルシカンテを眺めまわしている。さっき、ルシカンテがそうしたより、爽やかで、不快に感じさせない視線だった。純粋な感嘆が滲んでいるからだろう。
「君は、ちっとも怖がらないね。度胸が据わってる。いい女ってのは総じて、男なんかより、肝が座ってるもんだ」
「ただの世間知らずだよ」
ルシカンテが言うと、カラバはにやりと笑った。ルシカンテの鼻先を人差し指でつんとつく。
「いいぞ。その返し方は、俺の好みだ。それじゃあ、さっそく、本題に入ろう。君には、ギャラッシカって友達がいるね? 彼のことで、君の耳に入れておきたいことがある」
ルシカンテは、驚いて口をあんぐりと開けた。カラバは、ギャラッシカを知っているのか?
ギャラッシカは、使徒座十二席の使徒に追われている。もしかして、この男は、使徒座十二席からはなたれた新たな刺客なのか。ギャラッシカの足取りを追い、ここまでやってきたのだろうか。だとしたら、なんと迂闊なことをしてしまったのだろう。
ルシカンテは、背後の窓に流れそうになる視線を押しとどめた。
(今からでも、うまくやり過ごせる? すきばついて、部屋に逃げ込めるかな?)
ごくりと喉を鳴らす。ルシカンテに緊張が走ったのが、空気を通してカラバに伝わったようだ。カラバは、肩の高さに両手を上げると、ゆっくりと後退した。手すりぎりぎりまで下がり、ルシカンテと距離を置く。手摺にもたれ掛かり、視線を奥深き山山へうつした。
何気ない挙動から、ルシカンテに対する配慮がうかがえる。ルシカンテは、カラバを凝視した。不吉な兆しがないか、確かめようとした。カラバからは、敵対心が感じられない。腹を出して眠りこけているみたいに、無防備だ。
ルシカンテは、長考の末、聞く体制を整えた。ギャラッシカのその後について、知りたいと思っていた。
カラバは、そっと語り出した。
「彼は、君を守る契りをたてているね。彼らの『契り』は、人間のいい加減な約束やしばしば揺らぐ決意とは、まったく別物だ。彼らは契りを、命より優先する。彼は、君を『ヴァロワ』の兄妹から救う為に、方々から情報を集めている。
彼はいずれ、ありったけの選択肢を抱えて、君の許を訪れるだろう。その中から、君にとって最も幸福だろうものを選択して、間違いなく遂行しようとする。
だが、彼の美しい目は、人の心を覗けるわけじゃない。だから、彼がとるのは「彼が考える君の幸福」のための行動になる。もしかしたら、君が望まない、暴力的な手段に訴えるかもしれない。彼には、その力があるからね」
男の話は仮定のかたちをとっていたが、ルシカンテは、これは予言だと思った。呆然と呟いていた。
「ヘンゼルを、殺そうとする……」
ギャラッシカは、実際に、ヘンゼルを殺そうとした。仕留めそこなったのは、ヘンゼルが咄嗟に頭を腕で庇ったからで、ギャラッシカの体が弱っていたからだ。その頸木がなかったら、ギャラッシカはヘンゼルの喉笛を噛み千切っていた。
ルシカンテは、ぶんぶんと頭を振っていた。
ヘンゼルの死を、望んだりしない。ギャラッシカに守ってもらおうなんて、虫のいいことは考えていない。だから、もう、自分には構わなくて良いと、ギャラッシカに伝えた。それで、話が済んだと思っていた。
ところが、そんな単純な話しでは無かったらしい。
ギャラッシカの原動力が、情ではなく「契り」であるなら、ルシカンテの言葉で、牙をおさめることはない。
契りの重要性を知り、ルシカンテの心の中で、ギャラッシカという存在が変質していった。否、ルシカンテが認識していたギャラッシカの歪められた虚像が、本来の彼に変わっていったのだ。
ギャラッシカは、人間ではない。人喰いなのだ。人間とは異なる理を持って生きている。だから、アイノネを喰ったし、ウメヲとルシカンテを、命を賭してでも守ろうとする。もしも、もう一度会うことがあったら、ルシカンテは、ギャラッシカとどう接したらいいのか、見当がつかない。彼らは、人とは、根本が違った。
(ヘンゼルは、このことを知ってた……?)
ルシカンテの心に、疑念が紫煙のように渦巻いた。
ヘンゼルが、契りのことを知っていたのかどうかは、わからない。ただ、ギャラッシカが、何が何でもルシカンテにこだわることは、予想していたのではないだろうか。
ヘンゼルは、非情になりきれず、ルシカンテのことを殺せなかった。そして、ギャラッシカのことも。そのことが、どのような事態を惹起するのか、予想していたのではないだろうか。
ルシカンテが望めば、ギャラッシカはたとえ首だけになっても、ヘンゼルの命を狙う。ヘンゼルが、ルシカンテの心を、いざと言うときの「盾」にしようと、考えたとしたら、どうだろう。その為に、ルシカンテを口説き落とそうとしたのだとしたら。
カラバは、俯くルシカンテの旋毛を見下ろして、物憂く溜息をついた。
「もしも、俺が彼でも、そうするかもしれないな。だって、今の君は、とても不幸だ。生が辛苦に満ちた苦行で、死が安楽な眠りに思えてくる」
カラバは、なんて突拍子もないことを言い出すのだろう。ルシカンテは、目を回しかけた。死にたいなんて、考えたことはない。
しかし、とルシカンテの心に逆説の言葉が浮かんできた。
痩せた体には、力が入りにくくなった。頭は、かすみがかったように、ぼんやりしている。
ろくに食べ物を受け付けない体は、傍目から見れば、死に惹かれているように、見えるのかもしれない。
カラバは、ルシカンテの表情の変化を、あますことなく観察しつつ、言った。
「俺は彼が『宿り替え』を済ませたばかりで、朦朧としているところを、ジジイの狡知を働かせて捕えた。そんでもって、使徒座に売り飛ばしたのさ。ああ、安心してくれよ。使徒座は別に、ギャラッシカのことをとって食おうって言うんじゃ無い。
彼は『青い鳥』って呼ばれる、高名な天使様に養子として引き取られたんだよ。天使は余所者を嫌うが、彼の特異体質には惹かれたらしい。
青い鳥の美人の新妻に、甲斐甲斐しく世話してもらって、彼も馴染んでいるように見えたそうだ。だが、結局は逃げ出した。契りを果たさなきゃならなかったからだ。使徒座に運んでる最中も、うわ言のように繰り返してたよ。君の名前と、君を守る契りを。
『宿り替え』を繰り返すごとに、彼の脅威に対する耐性は、どんどん強まっている。俺は長いこと「人喰い狩り師」をやってきたが、手に負えないと匙を投げたのは、随分久しぶりのことだった」
カラバは瞑目して、ゆるゆると首を横に振った。
「俺に出来ることは、君の幸せを願うことだけだ。彼が思い余って、とんでもないことを仕出かさないように」
カラバは他にも何か、ギャラッシカについて知っているのだろうか。追尋をかけようとしたが、カラバの目が突然、ルシカンテの背後に焦点を結んだので、訊ねる言葉は霧散した。
「そういうことだよ、ヘンゼル」




