蛇足
ヘンゼルと悪い魔女 蛇足
ルシカンテは南の塔の自室に閉じこもっていた。膝を抱えてやり過ごした朝と夜の数を、数えることすらしなかった。
ヘンゼルに抱きしめられ、呪わしい告白を囁かれて以来、ヘンゼルが怖くなった。
窓を開けたとき、あの甘ったるい煙草の臭いが立ち上ってきただけで、意識が遠のきそうになる。
部屋に引き籠っていても、生きていくのになんの支障もない。アイノネの部屋には風呂場も手洗い場もついている。食事は決まった時間に、決まった侍女が、手押し車に載せて運んで来てくれる。
使用人たちはまるで空気であるかのように、一切の気配を断っている。求められない限り、声を出さず、目を上げることもない。
ルシカンテは最初のうちは、逐一お礼を言っていた。けれどそのたびに、よく躾けられた侍女の慎ましい伏し目に過るのが怯えだと知って、声をかけられなくなった。
ルシカンテは新しい『ヴァロワ』であるグレーテルの『一部』であるとされ、厚遇を受けている。
グレーテルから聞かされたことだが、先代のヴァロワであるアイノネには、暴虐な一面があったらしい。
ルシカンテを案内してくれた紳士のように、高貴なる身分の者であっても、アイノネの心の動き次第で、即座に命を奪われていたのだ。使用人たちは『ヴァロワ』を恐れている。
先代のヴァロワであるアイノネと瓜二つの容姿をもち、当代ヴァロワの『一部』でもあるルシカンテは、立場の弱い階下の使用人たちにとって恐怖の対象でしかない。
かくして、知らない間に食事が用意され、掃除が済んでいて、新しいシーツと着替えが用意される空虚な生活が、ルシカンテの上に砂のように降り積もっていた。
ヘンゼルとはまともに顔を合わせていない。そのことに安堵する一方で、孤独は確実に深まった。
これもグレーテルから聞かされたことだが、ヘンゼルは政治家たちの領域を侵さず「ヴァロワ」として尊重され、保護されることだけを求めたらしい。シャルル王とアイノネに比べれば、慎ましいとさえ言えた。
平和な治世には『ヴァロワ』の威光と力が必要であるとして、政治家たちはヘンゼルの申し出を快諾したらしい。
そこに至るまでは、水面下での腹の探り合いや、複雑な見解、利害関係のすり合わせがあったのだろうが、グレーテルの目から見ると「あっさり決まった」そうだ。
紙で出来たような手触りの日々に、グレーテルは唯一の温度をもつものとして関わってきた。何事もなかったように、無邪気にルシカンテに笑いかけた。
傷口を避けているのではなく、傷口があることすら認識していない。認識していても、とるに足らないと考えている。そう言う類の、無頓着な態度だった。グレーテルは、ルシカンテが押し黙っていても、ひとりで機嫌よく話していた。
グレーテルの話しに耳を傾けていて、ルシカンテは喜ばしい知らせを聞いた。ヘンゼルが新たな統治者に掛け合い、北の淵への収集兵派兵を取りやめさせたと言うのだ。
「ルシカンテ、ちゃんと目的達成出来たんだよ。だって、お兄ちゃんが派兵をやめさせたのは、ルシカンテの為だもんね」
グレーテルが屈託なくほほ笑みかけてきたとき、ルシカンテの心は喜びと当分の不安にざわめいた。
損得勘定に敏感なヘンゼルが、ルシカンテの為に、利権を蹴ることがあってよいのだろうか。ヘンゼルの奇怪な行動の契機を推し量ろうとすると、ルシカンテは無意識のうちに、左手の薬指に嵌めた指輪を握っている。
『俺が君を好きだってこと、忘れていたのか』
ヘンゼルがそう囁いたとき、ルシカンテの胸は震えた。恐れだけのせいでは無いことを、一人きりで過ごす長すぎる時間が、ルシカンテに思い知らせていた。
(おらはばかだな……まだ、ヘンゼルのことが好きだ)
ヘンゼルが怖いのに、何を抱えているか知れない胸に飛び込んでしまいたくなる。危険だと察しているのに、餌につられてふらふらと罠へ吸い寄せられる、餓えた獣になってしまったようだ。
ルシカンテの理性は、愚かな真似をとめている。ルシカンテは利己心故に、王様を殺し、アイノネを殺し、見ず知らずのひとを殺した。自分のために他人を犠牲にしたのだから、もう、他の誰かに頼るような真似をしてはいけないと肝に命じている。
しかし、ヘンゼルに受け入れられる事は、歪でおぞましく魅惑的だった。
望んではいけないのに、禁忌は抗いがたい魅力をもってルシカンテを誘惑するのだ。奈落の底のように。
いつまで、自分を律していられるのだろう。ルシカンテは怯えていた。いつかみたいに、ヘンゼルの部屋の扉をノックしてしまう日が、来るのではないだろうか。
ヘンゼル自ら出向いて来ないのは、ルシカンテの心の揺らぎを見越して、待ちかまえているからではないだろうか。
とぐろを巻き、鎌首をもたげる蛇のように。
多くの時間を、詮無い煩悶に浪費しているうちに、ルシカンテの食は、すっかり細くなった。侍女が運んでくる豪勢な食事を、忍びないと思いつつ、ほとんど口をつけられない。無理やり唇に押し込んで、水で流しこんでも、吐き戻してしまう。
ひょっとしたら、これは理性の最後の抵抗なのかもしれなかった。ルシカンテが、ヘンゼルに縋りつけないように、馬鹿な真似が出来ないように、自由を奪ったのかもしれない。
寝台に仰臥し、うつろな目を天蓋に彷徨わせていると、とんとん、とノックの音がした。窓硝子を叩く音だ。
(……なに!?)
ルシカンテは、寝台から跳ね起きた。くらりと眩暈がして、へたり込んでしまう。血が足りていない。気力で体を立て直し、靴もはかずに、窓辺に駆け寄った。
露台には、誰もいないようだ。少なくとも、目に見える人は立っていない。
――アイノネの亡霊かもしれない
ルシカンテは、躊躇い無く窓を開け放っていた。
アイノネがルシカンテに復讐したいのなら、そうさせるべきだと思った。一緒に死ぬつもりだったのに、自分だけが生き残ってしまった。禁忌の道によろめきかけている。アイノネが腹を立てているならば、呪い殺されてしかるべきだ。
ルシカンテは、露台に出た。青臭い風が短い髪をなぶる。視界を遮る髪を押えて、周囲を見まわした。誰もいない。ルシカンテは、しばらくの間、突っ立っていた。しかし、首を絞められることも、背を突き落とされることもない。
ルシカンテは、自分が愚かな思い違いをしていたことに気がついて、自嘲した。
(アイノネは……おらば殺したりしない。心を壊しても、おらにはなんもしねかった。情の深い姉さんだもの……)
空を見上げた。抜けるような蒼穹には、雲ひとつなく、鳥さえ飛んでいない。深淵の暗闇のような空隙が広がっていた。手摺に手を置き、ルシカンテは俯いた。
(……ギャラッシカでも、ないよね)
強く、気持ちの優しい大男が、小鳥のように、この手摺にとまっていたらと、ルシカンテは想像した。浮かんだ想像図を、頭を振って打ち消す。
(ギャラッシカでねくて、良かった。ギャラッシカが戻って来たら、大変だ。自由にのびのびと、外で生きてくれてることば、願うだけだ)
寂しさのあまり、誰かがいると、妄想してしまったのだろう。ルシカンテは、踵を返しかけた。その足首を、五指で掴まれた。
手は、すぐにぱっと離れた。だが、軽く掴まれただけの足首には、五指の感触がしっかり刻まれていた。そこから、鳥肌が雪崩のように押し寄せてくる。絶叫しようと、大きく息を吸い込んだとき、乾いた掌で口を塞がれた。
その手も、すぐにぱっと離れる。目を白黒させるルシカンテの前に、豹のように靭な身のこなしで、ひとりの男が進み出た。