ヘンゼルの呪わしい告白
「拍子抜けだな」
自分ひとりだと思っていた部屋に、ヘンゼルがいた。ルシカンテは跳ねるように立ち上がった。
ヘンゼルは窓を開け放ち、露台の手摺に背を凭せている。細かく震える指にタバコを挟んでいて、せわしなく口に運んでいる。
ルシカンテは発作的に逃げ出したくなった。しかし、逃げ場なんて何処にも無い。自分で塞いでしまったのだから。
ヘンゼルはタバコの煙を、せっせと肺に送り込んでいる。空気のように紫煙を吸わなければ、鼓動がとまってしまう。体がそう言う仕組みに造り変わったみたいに。
ヘンゼルがそろりと伏せていた瞼をもち上げた。すっかり据わった灰色の双眸が、どろりと溶けているように見える。ルシカンテが立ち竦んでいると、ヘンゼルは嗤った。
「死にたいって、泣かれると思ったぜ」
ヘンゼルの笑声は妙に熱が籠り、ねとついている。ヘンゼルは指でルシカンテを招き寄せた。怯えていると思われたくなかったルシカンテは平静を装って、窓辺に近づく。ヘンゼルの得体の知れない笑みを睨みつけて、噛みつくように言う。
「誰があんたの為さ、泣いてやるもんか」
ヘンゼルがひょいと片眉を跳ね上げた。面白がっているような顔をしているが、目が暗い。
さっきまでとはまるで別人のようだ。ちっとも怯えていない。それどころか、こちらを脅かすような目をしている。
不気味だった。口の周りを血で濡らしたユキウサギがいたら、こんな気持ちになるだろう。
ルシカンテは喘ぐように息を吸い込んだ。紫煙がヘンゼルをとりまいている。いつもとは違う、妙に甘ったるい匂いに心が掻き乱される。
「あんたは……おらさ悪いことばしたと、思ってる。おらが泣いたらあんたも少し、心が軽くなるんだ。したっけ絶対、泣いたりしねぇ」
ヘンゼルはタバコを咥え、煙を胸いっぱいに吸い込んだ。旨そうに、たっぷりとした煙を吐きだす。
「君は本当にバカだな」
ヘンゼルは俯き加減に含み笑っている。くつくつと、泥を煮るような笑声があがる。ゆらりと煙草をくゆらせて、少し首を傾けた。
「君はまだ懲りていない。まだ、俺を買い被っている。そんな度し難いバカなところが、可愛いけどさ」
ルシカンテは場違いな言葉に、虚をつかれてぽかんとした。ルシカンテの阿呆面を見て、ヘンゼルが噴き出した。
「俺が君を好きだってこと、忘れていたのか?」
「つまんないウソば、つくな。バカ」
ルシカンテは思わず知らず後ずさる。ヘンゼルはタバコを捨て、踏みにじった。長い足で彼我の距離を詰めて、ルシカンテの手首を掴みあげる。
ルシカンテは驚いて身を捩ったが、鷲に掴まれた小鳥のように、身動きが出来ない。
ヘンゼルがぐっと顔を寄せて来る。その呼気から、胸が悪くなるような、甘ったるい煙草の匂いがする。ルシカンテがのけ反ると、顎の線と同じくらいの長さに切りそろえられた黒髪が柔らかく揺れた。ヘンゼルはルシカンテの旋毛に顔を埋めて、吐息で嗤った。
「バカだね。ギャラッシカは君の最後の逃げ道だったのに、自分でふいにしちまった。君はもう、俺から逃げられないぜ」
ルシカンテはぞっとした。腕を振りまわして、振り払おうとしながら叫ぶ。
「おらはあんたのこと、好きじゃない!」
「そうだったかな」
「好きじゃなくなった!」
ルシカンテはかっとなってヘンゼルを突き上げるように見上げた。ヘンゼルの顔が思いがけず、近い。抵抗を失念しているルシカンテの鼻先で、ヘンゼルがおかしそうに囁いた。
「そう? 残念だな。ちょっと前までは、脈があったと思ったのに」
ヘンゼルがルシカンテの左手の薬指をなぞった。ルシカンテはあらん限りの力で暴れた。今のヘンゼルには、触ってほしくない。
ヘンゼルはルシカンテの抵抗を赤子の手を捻るようにいなして、胸に抱きこんでしまう。呼気に交じる煙草の臭いと同じ、苦いのに甘ったるい声で囁きかけてくる。
「逃げようとしたって無駄だぜ。君の行動は全部、グレーテルに筒抜けだ。君は逃げられない。この世の何処にも、あの世にも。君が自分を傷つけたらその都度、グレーテルに治させてやる。バカな真似を繰り返せば繰り返すだけ、俺から離れられなくなるぜ」
甘い痺れのような悪寒が背筋を駆けあがる。ルシカンテは萎えそうになる足を叱咤して、踏みとどまった。ヘンゼルの胸を腕で押し返す。
「あんたに好かれる覚えがない」
そう言ってから、ルシカンテだって何時からヘンゼルのことを好きになっていたのか、はっきりと答えられないことに気がつく。
ルシカンテはヘンゼルの凄みで潰えそうになる言葉を、なんとか紡いだ。
「おらはあんたのことなんて、好きじゃない。あんたとおらのせいで、ギャラッシカは危うく死ぬところだった」
ヘンゼルが顔を顰めた。そのまま嗤うと、恐ろしい形相になった。
「本当におめでたい奴だよ、ルシカンテさんは。ひどい隠し事をしていたのは俺ばかりじゃないぞ」
ヘンゼルは膝を折ると、ルシカンテと視線の高さを合わせる。雷雲の双眸に悪意が閃いた。
「いいことを教えてやろう。君の姉さんを喰った人喰いは、あいつだぜ」
「うそ」
ルシカンテは鋭く言った。ヘンゼルは狡賢いキツネのように、にやにやしている。見せつけるように首を横に振った。
「間違いないよ。俺はたくさん人喰いを狩ったが、体の中に石の心臓を隠す人喰いは、あいつしか知らない。
十年前、シャルル王は俺に、お妃様を喰った人喰いを戯れに甚振らせた。ずっと長いこと甚振られていたそいつの石の心臓は、体の表面には無かった。拷問を繰り返していたら体の中に沈んだんだって、シャルル王が言っていたよ。
あいつは本当なら、ずっと飼い殺しにされる筈だった。だが、銀の星が降ってきた混乱に乗じて逃げ出したんだ。十年前。君らが住むホボノノ居住区のある淵での出来事さ」
ヘンゼルの言葉に弾きだされた記憶が、ルシカンテを殴った。
ウメヲは十年前の、カシママのこけら落としの翌日、淵で満身創痍のギャラッシカを拾った。人の言葉を話さない影の民の中で、ギャラッシカだけが唯一、人の言葉を話した。それも、浜言葉ではなく、内地の言葉を綺麗な発音で話す。
ヴァロワでは人喰いたちが、人間に擬態して暮らしていた。そして、血の惨劇が起こり捕えられた人喰いが、淵へ連れて行かれた。そこで拷問にかけられ特殊な体質を得て、カシママのこけら落としのあった晩に、逃げ出した。
そんなまさか。そう言いかえしたいのに、何も言えない。辻褄があってしまう。
ギャラッシカがウメヲと、ルシカンテを守ることにあれほど拘泥する理由は、自分が喰った人間の家族に命を救われたからではないか。その借りを返そうと、必死になっているのではないか。
ルシカンテの脳が白く発火した。
ヘンゼルはルシカンテの頭を優しく抱いている。耳元で悪魔の言葉を囁き続ける。
「あいつは君を一目見て、自分が喰った少女の妹だって、分かった筈だ。あいつは最後までそれを隠していた……君があんなことを俺に命じても、黙っていたんだぜ。なぁ、ひどいのは俺ばかりじゃないだろう?」
ギャラッシカは人喰いだ。人を糧にする、そういう種族だ。ギャラッシカがアイノネを喰ったとしても、それは悪意や作為があってのことじゃない。ルシカンテだって、猟獣を当たり前に喰って生きて来た。同じことだ。
ギャラッシカの献身はなかったことにはならない。
それでもルシカンテの心に、後悔の津波が押し寄せた。
(アイノネば殺した化け物の為に、関係の無い人ば、殺してしまった)
それを言うなら、自分だってアイノネを殺したではないか。ルシカンテの理性は心の底で訴えた。しかし、響かなかった。
いくら綺麗ごとを並べ立てたところで、結局、人間のアイノネが全てなのだ。人喰いはおぞましいものだった。そんな考えが根本的にあった。ルシカンテは自分自身に失望した
灰になったように呆然としているルシカンテの髪を、ヘンゼルが撫でる。うっそりと笑いながら。
「君の言う通り俺は意気地なしさ。頭だって人並みだ。外堀を埋めてからじゃないと、怖くて動けない。……ただ、人より心が捻じれている。それに、これでいて、気が長いんだ。君は、きっと根負けするね。最後に笑うのは、たぶん、俺だ」
ヘンゼルがルシカンテの左手を持ち上げる。薬指の指輪に、軽く口づけた。ルシカンテの体が、そこから凍りつくようだった。