残酷になれないと
ぽつんと立ち尽くすヘンゼルの背後に、大きな黒い翼が迫っている。血のように赤い目と大きな顎にびっしりと生えた牙が、鋭利な刃のように炯炯と光る。影の民だ。
影の民は大窓に突進した。硝子が砕け散る。背後から奇襲を受けたヘンゼルは、咄嗟に右腕で頭を庇った。人を食らう大きな顎が、ヘンゼルの右肘に食らいつく。重々しい音とともに、顎が閉ざされる。
がつん
ヘンゼルの右腕の肘から先を噛みちぎった影の民は、絨毯の上を転がり部屋の壁に激突した。ルシカンテは甲高く叫んでいた。
「ギャラッシカ!」
「ぐっ、うあああぁぁぁ!」
駆け寄ろうとしたとき、ヘンゼルの壮絶な苦鳴が上がる。食いちぎられた右腕からぼたぼたと、血と肉の塊が垂れている。
ヘンゼルは腕を押さえ、苦痛に目を見開いていた。顔面は蒼白になって、頬にかかった血と涙が混じり合い、筋を付けている。
ヘンゼルの背後の窓から、グレーテルが顔を出した。海をすいすい泳ぐアザラシのように窓枠から室内を覗きこむ。床に崩れ落ちたヘンゼルを見て、目をぱちくりさせた。
「あらまぁ、痛そうね、お兄ちゃん! ギャラッシカ。なんてことするの! いけない子」
グレーテルの体がすっと伸びあがった。スカートから伸びているのは、足ではなく銀蝋だ。グレーテルは蛇のようにするっと室内に入ると、兄の隣に降り立つ。ヘンゼルの頭髪をぐしゃぐしゃと撫でた。
「お兄ちゃん、大丈夫よ。今、治してあげるね。ほぅら、泣かないの。男の子でしょ」
グレーテルは幼子の母親のようにヘンゼルを窘めると、無残な断面に唇を寄せた。
彼女の唇から滑り出た銀蝋が、右腕の断面にまとわりつく。ヘンゼルが唇をきつく噛む。目が血走っていた。苦痛があるらしい。
銀蝋が細い糸に分かれ、縺れるように傷口に侵入する。銀蝋は骨を、筋を、肉を、血管を、腕の形を糾いあげていく。銀色の皮膚がじわじわと、むき出しの繊維を覆い隠していった。
五本の指、その先の桜貝のような爪まできちんと構築して、グレーテルは唇を離した。涎を啜るように、銀蝋を口腔に戻す。
ルシカンテは我を忘れて腕が再生される一部始終に見入っていた。失われた物を造り出す摂理に外れた背徳の奇跡に、畏怖を感じていた。
グレーテルはヘンゼルの銀色の右腕を撫でさすった。
「出来た、出来た。お兄ちゃん、お手手を握ったり、開いたりしてみて。そうそう。大丈夫ね。色もすぐに落ちつくわ。だから、もう泣かないの。良い子、良い子」
グレーテルはくすくす笑っている。綿毛が舞い上がるように、ふわりと立ち上がった。スカートの裾を摘み、持ち上げる。見開かれた銀色の双眸が、溶け落ちたみたいに、眼下から銀蝋が滴った。
「だめじゃない、ギャラッシカ。あんまりオイタが過ぎると……食べちゃうわよ」
四肢を失ったギャラッシカは軋るように咆哮しながら、穴だらけの翼を震わせのたうつ。そんなことくらいしか出来ないのだ。ルシカンテはギャラッシカに覆いかぶさり、グレーテルを睨んだ。グレーテルが薄桃色の口唇をうっすらと開く。銀蝋が溢れだした。
「よせ、グレーテル」
涙と涎のように流れていた銀蝋が、すっと引っ込む。再生したばかりの銀色の手がグレーテルの口を塞いでいた。グレーテルはぷうっと頬を膨らませて、ヘンゼルを振り仰いだ。
「なによぅ、お兄ちゃん。邪魔しないでよ。ギャラッシカにお仕置きしなきゃいけないんだから」
ヘンゼルはグレーテルを見つめ、ふるふると首を横に振った。
「こんなのどうってことない。お前が治してくれたから、何も困らないよ。だから放っておこう。……頼むよ、グレーテル」
グレーテルは、ヘンゼルの落ちつかない瞳をじっと覗きこんでいる。少し首を傾げてから、にっこりとほほ笑んだ。
「しょうがないなぁ」
ルシカンテがほっとなで下ろした胸の下で、ギャラッシカが身じろいだ。ギャラッシカは霞んだような目の光を明減させながら、くぐもった声で息も絶え絶えに言った。
「騙さレ、るな、ルシカンテ。ヘンゼル、君ヲ、酷い目二、合わせた」
ギャラッシカが興奮して身もだえすると、手足の付け根から塩がぼとぼとと零れ落ちる。ルシカンテはギャラッシカを宥めようとしたが、ギャラッシカは聞かない。首を擡げヘンゼルを、視線で射殺せるものなら射殺してやろうと、睨みつける
「王ヲ殺し、ヴァロワヲ消し、銀蝋ノ海ト国ヲ、乗っ取った。
僕ノ正体ガ、使徒二ばれるよう二仕向け、僕ヲ、ルシカンテカラ引き離し……ルシカンテヲひとりデ、ヴァロワヘ向かわせタ。
ヘンゼルハ、王二ルシカンテヲさし向けた。王が、ヴァロワが、どうするカ予測していた。
僕が尾行けていることモ、予測しテいた。いざとなったら、ヴァロワと相打ちさせる為二。
結局、ヴァロワハ王を殺し……自滅した。全部、ヘンゼルノ思惑通り」
ギャラッシカは、怨念の獣のように、怨嗟の咆哮を上げた。
「ヘンゼルハ怪物だ。恐ろしい。今、殺す」
「お兄ちゃんを殺すなんて、ダメよ。絶対にダメ。そんな悪いことしようとしたら、わたし、ルシカンテを殺しちゃうわよ?」
グレーテルがのどかに笑う。ルシカンテの胸が、肌が泡立った。ルシカンテの体にとりついた銀蝋の断片は増えている。グレーテルはその心次第で、ルシカンテなど子ウサギより容易く、くびり殺せてしまうだろう。
悲鳴を噛んで考えた。ルシカンテはもう、グレーテルから離れて生きられない。
銀蝋の檻で生きる。是非も無いことだ。王様とアイノネを殺してしまったルシカンテが、のびのびと安らかに生きるなんて、そんなむしのいい話があってはならない。
もう、どうにもならないことばかりだ。しかしただひとつ、まだ取り返しがつくかもしれないことがある。ルシカンテは昂然と立ち上がった。真っすぐに見据えると、ヘンゼルの目が星のように瞬いた。
「大丈夫だよ、ギャラッシカ。そんな奴、怖くもなんともない」
ヘンゼルが僅かに眉を潜める。ルシカンテは素早く息を整えた。ここで、はっきりさせておかなければならない。大きく息を吸って、背筋をぴんと伸ばす。毅然とした態度をつくり、いつかのヘンゼルの言葉を引用した。
「そいつはただの小者だ。ヘンゼルがアロンソの下で燻ぶってんのは、そこが無為無策の無能にふさわしい肥溜だからだ。
アロンソから逃げてぇなら、頻繁に壁の外へ出ていたんだすけ、逃げれば良かった。だのに、逃げねかったのは、怖かったからだ。逃げた先に、あてがねかったからだ」
ルシカンテはヘンゼルを睨むふりをして、彼の変化を粒さに観察した。ヘンゼルの白い面の皮がつっぱっている。ルシカンテの指摘は、まんざら外れてはいないようだ。そして、心の柔らかい部分にしっかりと突き刺さっている。
ルシカンテは息継ぎをして、一息にまくしたてた。
「こげしてヴァロワば乗っ取ったけど、おらって体の良い人質と、ギャラッシカって用心棒がいなけりゃ、こいつにはこったら大それたこと、出来なかった筈だ。
こいつは狡猾なんじゃねぇ。行き当たりばったりだ。臆病だから、その場しのぎが上手いだけだ。
人ば踏みつけにして、欲しいもんば手に入れた。そったら奴は、いつか同じ目さあって沈んでいく」
ヘンゼルは動揺していたが、動かなかった。せせら笑うことも、逆上することもない。泣きそうな顔を、俯けて隠すのが精々だ。
ヘンゼルは散々、好き勝手やった。ルシカンテに恨まれていないと思うほど、彼は楽天家ではない。
ヴァロワの乗っ取りを完璧にやり遂げたいのなら、遺恨を残さず、ルシカンテのことを始末してしまうべきだ。
賢い彼にはそれがわかっているだろうに、出来ないのだ。
ヘンゼルは、ルシカンテには何の恨みもない。それどころか、アイノネのことを負い目に感じているかもしれない。
だったら、付け入るすきがある。
ルシカンテは世間知らずで、頭もそれほど回らない。善良な大人に育てられた、ふつうの少女だった。こうはっきりと打算を働かせたのは、生まれて初めてだ。
やらなければいけなかった。ルシカンテは、人殺しだ。ふつうの少女では、いられない。人殺しに相応しい、汚いやり方で望みを叶えてみせる。
ルシカンテは感情を排して告げた。
「こいつは意気地なしで、おらのことば殺さねぇ。したっけ、ちっとも怖くねぇ。おらは、でかい顔して、ここさ居座るぞ」
ヘンゼルだけでなく、ギャラッシカもまた、ルシカンテの発言に驚愕した。ギャラッシカは、何か言おうとしたが、喀血して何も言えない。ギャラッシカの背を撫でさすり、ルシカンテはヘンゼルに言った。
「うまく、ヴァロワばのっとったみたいだね。王様ば殺したのに、あんたらは、牢屋に放り込まれてねぇもの」
ヘンゼルは片手で顔を擦る。項垂れるように首肯した。
「シャルル王は国の腫瘍だった。下手につついたら国が死ぬが、放っておいても国を緩慢な死に追いやる。この国の政治家たちにとって、シャルル王の死は諸手を振って喜ぶべきことだった。それに、ここには「ヴァロワ」が必要だ。それが「アイノネ」でなくても、誰も構わないのさ」
ルシカンテは頷いた。グレーテルが新しいヴァロワになったのなら、ヘンゼルには、一定の権限が許されているだろう。
言うべき言葉は決まっていた。しかし、すんなりとは出なかった。最後に残った、無知で無垢だった己への未練が邪魔をして、喉に閊えている。
ルシカンテはそれらを時間をかけて、決意で呑み下した。
恐ろしい言葉が、唇をついて出て来る。
「したらばひとば一人、見繕って貰って。ギャラッシカば新しい体さうつして、ここから出してやって」
ルシカンテは人喰いへ生贄を差し出せと言った。ヘンゼルは絶句している。無理も無い、とルシカンテは思った。ルシカンテ自身も震えがきている。
グレーテルは目を丸くして、わざとらしく仰天してみせる。
「ルシカンテ、あなたどうしたの? なんか、一段とばしで大人になっちゃった。あはは、すごいねぇ」
ギャラッシカが、首を軋ませてルシカンテを見上げる。溶けて凹凸がなくなった顔に、哀願が滲んでいた。
「ここ二、残る。ルシカンテヲ、守る」
ルシカンテはギャラッシカの頭を撫でて、笑った。頭をふる。
「もう、十分守って貰ったよ。おらはもう……もう、ひとりで大丈夫。あんたは爺さまとの契りば、よく守ってくれた。ありがとね。あとはもうなんにも縛られねぇで、あんたの好きなように生きて」
ギャラッシカは納得しなかった。しかし、やがて力尽きて、気を失った。
何処からか地衛兵たちがやって来て、ギャラッシカを担架にのせた。地下牢の死刑囚の体を、ギャラッシカの体として宛がうと言う。
死刑囚と聞いて少し肩の荷がおりた気がして、ルシカンテは己の欺瞞に吐き気をもよおした。ひとをまた一人殺すということの、罪の重さになんの変わりも無いのに。
ルシカンテはギャラッシカが生まれ直すのも、運び出されるのも、見届けた。そうしなければ安心出来なかったし、罪を重ねる自覚が必要だと思った。
無事に寄生を済ませたギャラッシカを、銀蝋の壁の外に連れ出し、横たえる。銀蝋の天蓋ではなく、壁だ。井戸の火事は、それなりの損失を銀蝋の海に与えたようである。
そんな中で、ギャラッシカが生き残っていたのは奇跡に近い。強靭な生命力は感嘆に値する。ルシカンテは、朦朧とした意識の端を掴み、よじ登って来るギャラッシカの半開きの目を見つめて、別れを告げた。ギャラッシカを置き去りにして、壁の内側に戻った。
ルシカンテはアイノネの部屋にひきとった。地衛兵たちは、ルシカンテの送迎を終えると、脱力したようだった。彼らにはルシカンテが恐ろしい怪物に見えるだろう。
アイノネの部屋の扉を閉めて、ルシカンテは、扉に背を擦りながら崩れ落ちた。
ルシカンテは変わろうと決めた。しかし、その瞬間にすぐに変われたりしない。ルシカンテは非力な少女のままで、とんでもない重荷を抱えて、つぶれそうだった。