夢
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ホボノノ居住区を夢に見た。
ルシカンテは東の護柵の前に立っていた。あたりは、しん、と静まり返っている。深い霧に覆われており、近くの物見櫓さえおぼろげな輪郭でしか捉えられない。
ルシカンテは護柵の手前に跪いた。隙間から向こう側を覗き見る。
向こう側にはウメヲがいた。厳めしい顔をほころばせて、アイノネを見つめている。アイノネはウメヲと王様の間に立って、二人に交互に笑いかけている。王様はアイノネの肩を抱き、これ以上ないくらいに幸福そうに見えた。
三人の後ろに、ぼんやりとした人影が三つ浮かんでいる。のっぺらぼうだけれど、嬉しそうに微笑んでいる三人が、両親と祖母であることが、ルシカンテにはわかった。
護柵の向こう側に、家族の団欒があった。強烈な引力が発生している。ルシカンテはどうしようもなく引き付けられた。
あちら側に行きたい。護柵の隙間に体を押しつける。
不思議なことに、ルシカンテの体は護柵に触れたところから、滑らかな液体になった。銀蝋のような体が隙間を潜りぬけていこうとする。
もう少しで家族に会える。そう思った時に、背後から引きもどされた。
「そっちに行ってはいけない」
ギャラッシカにそう言われた気がした。
ギャラッシカを撥ねつけることは、出来ない。
ルシカンテは未練を振りきるように頭を振って、振り返った。
そこにいたのはギャラッシカではなく、ヘンゼルだった。
ヘンゼルは石膏の仮面に彫ったような、魂の宿らない笑みを浮かべ、大地の色の髪をもつ陶器人形を大事そうに抱えている。陶器人形は銀色の双眸でルシカンテを見ると、にんまりと笑った。
そこで目が覚めた。
楽園から突き落とされたように、唐突で完璧な目覚めだった。開いた目には白い天蓋が見えた。
ルシカンテは寝台の上に跳ね起きた。カーテンがはらりと開かれて、ヘンゼルの陰気な顔が覗く。
「気分はどう?」
ルシカンテは暖かな布団を捲りあげた。薄手のふんわりとした、花のようなワンピースを着た体は、洗いたてのシーツのようにまっさらだった。傷ひとつない。
(そんな筈、ねぇのに)
ヘンゼルはカーテンを引いた。窓の外の曇天から淡く漏れ出す日の光が、ぼんやりと明るい。
ヘンゼルは水差しとコップを手に持って、やって来た。零すように笑う。
「まる一日眠っていたんだぜ。……もう、目覚めないつもりなのかと思った」
小さな声で付け足して、ヘンゼルは水さしから硝子のコップに水を注ぎ、差し出した。
「飲む?」
水面がさわさわと騒いでいる。コップを受け取らずに、ルシカンテはヘンゼルをまんじりと見つめた。
「ヘンゼル」
「髪のことなら、俺に文句を言うのは筋違いだぞ」
ヘンゼルは飄然と言うと、肩を竦めた。
「別にいいだろ。また伸ばせばいい」
一本足の小さな丸テーブルを寝台の傍に引寄せ、そっとコップを置く。水面が騒ぎ、水滴がテーブルの上に零れた。
ルシカンテはもう一度ヘンゼルの名前を呼んだ。ヘンゼルは上ずった言葉を被せてくる。
「喉の渇きより、腹が減ったのかな? でも、昨日の今日で、がっつり喰わない方がいいよ。腹がびっくりする。干した海藻のスープ、持って来させようか。ヴァロワは海岸線に近いから、そういうのが喰えるんだ。海藻は髪に良いんだぞ。……ああ、君は浜の人だったね。それじゃきっと、懐かしい味がするぜ」
ヘンゼルはルシカンテに喋らせようとしない。核心をつかれるのを、なんとか避けようとしていた。ルシカンテが物言いたげな目で見つめると、蛇に睨まれた蛙のように、ひろい肩を竦ませる。
ヘンゼルは小心者だ。
臆面も無く許しを乞うあつかましさも、開き直る傲慢さも、持ち合わせていない。息を潜めて、嵐が通り過ぎるのを体を固くして待っている。無力なこどものように。
ルシカンテをだしにして、簒奪と復讐を遂げた狡知の持ち主にしては、あまりにもちっぽけな男だ。
ルシカンテはヘンゼルに逃げる暇を与えずに、端的に言った。
「ギャラッシカはどこ? 無事なの?」
ヘンゼルは寝台の傍を行ったり来たりした。立ち位置を決めかねている。結局、寝台を離れて、窓辺で立ち止まった。腕組をして、煙ったそうに言う。
「生きていると思うよ。だが、あまり元気ではないね。井戸の脇で、とんでもない量の塩に埋もれている。君が元気になったら、掘りかえしてやるといい。彼が生きていたとしても、君なら素手で触ったって、寄生されないだろうさ。恐らく、きっと、たぶん。もちろん、保証はしないがね」
ルシカンテは寝台から降りた。ざっとあたりを見まわしたが、靴が見当たらない。仕方が無いので、裸足のまま絨毯を踏みしめて扉へ向かう。
ヘンゼルが、体ごと振り返った気配がした。
「俺に、聞きたいことはないか」
ルシカンテは歩みをとめた。失笑が漏れる。ヘンゼルは言い訳すら、自分から言い出すのが怖いのだろうか。
ルシカンテは肩越しに振り返ると、なるべく抑揚をつけずに言った。
「何も話してくれなくて良い。聞いたとこで、信じられねぇもの」
ヘンゼルが傷ついたように目を見開いた。
「そう、だろうな」
ルシカンテはふいとそっぽを向いた。苦い物がこみ上げる。
ヘンゼルはつくづく、卑怯な男だと思う。そんな顔をされたら、ほだされてしまいそうになる。ヘンゼルにとってルシカンテは、降ってわいた「幸運」でしかないのに。もっと、特別なものを、期待してしまいそうになる。
ルシカンテは目に力をこめて、顔を上げた。




