もう一度、這い上がる
ルシカンテは真っ逆さまに落ちた。ルシカンテをモズの早贄にする剣は、現われなかった。代わりに、アイノネはルシカンテを抱きとめた。
「どうして来たの、ルシカンテ」
アイノネがおざなりに言う。アイノネはもう、浜言葉を使わなかった。
「私はあんたの姉さんじゃないわよ」
(だって、寂しかったんだもん)
ルシカンテの甘えを、顔を見ただけでアイノネはくみ取ったらしい。苛立ったような、困ったような顔をして言い募った。
「あんたのことはよく知ってる。あんたは抱きあげて、歩きながらあやしてやらないと、ぐずって眠らない甘ったれだった。グズでのろまで、そのくせに能天気で、周りをやきもきさせた。同じ年頃の友達に誘われても断って、ひとりぼっちのアイノネの後をついて歩いた、おせっかいな娘。よく知っているわ。
でもね、知っているだけよ。私にはアイノネの記憶がある。アイノネの感情も受け継いだ。でもそれらは全部、知識としてあるだけなの。だから困るのよね。私にアイノネを求められても、迷惑なのよ」
ルシカンテはアイノネと一緒に、空を仰いだ。生まれたての青褪めた空が、遠い。小さく丸く、切り取られている。アイノネの声は乾いていた。
「アイノネが死んだとき、私は表に出て来た。でもそのずっと前から、生まれていた。アイノネの胎に宿ってから、私はすべてをアイノネと共有してきたわ。あの頃のアイノネは、幸せだった。私もアイノネの中で、幸せなまどろみにひたっていたの。アイノネが愛したから、私も彼を愛するようになったわ。いつの間にか……」
アイノネはそっと俯いた。足元には王様が沈んでいる。ルシカンテに立向けた笑顔のまま、永遠に時間が凍りついていた。アイノネの目頭から、銀色の涙が一筋くだった。
「変よね。私はアイノネに宿っていただけなのに。自我の境界線を見失っているのかしら。それとも本当に、自我の境界線を失くしてしまったのかしら」
ルシカンテはふるふると首を横に振った。アイノネがはっきりと褞色をつくる。
アイノネは怒ったふりをしているが、本当は困っている。困っているから、擬勢を張っているのだ。
王様の前でも、いつも困って、おろおろしていたのだろう。どうしたら今まで通りに愛してくれるのか、わからなくって。ならば、詰られる通りの化け物であろうとした。
ルシカンテにはわかる。姉妹の絆はアイノネがアイノネそのものでなくなっても、断ち切られていないようだ。
ルシカンテはアイノネの頬を擦った。銀色の涙の筋を拭う。
「……あんたはアイノネそのものじゃねぇかもしれねぇ。だども、アイノネであることは間違いねぇよ」
ルシカンテに嫉妬しても、アイノネはルシカンテを、結局は傷つけなかった。それが何よりの証拠だ。
アイノネは泣きそうな顔をした。しかし、涙は流れない。アイノネの指が王様の輪郭を辿るように、銀蝋を混ぜた。
「このひとがもしも……あんたみたいに、私のことをアイノネとして受け入れてくれていたら……私は本当のアイノネになれたのかもね……」
ルシカンテは重い瞼で瞬きをした。
ルシカンテはこのひとがアイノネだと思う。アイノネとは別人だけれど、アイノネの一部であると。この答えが、一番しっくりきた。王様が断言したようにまったきの別人でもなく、ヘンゼルが信じているようにまったきの同一人物でもなく。
アイノネは赤ん坊をのせた揺り籠のように、ルシカンテをゆすっている。ルシカンテはだんだんと眠くなって来た。ルシカンテが目を閉じそうになっていると、アイノネがぽつりと言った。
「これから、私一人でどうしようかな。ずっとここでこうしていちゃ、いけないのかしら。……アイノネの中から見ていたときは、あんなにも素敵だったのに……いざ出てきたら、外の世界は辛いことばかりだった……」
アイノネは歌うように言葉を紡ぐ。丸く切り取られた、画に描いたような空を見上げていた。
「……還ろう、淵へ。こんな歪な心をもっていることに、もう疲れてしまった。全て消していこう。あの人も、あの人への想いも、あの人と築き上げた国も、全部。もう……アイノネはやめてしまおう。白痴なる『母なる海』に戻って、まどろみ続けましょう……」
井戸が震える。銀蝋がざわめいている。アイノネの眼窩から、鼻孔から、唇から、耳孔から、銀蝋が垂れた。
アイノネは、アイノネの皮と心を捨てるつもりだ。この国を呑みこんで、カシママとして淵へ還ろうとしている。
アイノネの体は大きい。ヘンゼルとグレーテルは呑み込まれて、死んでしまうだろう。
ルシカンテは強く瞬きをして自分を取り戻した。腕を伸ばして、アイノネの首に縋りつく。アイノネの頭を、たっぷりとした髪ごと抱え込む。アイノネはルシカンテの甘ったれた仕草を許している。
ルシカンテは手首を返し、左手の薬指に嵌めた指輪を見つめた。
(ヘンゼルが言ういざって時は、今なんだろうな)
ルシカンテは暗く狭く怖い井戸の底から、空を見上げた。ヘンゼルが覗きこんでいる。ルシカンテは小さく首を振った。
(あんたの為じゃない。ただ、おらには行くあても、気力もねぇから。アイノネの心がこんな寂しいところさ捨てられるのは嫌だから……一緒に、連れて行くんだ。火ば燃やして上昇気流さのって、爺さまのとこさ行く)
ルシカンテはアイノネの髪を撫でながら、発火板を爪で強く引っ掻いた。小さな火花が弾ける。三度繰り返して、火がアイノネの髪に点いた。
ホボノノ族の髪はよく燃える。アイノネの髪は、松明のように燃え上がった。
アイノネの体の、穴という穴から溢れだしていた銀蝋に、火が燃えうつる。火は皮の中まで滑りこんでいった。火はルシカンテの体にも燃え移る。髪を燃やし、タイツに覆われた足を舐め上げ、スカートの裾に燃えうつる。
アイノネはルシカンテを突き飛ばした。
銀色の蒸気が、霧のように充満している。ルシカンテは、アイノネが火に踊らされているのをぼんやりと眺めていた。銀色の炎の中に、アイノネの影がくっきりと浮かんでいる。燃え上がる銀蝋の下から、王様がそれを優しい笑顔で見ていた。
銀蝋がとける匂いがする。髪が、肉が、焼ける臭いがする。
(おらは、ここで終わりか)
ルシカンテは胸に刺さったナイフにそっと触れた。焼かれているのに、ちっとも実感がわかない。致命傷は「これ」になってしまうのだろうか。
ヘンゼルのことを想うと、痛まなかった筈の胸が、張り裂けんばかりに痛んだ。
ごう、と風が鳴いた。澱んでいた銀色の空気に対流が生まれる。黒い人影が、星のように降って来た。
銀蝋のすれすれのところで、翼を広げる。翼が石壁を抉りとり、余勢を殺した。
愕然とするルシカンテを、赤い目が見つめている。ギャラッシカだ。
ギャラッシカは素早くルシカンテを抱き上げた。黒い輝殻がどろりと滑っている。白煙を上げ、溶けだしていた。
ギャラッシカは咆哮を上げて、翼を羽ばたかせた。真っすぐに跳べずに壁にぶつかり、石を削りとりながら上昇し、石壁に突っ込む。被膜にはぼつぼつと穴が開いていた。もう飛べないのだ。外までは、まだ距離がある。
それでも、ギャラッシカは諦めない。手足の爪を石壁に突き立てて、登り始める。銀の蒸気は絶えず吹き上げ、ギャラッシカを苦しめた。
ルシカンテの体は動かなかった。ギャラッシカの柔らかくとろけた殻に顔を埋めて、心の中で叫んだ。
(やめて、もういい、もういいんだ! おらが自分で火ばつけた。死ぬつもりだったんだ。どうせここを生き伸びたところで、おらの命はもうない。お願いだから、ひとりで逃げて!)
ギャラッシカは懸命に壁を登っていく。何度か足を踏み外し、ずり落ちそうになりながら、必死に食らいついている。
「生きているのか!?」
思いがけず近くからヘンゼルの声がする。もうじき登りきるのだ。
ギャラッシカの体が、がくんと揺れた。ギャラッシカが悲鳴を噛む。ヘンゼルが逼迫した声で言った。
「っ、足が……!」
ぽちゃん、と、あまりに軽い音が井戸に反響する。
ギャラッシカはルシカンテを抱えていた腕で、ルシカンテの襟首を掴んだ。ルシカンテの髪を燃やす祓い火に腕を焼かれてもたじろがず、目一杯に腕を伸ばす。伸ばして叫んだ。
「ヘンゼル!」
ヘンゼルが手を差し伸べている。銀の火の屑を伴う熱風が、茶髪混じりの白髪を煽った。灰色の双眸を見開いて、ヘンゼルが叫んだ。
「ルシカンテさん、手を!」
ルシカンテはなんとか首を巡らせて、ギャラッシカを見下ろした。
ギャラッシカの輝殻は、蜜のようにとろけてしまっている。立派な三本の角は、見る影も無い。ギャラッシカが力むと、輝殻の裂け目から赤い体液が噴き出した。千切れた右足の断面から、赤黒く濡れた塩がぼとぼとと零れ落ちている。
ルシカンテを持ち上げている腕は、祓い火に燃やされて細り、今にも折れてしまいそうだった。ルシカンテは取り乱して叫んでいた。
「ギャラッシカ……あんた、なんで、ここさいるの……!? 逃げたんじゃなかったの!?」
「……ウメヲ、下界ヲ去っテモ、ウメヲト交わしタ契り、生きテいる。ウメヲ二『ルシカンテノ安住ノ地ヲ守護し、ルシカンテノ命ヲ守る』ト契った。君ヲ守る。必ず」
溶けた輝殻の筋の合間から、ギャラッシカの紅い目がルシカンテを見上げている。ルシカンテを見守るウメヲの眼差しが、そこにあった。
「ギャラッシカ。君ガくれた強イ名前。君モ、強い。だかラ、大丈夫。ルシカンテ、大丈夫だ。手ヲ伸ばセ。掴んデ、行け」
ギャラッシカは諦めていなかった。ウメヲが死んで、影の民に追われ、ルシカンテに拒絶されて、使徒に追われる身になっても。契りを果たすことを諦めていなかった。ルシカンテを救う為に、死地へ飛びこんできた。
ルシカンテの心に、導火が点った。
(どげして、諦めてただ)
ルシカンテは右肩を持ち上げようとする。皮が突っ張り、引き裂くような痛みが走った。ならば、と左の腕を伸ばす。銀蝋の腕は燃え上がっている。しかし動いた。
(どげして、死ななきゃなんねぇ)
ルシカンテは燃え上がる左腕を、少しずつ持ち上げる。腕からぼとぼとと銀蝋が垂れ、ルシカンテの顔に落ちた。熱い。痛い。どうして、この痛みを感じていなかったのだろう。
(答えは、ひとつだ。痛ぇのは生きてるから。生きるのばやめたら、痛ぇのはいらねぇもの)
ルシカンテの腕が伸びきる。ヘンゼルは腰を石積にひっかけて、可能な限り伸び下がった。燃え盛る左手を、ヘンゼルが両手で掴む。すんなりとした手が火に包まれ、サックコートの袖口にも燃えうつる。ヘンゼルの顔が歪んだ。
「どうってことない、こんなの……」
ヘンゼルが軋む歯の間から言った。灰色の目をかっと見開く。
「痛いのも苦しいのも、慣れたら案外、平気なもんだ。俺はもう、あの頃の『おれ』じゃない!」
ヘンゼルの足は信じられない力で踏みとどまり、ルシカンテを引き上げた。ルシカンテの体は、ヘンゼルに覆いかぶさって倒れ込む。燃え尽きた炭のように、崩れ落ちた。
ヘンゼルはルシカンテを押しのけると、外套を脱いだ。ルシカンテの燃える髪を、コートで叩いている。彼の足もまた祓い火に包まれていたが、気が付いていないようだ。
ヘンゼルは一心不乱に外套を叩きつけながら、金切り声を上げていた。
「グレーテル、塩だ、塩をかけろ! 火を消せ。早くしないと、死んじまう!」
ヘンゼルの声が遠い。さらに遠くで滴が落ちたように、ぽしゃん、と悲しい音がした。