ひとを殺す
ルシカンテは、仕込み杖でルシカンテと王様を隔てる、ヘンゼルを見上げた。ヘンゼルの顔が、冷たく、固くなっている。また、ルシカンテの知らないヘンゼルに、なろうとしている。ルシカンテは、必死に呼び止めようとした。
「ヘンゼル! あんた、なにば言ってんの!? アイノネは……王様ば殺す気だ!」
「そうだろうね」
ヘンゼルが、事も無げに認める。冷ややかに王様を見下ろした。
「君のお姉さんが悪いわけじゃない。どんなに出来た人間でも、愛した相手に化け物呼ばわりされたら、誰だって思いつめるだろう。それが十年も続いて、あっさりと捨てられそうになったら、そりゃ、心を病みもするさ。ついには、別の女の為なら、憎んでも憎みきれないお前を傍に置いても良い……なんて言われたら、余計にやるせない。……陛下。そうは、思いませんか?」
王様は、二人を隔てる白刃など無きものとして、ルシカンテの目を真っすぐに見つめている。真摯な声が、訴えた。
「あれは、アイノネではない。アイノネの皮を被った、ちがうものなのだ。アイノネならば、どれだけ心を病んだとしても……お前を危険な目に合わせることは、決してしない。悪魔の戯言に惑わされるな」
ヘンゼルは、鼻白んだ。首筋を固くして、俯く。
「陛下が頑固者だってことは、存じ上げています。陛下を諭そうなんて、これっぽっちも、思っちゃいませんよ」
ヘンゼルは、仕込み杖の切っ先を王様の肩口に当てた。ルシカンテは、目を瞠ったが、今すぐ刺し殺そうと言う雰囲気ではない。やむを得ず、様子を窺っていると、ヘンゼルはとんでもないことを言いだした。
「これをお貸しします。これで、ルシカンテ様に掴まれている腕を切りなさい。そうすれば、ルシカンテ様はお助けします」
ルシカンテは、ヘンゼルを凝視した。端正な面立ちに、悪魔が憑依しているのか。見極めようとした。
「ヘンゼル……冗談だよね? そんなこと……まさか、本気で言ってないっしょ?」
ところがヘンゼルは、理性的で、狂気の片鱗も感じられない。よく考えた上で、とんでもないことを強要している。
ルシカンテは、ぶんぶんと首を横に振った。ヘンゼルは、ルシカンテを見ない。見ないようにしているのではなく、存在を心から閉めだしている。体は密着しているが、拒絶の膜が二人を交わらせない。その仕打ちが、ルシカンテの心をますます深く傷つけた。
ヘンゼルは、一言一言を噛みしめるように言った。
「ルシカンテ様が陛下を引き上げるのなら、僕はルシカンテ様を井戸へつき落とします。僕が手を下さずとも、お妃様が飛びかかって来れば、ルシカンテ様もろもと、銀蝋に飲み込まれるでしょう。
ルシカンテ様と心中なさるか、それとも、おひとりで逝かれるか。ふたつにひとつです。お選びください、陛下」
ヘンゼルは、本気だ。ルシカンテの肩を抱いた腕に、圧力を感じる。必要とあれば、つき落とすつもりだ。
ルシカンテは、咽び泣いた。ヘンゼルは、本気だった。ルシカンテが死んでも、構わないのだ。
ルシカンテの涙が、王様の頬に落ちる。王様は、その涙が熱湯であるかのように、びくりと体を撥ねさせた。王様の表情が、憐憫によるものから、義憤によるものに変わる。そして、最後には、焼けつくような憎悪に成り果てた。
「バイスシタイン兵士長は、愚かな男だった。我が子という欲目で、お前のような悪魔を生かし、アイノネを殺した」
王様は手を伸ばし、仕込む杖の刀身を握った。刀身を血が滑り落ちる。王様は、地獄の底から噴き出すように嗤った。
「良かろう。証明してやる。余は、我が身可愛さに妹を見殺しにした、お前のような卑怯者とは、違うのだということを」
ヘンゼルの手から、力が抜ける。王様は、仕込み杖を奪った。片手で器用に持ちかえて、柄を握る。
ルシカンテは、目を瞑って、我武者羅に頭を振った。そんな恐ろしいことは、絶対にあってはならない。想像しただけで、悪寒が脳天へと突き抜けていく。
「やめて、王様。お願いだから、やめて。そんなの、だめだ。王様……大丈夫だよ、ヘンゼルはこう言ってるけど、そげな残酷なこと、しねぇから……アイノネ! あんたも、落ちついて、考え直してよ! 王様が好きなんだべ!? したっけ、ひどいことはやめて!」
アイノネは、沈黙している。王様は、じっと、ルシカンテを見上げていた。顔面は蒼白だが、目には強い光が宿っている。危険な印だ。踏み越えれば戻れない一線を、越えようとしている。死ぬ覚悟を、決めてしまっている。生きることを、諦めてしまっている。
「ルシカンテ。お前は余の妹だ。たった一人、残された家族だった。お前と共に暮らしたかった」
王様の言葉は、偽りの無い本心だったのだろう。だからこそ、ルシカンテの胸に深く突き刺さり、一生、消えない傷として刻まれた。
王様は、獣のような咆哮を上げて、仕込み杖を振りあげた。ルシカンテが、しっかりと握っている右腕の、肘に、刃が食い込む。引き抜いた刃を、血が紅緒のように追いかける。
王様は、二度、三度と、腕を切りつけた。狙いが定まらず、あちこちに傷を刻んでいる。王様の歯は、がちがちと打ち鳴らされた。唇や舌を噛んだのだろう。叫ぶたびに、口腔から血が迸る。
「やめて、やめてやめてやめて! やめて!」
ルシカンテは、半狂乱になって、王様を引き上げようとした。左腕は、王様を落とさないが、引き上げることも出来ない。痺れ、ルシカンテの意思から離れてしまっている。
ルシカンテの耳元で、ヘンゼルが囁いた。
「手を放せ」
ルシカンテは、首を左右に振った。涙を振り払い、ヘンゼルに訴えかけた。
「やだ、だって、手を放したら……王様が……アイノネが!」
「この男を罰するのは、君のお姉さんだ」
ヘンゼルは、押し殺した声で言った。
「この男に化け物だと蔑まれ続けた君のお姉さんが、どれだけ苦しんだと思う? 彼女には、この男を自由にする権利がある。自由だろうが、命だろうが、好きなものをくれてやればいいんだ。君のお姉さんがやらないなら、俺がやる」
「愚かだな、ヘンゼル」
王様が、呻くように言った。王様の腕は傷だらけだ。それでも、仕込み杖を手放していない。王様は、圧倒的に有利な立場に立っている筈のヘンゼルを、見下ろし、心の底から侮蔑していた。
「生きる銀蝋……カシママは、人を模倣する。ただの、模倣品だ。こうあるだろう、こうあっただろうと、ひとの真似をする自律人形に過ぎぬ。お前には、それがわからぬのだな。お前の愛しい妹は、とうの昔に死んだのに」
王様は、大きく息を吸い込んだ。膨らませた胸から、澱を吐きだすように、高らかに嘲笑した。
「お前が殺した! いくら目を逸らし、誤魔化したところで、その事実は変わらぬぞ! 死んだ人間は、どんな魔法を使っても蘇らぬ! お前は、贖えぬ罪を背負い、自責の念に苛まれ、死……」
王様の嘲笑が、悲鳴に変わる。ヘンゼルが、ナイフで王様の腕を刺したのだ。ナイフの柄を握るヘンゼルの手が、がたがたと震えている。
「おれの妹は、死んでなんかない。グレーテルは、助かったんだ。生き返った。銀の星が降って来て、グレーテルを生き返らせてくれた。奇跡が起こったんだ。そうだ、グレーテルは、死んじゃいない。運命が、グレーテルを生き存えさせた。おれは、あの日のあやまちを、償える。これからは、おれがグレーテルを守る」
ヘンゼルは、うわ言のように呟く。その目は、追われているように怯えていて、追い詰められたように虚ろだった。
夢に夢見る瞳が、王様に焦点を合わせた瞬間、苛烈な険を宿した。
「グレーテルは生きている! 俺には、俺にだけは、わかるんだ!」
ヘンゼルが、ナイフを振りかぶった。切っ先は、腕では無く、王様の眉間に向けられている。
ルシカンテの心に、決して多くはない、ヘンゼルとの思い出が、過った。ヘンゼルが切り裂こうとしているのは、王様ではない。ルシカンテの中の、暖かな恋だ。ルシカンテの心の一部、大切な宝物だ。
ルシカンテは、王様を見つめた。束の間だったのに、不思議と長く、静かな時間を、二人は共有していた。
「……ごめんなさい!」
王様は、ゆっくりと瞬いた。その目は、恐ろしい程に優しい。
ルシカンテは、手を放した。ヘンゼルのナイフは、宙を切る。つんのめり、井戸に落ちかけたヘンゼルの体を、ルシカンテは、地面に押し倒してとめた。どん、と胸が押される。息が出来なくなった。
仰臥したヘンゼルに、ルシカンテが覆いかぶさっている。
ヘンゼルがしきりに瞬きをして、長い睫毛でルシカンテの瞼をノックしていた。ルシカンテは、そっと目を開けた。
体を起こそうとすると、胸が締め付けられるように疼いた。体に力が入らない。痛むのは、胸だろうか。総身が、火の玉のように、痛みに燃えている。
ルシカンテは、上体を起こした。ヘンゼルのシャツが、真っ赤に染まっている。ルシカンテは、驚いた。胸がざわつき、心臓が騒ぐ。ふっと意識が遠のきかけたが、気力を振り絞って、繋ぎとめる。
ヘンゼルの肩に手をついて、ヘンゼルの体を眺めまわして、訊ねる。
「ヘンゼル、あんた、大丈夫? 怪我したの?」
ヘンゼルは応えない。イタチに踏みつけられたネズミのように、震えあがっている。
ルシカンテは、ヘンゼルに怪我がないことを確かめて、ほっとした。良かった。弾みでナイフが刺さっていたら、どうしようかと思った。
ルシカンテが微笑むと、ヘンゼルは、口元を手で覆った。悲鳴を堪えている。ルシカンテは、失笑した。
怖かったのは、ルシカンテの方だ。ヘンゼルが怖かった。ヘンゼルに、人を殺めさせまいと必死になって、この手を汚してしまった。
王様を、死の淵へ落としてしまった。
ルシカンテの行動は、尊い自己犠牲などではなかった。
ヘンゼルが王様を殺してしまったら、彼の殺意が、こちらに向くのではないか。それが怖かったのだ。死ぬことよりも、ヘンゼルに殺されることが怖かった。
そんなことになったら、心が、死んでしまう。
そして、恐れていたことが、現実になりかけていることに、間抜けにも、今更になって気がついた。
ルシカンテの胸に、ナイフが刺さっている。ルシカンテの体が鞘であるかのように、柄まですっぽりと収まっている。
痛い、筈だ。激痛だろう。しかし、あるのは虚無感だけだ。血に交じって、銀蝋が流れ出ている。
ルシカンテは、ヘンゼルの胸に手をついて、立ちあがった。足は、しっかりと地を踏みしめている。死ぬとは、思えなかった。痛みがない。心臓を刺されたのに、人を殺したのに、ヘンゼルに裏切られたのに、もう、胸が痛まない。
(おらは、まだ人間なんだべか)
「お兄ちゃん」
グレーテルが、ぱたぱたと駆けて来る。銀色の双眸をうっとりと細めて、グレーテルは兄の首っ玉に縋りついた。
「わたしのこと、信じてくれてありがとう。やっぱり、お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんね。嬉しい」
兄に頬ずりして、グレーテルは無邪気に笑う。笑いながら、言った。
「アイノネは、かわいそう。大切な家族に、信じてもらえないなんて、とってもかわいそう。かわいそうな、アイノネ」
ルシカンテは、呆然として兄妹の交流を眺めていた。ヘンゼルに甘えるグレーテルが、とても羨ましかった。ルシカンテは、孤独だった。
けれど、思い出すことが出来た。
(そうだ。アイノネが、いる)
ルシカンテは、身を翻した。
井戸の石積みに手をかけ、跨ぎ超える。銀色の剣は、王様を刺し貫き、沈んでいた。アイノネは、銀蝋の上に横座りして、琥珀に閉じ込められたような王様を、愛しそうに眺めている。アイノネの安らかな笑顔は、ルシカンテを寝かしつけてくれたときと、きっと同じものだ。
ルシカンテの体が傾ぐ。ふとしも、ヘンゼルが大声を上げた。
「待てっ……ルシカンテさん!」
ルシカンテは、待たなかった。引き上げても、きっとまた落とすのだ。そんなお遊びには、付き合いきれない。ルシカンテは、もう、ぼろぼろなのだ。
ルシカンテは、井戸へ身を投げた。