悪魔の取引
つまらなそうに窓の外を向いていたアイノネが、はっとして振り返る。アイノネは、声を上ずらせた。
「御冗談でしょう? ここは、私たちの牧場。私たちが築き上げた、楽園です。おいそれと明け渡してはなりません」
王様は、ルシカンテを胸に抱き、目を瞑った。大きく息を吸い込んで、吐息と一緒に言う。
「ルシカンテの命には、変えられぬ。……お前は、淵へ還るが良い」
アイノネは、言葉を失っていた。床の上を、人魚のような足が滑る。アイノネは、王様の前に跪いた。
「我が妹は、私が救います。今は、私こそが『母なる海』。ささやかなたまり水に、負けるはずが御座いませんわ」
ヘンゼルが、陰悪に目を細めた。
「ヴァロワ様。妹君のことを想うなら、おかしな真似は、およしなさい。彼女の命は、僕の目の動き一つで、どうとでもなるのですから」
ヘンゼルは、そう言うと、グレーテルに目で合図を出した。グレーテルがこくりと頷く。ルシカンテと目と目があったグレーテルは、無邪気に微笑んだ。
「ごめんね、ルシカンテ」
ルシカンテの肺が、体の中に巣食う、大きな手にわしづかみにされる。ルシカンテは、胸を押さえて、か細い喘ぎを漏らした。
顔から血の気がひいていく音が、耳元でするようだ。王様が、ルシカンテの名前を疾呼している。ルシカンテの意識は、王様に呼び戻されるでもなく、絶望の淵を覗きこんでいた。息苦しさだけではない、涙が滲む。
(……ヘンゼルは、おらのことば、アイノネの身代わりどころか……グレーテルとの幸せな生活ばつかむ為の、踏み台としか、思ってねかった……)
左手の薬指を、ぎゅっと握った。切実な願いをこめた祈りの仕草が、ヘンゼルには見えていただろう。けれど、彼は見ないふりをした。
アイノネは、ルシカンテの頬にそっと手を伸ばした。王様がその手を払いのけたが、ルシカンテは、アイノネを求めた。アイノネは、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、ルシカンテが伸ばした両腕を己の肩に回し、ルシカンテを抱きしめた。ルシカンテの肩口に顎をのせて、アイノネが平坦な口調で言った。
「可哀そうなルシカンテの苦痛を、盾に取ろうと言うのね。坊や……その脅しは、通らないわよ」
アイノネは、後方に大きく飛びのいた。王様が喚いている。ルシカンテは、壁に押し付けられた。喉に、アイノネの貫手が突きつけられている。ホボノノ族特有の鋭い爪が、ルシカンテの喉笛を切り裂こうとしていた。
ルシカンテは、ヘンゼルを探した。ヘンゼルは窓辺に立っていた。ヘンゼルが何か言いかけるのに被せて、アイノネが凛然と言った。
「私は、ルシカンテの命を盾に取ります」
「ヴァロワ!」
王様が憤激した。身震いするように立ち上がる。アイノネは、ルシカンテに密着して、王様を制した。
「陛下。『母なる海』……いえ、グレーテルの断片は、ルシカンテの左肩から胸の奥深く埋め込まれ、肺にまで達しています。グレーテルの支配より外れれば、断片は固い銀蝋となって、ルシカンテはそのまま死んでしまうでしょう」
ヘンゼルの嘲笑を見やったアイノネの目は、肌が泡立つ程に、冷ややかだ。吹けば飛びそうな笑顔を辛うじて張り付けたヘンゼルの輪郭に、冷汗が伝っている。アイノネは、ルシカンテの左肩から胸にかけて、くりくりと円を描くように触れ、言った。
「あの坊やは、詐欺師ですわ。おまけに、人の苦痛を引き出す術に長けた、拷問吏で御座います。ヘンゼルが、あの人喰いの子を甚振った手筈を、お忘れでは無いでしょう? 彼に嬲り殺しにされるくらいなら……いっそのこと、一思いに楽にしてあげるべきです」
嬲り殺し、という物騒な言葉が、ヘンゼルと結びついたとき、ルシカンテは、発作的に、アイノネに頼みこみそうになった。ヘンゼルに嬲り殺しにされる前に殺して欲しい。これ以上傷つかなければいけないなら「本当のこと」なんて知りたくない。
王様は、ルシカンテ以上に呼吸が苦しそうだった。八方塞になって、困り果てた目が、アイノネに縋りつく。
「お前には、お前には、どうとも出来ぬのか」
アイノネは、微笑んだ。聞きわけの無い子どもに、仕方が無い子ね、諦めなさい。と諭すように。
「グレーテルの断片が取り去られれば、私の断片を埋め込むことで、延命させることは可能でしょう。しかし、そうなれば、私はこの先ずっと、ルシカンテの傍を離れる訳には参りません。この娘を傍に置かれるのであれば、私のことも、四六時中、傍に置かなければならなくなるのですよ……人喰いを駆逐するという目的を離れてもなお、アイノネを食らった、この化け物をお傍に置けますか? そんな暮らしは、お嫌でしょう?」
「それで良い!」
王様が叫んだ。つんのめるように跪いて、王様は哀願した。
「……どうか、そのように頼む。ヴァロワよ、ルシカンテを救ってくれ」
王様から顔を背けたアイノネの顔が、ルシカンテには、よく見える。アイノネの顔には、何もなかった。虚蝉のように。
「アイノネ……?」
恐る恐る名を呼ぶと、アイノネは、ルシカンテを見返した。アイノネのものとは思えない、悪魔の凶相だった。
息を呑んだルシカンテの首筋から、アイノネはゆっくりと手をひいた。ルシカンテから体を離し、三歩下がる。ドレスの裾を両手で摘み上げ、膝を曲げてお辞儀してみせた。
「御意に」
王様が、おっとり刀で駆けつけて来て、ルシカンテを胸に抱く。ルシカンテは、首を巡らせたが、王様の胸板に抑え込まれて、アイノネがどんな表情をしているか、わからない。
ヘンゼルが、ぽんと手を打った。
「話がまとまったところで、早速、引き継ぎに取りかかりましょう。ヴァロワ様。貴女の体が巡る水路に通じる場所が、この城の何処かにありますね? ご案内願います」
「わーい、お城を探検だー!」
グレーテルがはしゃいでいる。ルシカンテは、王様の腕から抜け出した。アイノネが、先に立ち、扉を開ける。
扉の外には、あの紳士と、もうひとり、大柄なひとが立っていた。黒い外套を着込んで、フードを被り、此方に背を向けている。体格から見て、恐らくは、男であろう。その程度のことしかわからない。
「ルシカンテ、歩けるか?」
王様が、気遣わしそうにルシカンテの顔を覗きこむ。ルシカンテは、問題無いと頷いた。王様が、物憂く嘆息する。
「辛い思いをしたな、可哀そうに……。ヘンゼルめ、呪うなら私を呪えば良いものを」
(呪い……そうか、これは、呪いなのか。グレーテルば酷い目に合わせた王様さ、復讐する為の呪い。おらは、顔を合わせた瞬間に、もう、ヘンゼルさ呪われていたんだな)
王様に抱えられるように歩きながら、ルシカンテは、大笑いしたいような、泣きわめきたいような、相反した衝動にかられた。
アイノネとヘンゼル、グレーテルの後を、距離をおいてついて行く。その後から、紳士と外套の男がついて来ていた。
螺旋階段を下りて、東の塔を出る。
庭園には、留保のない完璧な春が訪れていた。百花繚乱と言うにふさわしい。大半はありきたりの花であり、野草も含まれているようだ。自由な草花が拘泥なく散らばっている。野放図にも見える不規則な均整のとれた美観である。
その一角に、硝子張りの鳥籠のような建物がある。アクトリウム、と言うそうだ。アイノネは、迷いの無い足取りで、そこへ入って行った。
アクトリウムに入ったとたん、花の香りに噎せかえりそうになる。濃密な香りは、体温すらもっているようだった。
茫洋とひろがるのは、純白の花屋敷である。四隅を柱で支えられた正方形の床の上に、寄せ棟作りの東屋が建っている。ぐるりと囲む剣先柵に沿わせた外枠から、雪崩れ込むように花々が咲き誇っていた。中央に、石積みの井戸がある。大きな銀盤で固く封印されていた。石積みに寄り掛かるように、大きな木箱が積み上げられている。そのうちの二つだけ、少し離れたところに、隔離されていた
美しい空中庭園へ上がった、アイノネの足元から伸びた銀色の帯は、銀盤の隙間からはみ出している。アイノネが井戸の前に立つと、銀盤が、がたがたと揺れた。内側から、銀盤が跳ね飛ばされる。アイノネは、くるりと振り返った。
「ここです。蜘蛛の巣状に張りめぐらせた地下水路はすべて、ここを起点として、我が身を循環させております。もとは、噴泉として使われていたものを、井戸にしました。噴泉と違って、水が枯れた井戸には、人が寄りきませんから」
井戸には、銀色の流体がなみなみとたたえられている。目を凝らせば、それは血液のように流れていた。アイノネの皮の内側に流れ込み、流れ出ていく。アイノネを源とした、地下をめぐる銀蝋の流れ。銀蝋が廻り、国を覆う円蓋を造り上げているのだ。
美しい庭園に目を輝かせて、そわそわしているグレーテルの肩をヘンゼルが抱き、東屋の階段を登る。ヘンゼルは、アイノネに、愛想良く微笑みかけた。
「それでは、銀蝋の海を明け渡して頂きましょうか」