近づく足音
「ルシカンテ!」
扉を乱暴に開いて、王様が駆けこんで来た。ルシカンテを抱き起こす。王様は、憤怒の形相でアイノネを睨みつけた。
「……何をした」
「姉妹の感動の再会を少々」
アイノネは、綺麗な内地の言葉で、淡々とかえした。王様が勃然とする。
「戯言を弄すな! 言え、ルシカンテに何をしたのだ!」
「妹には、お優しくていらっしゃるのね。怒鳴らないでくださいまし。怖い、怖い」
アイノネの声は、冷笑を含み、歪んでいた。ルシカンテは、当惑した。ルシカンテの知っているアイノネと、別人になってしまったみたいだ。アイノネは、氷の棘をつけた薔薇のように優雅で、殺気だっている。こんなアイノネは、見た事がない。しかし、既視感が拭えないのは、何故だろう。
アイノネは、王様に背を向けた。拗ねた口調で言う。
「先に、私に仰ることは、御座いませんの? 私は、文字通り身を削り、陛下にお仕えしておりますのに、拝顔の栄に浴することすら、お許し頂けない。いったい、どのような深い訳があってのことなのかしら」
「くだらぬ問答に裂く時間が惜しい。答えよ」
ルシカンテは、苦しい息の中で、目玉を動かした。振り返ったアイノネは、品よく、微笑んでいる。王様とルシカンテを見つめる双眸は、尖った氷を含んで、冷ややかだった。
「私は、何もしておりません。とんでもないことをなさったのは、陛下ですわ。とんでもないものを、招き入れて下さいました」
王様は、ルシカンテの矮駆をしっかりと抱きしめた。強い意思をもつ眼差しが、アイノネを射抜く。
「この娘は、余の妹だ。今度こそ、守りぬいてみせる。人喰いどもにも……お前にも、指一本触れさせぬ」
アイノネが肩を竦める。手に負えない駄々っ子を持て余すみたいに、苦笑いした。
「残念ですが、もう手遅れのようですわ。復讐鬼の牙が、我が妹の心の臓へ、深深と突き刺さっておりますもの」
アイノネが謎かけのように言う。王様は、胡乱気に眉を顰めた。ちょうとその時、ドアが控えめにノックされた。ドアの外から、先ほどの紳士が王様に声をかける。
「失礼いたします。使徒座十二席より来た旅人が、陛下に謁見したいと申しております。ルシカンテ様のご病気を治せるのは、自分たちしかいない。そのようにお伝えすれば、おわかりになるだろう、とのことなのですが……如何いたします」
(病気? おらは、病気だったのけ?)
王様は、虚をつかれたように唇を薄く開いた。ややあって、摺り足で歩くように、そっと紳士に訊いた。
「その者の名は」
「ヘンゼル・バイスシタインと、その供のものたちです」
(ヘンゼルとグレーテル!)
どうして来たのだ。王様は、ヘンゼルのことを、恨んでいる。来てはいけないのに。
きっと、ルシカンテの為に、来たのだ。ルシカンテの病気を知って、危険を冒して来てくれた。
これも、アイノネの「死」への贖罪なのかもしれない。それでも、嬉しいし、憎らしい。
ルシカンテは、王様の胸元をつかみ、上体を起こした。胸は、張り裂けんばかりに痛んだが、頓着していられない。喘ぐように息を吸い込んで、可能な限り声を張った。
「ヘンゼルは、悪くない! アイノネが襲われたのは、不幸なことですが、ヘンゼルのせいじゃない!」
王様が驚いて瞠目した。
「知っているのか、彼を」
「ヘンゼルは、おらば色々と助けてくれたんです! ヘンゼルから、血の惨劇のことも、聞きました! こどもだったヘンゼルが、父親ば見つけて、駆けよったのは、しょうがないことです! お願いですから、ヘンゼルさも、グレーテルさも、ひどいことしないで……っ!」
呼吸がままならない。ルシカンテは、体を折り、咳き込んだ。咳き込むたびに、ルシカンテを支える杭が、抜けていくようだ。体ががたつく。王様は、ルシカンテの背を撫でた。
「逃げたのだ」
王様は、食いしばった歯の間から、怨嗟の呻きを漏らした。
「バイスシタイン兵士長は、まだ息のあったアイノネを見捨てて、逃げたのだ。こどもを庇っては戦えぬ。我が子を生かす為に、アイノネを見殺しにした。私情によって、使命を擲った」
ルシカンテは、悲しくなった。王様も、ヘンゼルの父親も、大事な家族を一番に守りたかっただけだ。それは、責められるべきではないだろう。それぞれの想いがうまく噛みあわなかったことが、悲劇だった。
だけど、アイノネはこうして生きている。王様がアイノネを受け入れてくれれば、王様は恨みの楔から解き放たれるだろうに。彼はもう十一年もの間、誰のことも許していないのだ。
王様は、ルシカンテの背を撫でさすり続けている。王様が、平手で頬を張るような一瞥を、超然としているアイノネに投げかけた。
「お前は『母なる海』の始末をしくじった。万死に値する大失態だ。どう挽回する」
アイノネは、手首を捻り、手の甲で口元を隠して含み笑った。
「さしあたり、バイスシタイン兄妹に、お越し願っては如何でしょう? 子ウサギのようにか弱い坊やが、どのよう化けているか。楽しみでは御座いませんこと? それに……母なる海が、どのような変容を遂げているのか、も。『人智』を手に入れたようですが……ふふふ。あの母なる海も、今となっては、小さな銀蝋の水たまり。私にお任せ頂けましたら、今度こそ、平らげてご覧にいれます」
アイノネは、腰を大きく左右に振る蠱惑的な歩き方で、王様に近づいた。海から上がった人魚のように、銀蝋を引きずっている。
白銀のドレスは、水のように、アイノネの体を構成する流麗な曲線を浮き立たせた。王様は、ルシカンテの汗ばんだ額を撫で、はき捨てるように言った。
「ルシカンテの助命が最優先だ。お前にどうとも出来ぬ場合は……彼らの要求次第で、お前に消えて貰わねばならぬやもしれぬ」
アイノネの艶笑に、小さな亀裂がはしったようだった。笑みの形はそのままに、銀色の双眸が、祓い火のように燃え上がる。
「それが、一度は愛した女への仕打ちですの?」
「抜かせ、化け物め」
王様の言葉は、にべもなかった。ルシカンテは、首を巡らせて、アイノネを見やった。
王様は、アイノネが人間だった頃と同じように振舞うことすら、きっと許さないのだ。アイノネの真似をするなと、怒るのだろう。アイノネは、きっと傷ついている。こんなことが、ずっと続いてきたから、アイノネはこのように、別人のような態度で虚勢をはるのだ。
慰めてあげたかった。しかし、言葉どころか、呼吸すらままない状態で、それは叶わない。ルシカンテは、瞼を閉じて呼吸に集中した。
(ヘンゼルとグレーテルが来る。どうしよう。どうやって、二人ば守ればいい?)
ルシカンテは、震える息を吐いた。息が、少し楽になっている。ヘンゼルとグレーテルが、近づいて来ているのだろうと思った。