王様の恨み
低い声に怯えてしまった。ルシカンテは右手を後手に回し、左手を握り締める。指輪の感触を確かめる。大丈夫、大丈夫と己を励まし、説得を続けた。
「淵ば荒らすと影の民が……人の形をした人喰いのことです。影の民が怒るんです。ホボノノは影の民と契りば結んで、人喰い獣から居住区ば守って貰ってました。収集兵が淵ば荒らして回ると影の民は怒って、ホボノノの守護ばとりあげます。居住区が獣の人喰いさ襲われて、おらは淵さ連れ去られました。それで居住区さ戻れなくなって……こうしてお願いさ上がったんです。お願いします。収集兵ばもう淵さやらないでください」
ルシカンテはがばりと頭を下げた。正直な心しか持ち合わせがない。王様はルシカンテの肩に手をかけた。
ルシカンテは話が通じたのだと思い、喜び勇んで顔を上げた。しかし、王様の目を見ればそうでないことが明白だった。人喰いへの憎悪で鋭く研ぎ澄まされた目が心に刺さる。
「ならば、淵の人喰いもその影の民とやらも、皆殺しにすれば良いだけのことだ」
王様は朗らかに笑っている。
「案ずるな、ルシカンテ。この国は枯れることのない銀蝋の源泉を有している。そして、多くの勇敢なる収集兵を抱えている。我らの全力をもって淵を焼き払い、人喰いどもの呪縛からホボノノを解き放ってくれよう」
ルシカンテはがくがくと首を横に振った。伝えかたを間違ったのだろうか。王様は勘違いをしている。ルシカンテは王様に訴えた。
「そんな……だめだ、やめて! おらたちは影の民とこれまで、うまくやってきた。これからだってうまくやっていける! お願いだからそんな、乱暴なことばしないで」
「人喰いとうまくやっていける? ……バカなことを申すな!」
王様が俄かに激した。物凄い剣幕でルシカンテの肩をつかむ。指が肩に食い込んでいる。王様の口から、憎悪がふきだした。
「お前は騙されているのだ! 人喰いどもは、ひとを餌としか見ない。彼奴らは美しい殻の内におぞましいものを宿す、魔性の化け物だ。影の民とやらと共生を続けたとて、いつ掌をかえすかわからぬぞ。彼奴らには気まぐれに人を蹂躙する力がある。恐るべき力をもつ邪悪なものどもだ」
影の民が掌を返すなんて、考えた事も無かった。否定しようとしたがウメヲも、ギャラッシカも、海岸線に戻れぬ今、果たして否定出来るのだろうか。影の民はもともと、ホボノノと共生などしていなかった。ホボノノを喰っていたかもしれない。
人喰いは邪悪なものだ。ヴァロワに血の惨劇を齎し、アイノネまで喰い殺した。邪悪なものども、ひとの敵だ。
王様の憎悪に呑まれそうになったとき、ルシカンテの心の隅に息づくものが反発した。
(ギャラッシカは爺さまば守ってくれた。影の民の里からおいだされるって、わかってたのに。おらが勝手ばして、聖職者さ連れて行かれそうになったときも、助けさ来てくれた)
ルシカンテは王様を押し返した。
「影の民はひとの肉ば食わなくても、生きていけます。おらは、影の民ば知ってるんです。とても大人しい、優しいひとでした。邪悪なんかじゃない!」
王様の端正な顔がひきつる。口髭がぴくぴくと、生き物のように震えた。
「……人に限らずとも、肉を食えば、生きながらえることは能うだろう。
だが本能は狂おしい程、人の血肉を求めるぞ。その本能をも、鋼の理性で御したとしよう。だが、殻が消耗したとき、彼奴らは必ず生きた人間の体に寄生し、生きながらえようとするぞ。獣ではならんのだ。人に近い人喰いは人の体でなければ寄生が出来ぬ。影の民とて、消耗すれば生贄を望む。
……それで良いのか? 影の民の言いなりになり、家族を差し出さねばならぬとしても!
ルシカンテよ。汝は柵の中に閉じこもる生活に、嫌気がさしたのだろう。なればこそ、壁の外と繋がりをもとうとしたのだ。
淵を焼き払い人喰いどもを駆逐することの、何が不都合か!? それ即ち、お前たちの自由に繋がるのだ。人は人喰いがいる限り、戦い続ける宿命にある!」
不都合はない。人間の側に立つのなら、王様の言い分は尤もだ。
だからと言って、影の民を駆逐しようとするのは草が土を食い、シカが草を食い、オオカミがシカを食い、土がすべてを食う。その理に異を唱えることにならないか。道理に合わないことではないのだろうか。
しかしそもそも、その道理にこだわる必要があるのだろうか。人が幸福に生きる為に、天敵を排除できるなら排除して、何が悪い。脅威に立ち向かわずにして、安寧は無いだろう。
二律背反のいずれを支持して良いのか、ルシカンテには分からない。何も言えずにいるルシカンテに、王様が静かに問い掛けた。
「影の民と関わりがあると言ったな。ホボノノの集落には、影の民が訪れるのか?」
ルシカンテは頭を振った。
「おらが知る限りじゃ、影の民が訪れたのは、一度だけ。収集兵が淵ば荒らして人喰いクマがホボノノば襲ったとき、姿ば見せて警告していきました。おらが知ってるのは、おらの爺さまば守ろうとしてくれて、だども、守りきれなくて、爺さまの体さ寄生して……見知らぬ地で不安がるおらば見守ってくれた影の民……おらの友達のことだけです」
王様は俯くルシカンテの額にかかる前髪を掻きあげた。見上げると、王様は苦笑していた。
「ルシカンテ。お前、眠っておらぬだろう」
ルシカンテの充血した目許をなぞり、天蓋付きの豪奢な寝台を指さす。
「休め。目が覚めたら共に朝食……昼食でも夕食でも構わぬ。食事を共にとろう。侍女をつける故、腹が減ったときにそのように申し付けよ」
そう言って、王様は踵を返した。扉の前で立ち止まり、ぽつりと言う。
「もう、今の話はしてくれるな。余はお前とだけは、いがみ合いたくないのだ」
ルシカンテは呆然と立ちくしていた。力を失った手からアイノネの絵本がこぼれ、床に落ちた。




