ヘンゼルとの別れ2
「ヴァロワは淵に近い。昔からたびたび、人喰いの襲撃を受けていた」
ヘンゼルは話を続けるふりをして、話題を転換していた。
「そういう理由で、銀火器製造や造壁の技術において、ヴァロワはぬきんでていた。頑強な護壁をかまえて、銀火器で武装しないともう、人喰いの入れ食い状態だったんだろうな。護壁でも完全に防ぐことは難しいが、獣の形をした人喰いの侵入はだいたい防げる。鳥の形をした奴だって、そんなに大きくなけりゃ、銀火器でずどん、だ。厄介なのは今も昔も、ひとがたの人喰いさ。君らのところの、影の民みたいにな」
つまり、ギャラッシカのような存在だ。
影の民が人を喰うだろうと言われても、ルシカンテにはいまひとつぴんとこない。ただ確かなのは、ギャラッシカには、徒党を組んだヴァロワの収集兵を、たった一人で血祭りにあげてしまえる力があるということだ。ヴァロワの血の惨劇を引き起こした人喰いたちに勝るとも劣らない、危険な力の持ち主。ホボノノを恐怖に陥れたクマの人喰いよりも、ずっと強大で恐るべきもの。
ルシカンテはヘンゼルの項にむけて、ぽつりとつぶやいた。
「ごめんな。あんたたちには、迷惑ばかける」
ルシカンテは二重の意味で謝った。
ギャラッシカを仲間に引き入れて、ヘンゼルたちを厄介事に巻き込んでしまった。ヘンゼルとグレーテルは、ギャラッシカを捕まえなければ、使徒座十二席に帰れない。しかし、ギャラッシカの捕縛の成功を、ルシカンテは願うことが出来なかった。
ギャラッシカは、青い目の使徒に脅かされていた。心臓を狙われると言っていた。捕まったら、ギャラッシカは銀蝋で燃やされて、心臓を抉りだされて、殺されてしまうのではないだろうか。
それならば、ヘンゼルたちがギャラッシカを捕まえることが出来ませんように、と願わずにはいられない。人喰いでも、ウメヲの体に寄生していても、ギャラッシカはルシカンテの友達だ。ひどい目に会わせたくない。
ヘンゼルは、ルシカンテの言葉の意味を理解している。彼は殊更、静かに言った。
「使徒座十二席は、人喰いを天使……使徒と、崇め奉る国だ。羊の優れた守護者は狼、ってことさ」
信じがたいことだったが、信憑性は高い。荷台の奥から覗いた紅い目玉からは、人間離れした、神秘性めいたものを感じた。一目で、ギャラッシカの正体を見抜いた眼力も、同族だからこそだとすれば、すんなりと納得出来る。
使徒は人喰いで、人間を支配下に置いているのだ。
「それって、まるで畜産じゃない」
守って、殖やして、肥やして、食う。使徒座の繁栄は、家畜の繁栄だという事になる。ヘンゼルは浅く頷いた。
「使徒座の人間たちは、人喰いどもの家畜だ。農民や商人たちが、食料と物資で聖職者を養う。聖職者たちが、生き血や宿主で、人喰いを養う。聖職者が、死体や瀕死の人を集めるのは、人喰いどもの餌にする為だよ。その見返りとして、使徒は、外の人喰いどもから、壁内を守る。恐らく、人喰いの群れがいるってだけで、他の人喰いの抑止力になるんだろう。今のヴァロワと、似たようなものだな。
人喰いは人喰いを殺さない。だから、ママ・ローズたち壁外の見張りに、発見と抹殺を委託しているのさ。だが、ギャラッシカさんは検査の網の目を潜っちまった」
「ギャラッシカの心臓は、おらたちと同じように、体の奥さあるんだって。使徒はギャラッシカの心臓ば欲しがっているって、ギャラッシカ、そう言ってた」
「そりゃ、喉から手が出る程欲しいだろうよ。それが手に入れば、人の社会に完璧に潜り込めるぜ。試しに刺してみないと、人喰いかどうかわからなくなるんだから。勘弁して欲しいね」
ルシカンテはいてもたってもいられなくなり、一番の心配事をヘンゼルに訊ねた。
「使徒たちは、ギャラッシカば殺す気だと思う?」
「人喰いを殺せるのは、銀蝋と殻の病だけだよ。心臓が欲しいと言うより、秘密が知りたいんだろう。どうやったら、そんな便利な心臓が手に入るのか。君は知っているのか?」
「……何度も、繰り返し心臓ば抉られたからだって言ってた。心臓が命ば護る為、深く潜り込んだんだって」
ギャラッシカ自身、思いもよらぬ変化だという話し方をしていた。
ルシカンテは唇を噛んだ。この情報だけで、ヘンゼルの任がとかれることはあるまい。ルシカンテは、重苦しい胸を押さえて、問いを重ねた。
「あんたたちは、ギャラッシカを捕まえなきゃ、ならないんだよね?」
「使徒座に帰りたいのならな」
「ヴァロワさ拠点ばうつすって訳にも……いかねぇんだもんね?」
無理だという答えが返ってくるのを、百も承知の上で、ルシカンテは言った。ヘンゼルたちには、ギャラッシカを追って欲しくない。それに、ルシカンテは、ヘンゼルたちと離れたくなかった。
ヘンゼルは短くない沈黙を挟んだ。息を詰めていたようだ。細い、粉糠雨のような声が言った。
「血の惨劇の日、お妃様はお忍びで、城下に来ていた。俺らの父さんが、護衛についてね。人喰いたちが襲ってきたが、父さんは強かった。人喰いに、負けてなかった。うまくいきそうだった……おれが物影から飛び出したりしなければ」
言葉には頭声が混じった。固く閉じた心の蓋を無理にこじ開ける負荷に、ヘンゼルは青ざめている。
「おれはあの日、ひとりで近所をぶらついていた。グレーテルが他所の家に遊びに出掛けていたから、ひとりで暇だったんだ。ガキの頃から、友達がいなかったんでね。
そしたら、何処かで悲鳴があがった。人の流れに遡行して、確かめに行ったら……本性を現した人喰いが、知りあいのおじさんの腸を食っていた。俺、腰が抜けちゃってさ、動けなかったんだ。がたがた震えていたら、父さんを見つけて……バカだから、じっとしていられなかった。泣き喚きながら、一目散に父さんに駆け寄ったよ。
そしたら、父さんの傍にいた、綺麗な女のひとの背後に、人喰いがぱっとあらわれた。大口を開けていたんだ。まだ体が小さい癖に、黒い牙が鋭かった。
父さんは、俺を襲おうとした人喰いを、先に斬った。振り向き様に、お妃様を襲った人喰いも叩き切ったが……お妃様は、首を噛まれて、もう息がなかった」
ヘンゼルは、ふぅ、と息を吐いた。魂まで吐きだしてしまうような、長い、長い溜息だった。
「俺が浅はかだったから、お妃様も、父さんも、死んじまった。母さんは、父さんが死んで、気がおかしくなって、死んだ。皆、俺が殺したんだ。……俺が王様だったら……お妃様の家族だったら、絶対に俺のことを許さない」
ルシカンテは御者台の隣に回り込んだ。ヘンゼルの震える膝に手を置いて、見開かれた眼を覗きこむ。ヘンゼルは頑なに前方から視線を外さない。何を見ているのだろうと、ルシカンテは考えた。きっと、悲しいものを見ているのだ。
「ヘンゼルは悪くないよ」
心の底からそう思っていた。でも同時に、こんな言葉では、ヘンゼルが納得しないこともわかっていた。
もしも、ヘンゼルが不用意に動かなければ。運命の歯車の噛み合いは、異なっていたかもしれない。
ヘンゼルとグレーテルは、両親と一緒にヴァロワで暮らしていて、ヘンゼルはこう見えて結構、喧嘩が強いようだから、父と同じ地衛兵の道を志していたかもしれない。
王様はお妃様に支えられて、皆に愛される名君であり続けたかもしれない。
過去に仮定を持ち込んでも、無意味で、虚しい。わかっているけれど、考えずにはいられない筈だ。もしかしたら、で始まる仮想は、いつだって甘く、優しく、幸せに満ちているのだから。
ルシカンテも、考えずには居られなかった。もしも、ギャラッシカに連れられて行くウメヲに取り縋り、止めていたら。ウメヲは、死なずに済んだのではないかと。
ヘンゼルは、ルシカンテを見返した。乾いた瞳で、かすかに笑っている。
「君ならそう言うだろうって、分かっていた。……つくづく俺はずるい奴だよ」
ルシカンテの言葉はヘンゼルを傷つけもしなかったが、慰めもしなかった。ルシカンテは己の無力を痛感し、ただ俯くしかない。せめて、泣かせてあげたかったのに。
ヘンゼルは真っすぐに前を向いている。ただ、その遠く霞む様な眼差しは、ずっと前に通り過ぎた場所を、今も見つめているような気がした。
ヘンゼルは前方を指さした。
「見えて来たぜ」
暗い風景に、銀色の半球が浮かび上がっている。地上に落ちた月のようだ。表面は風にそよぐ水面のようにゆらめいて、内包した街並みを透き通らせている。
カシママに取り込まれた国。
「あれが……ヴァロワ……」
「ルシカンテさん。手、出して」
ヘンゼルは出しぬけに言った。サックコートのポケットから、指輪を取り出す。
カボションカットの紅い輝石を彫り止めした、白銀の華奢な指輪だ。ヘンゼルが、フィッターの婚約指輪をつくる合間を縫って、目を赤くしながらつくっていた、あの指輪である。
ヘンゼルは、ルシカンテの阿呆面を眺めて、いささか得意そうに、唇の端と顎をあげる。勿体ぶって言った。
「片手間につくったものだけど、舞踏服とよく合うだろう。フィッターさんに舞踏服を贈られてから、君があんまりそわそわするからさ。祭りに連れていってやれないのが、なんだか、心苦しくて。せめて、家の中でも着飾らせて、花火を見せてやったら、いいじゃないかと思い……ごほん。ええ……つくりました。結局、ルシカンテさん、勝手に行っちまったから、渡しそびれていたんだが」
ちくりと厭味を混ぜるのが、いかにもヘンゼルらしい。ヘンゼルがひたすら優しいと、ルシカンテは、なんだか悲しくなるから、これくらいがちょうど良かった。
ルシカンテは、可愛い指輪とヘンゼルの顔を見比べる。飾らない、素の笑顔が浮かんできた。
「嵌めてくれる?」
「薬指か、人差し指だよ。どの指なら邪魔にならない?」
「左手の薬指!」
ルシカンテが左手をずいと差し出すと、ヘンゼルはたじろいだ。
「いいけど……君、意味わかっている?」
ルシカンテは頬を膨らませて拗ねてみせた。
「こども扱いしないで。わかってる。この指は、大事な指輪ば嵌める指っしょ?」
ヘンゼルは「こいつ、わかっていないな」という顔をした。ルシカンテは、それで良いと思った。わかっていない、と思われたままの方が、都合がいい。
ヘンゼルは、ぶつぶつ言いながら、ルシカンテの左手をとった。
「いいけどさ……」
ヘンゼルの手先は不器用で、手綱を持ったままだと、指輪をうまく嵌られなかった。だが、指輪の大きさは、ぴったりだった。
ルシカンテは、左手を空に翳した。氷苺みたいに可愛らしい石の指輪だ。婚約指輪みたいだ。ルシカンテは、満足して頷いた。
ヘンゼルは、手綱を持ち直しながら、ルシカンテのにやけ顔を横目に見て、言った。
「石座の反対、腕の外側に、発火板を付けた。何か、尖った固いもの……君なら、爪でいいかな。それで引っ掻くと、火花が散る。着火剤に火をつけるのに、使えるよ。君らの場合、髪が着火剤のかわりになるだろう。万が一、必要に迫られたら、こうして火をつけられるってこと、覚えておくように」
手首を返す。ヘンゼルが言った通り、指輪の腕に、無骨な銅色の鉄板がついていた。ヘンゼルの心遣いだろうが、これは、ちょっと違うんじゃないかな、とルシカンテは思った。舞踏服の上に前掛けをつけるような、無粋な感じがする。ヘンゼルはきっと、女性に憧れられにくいに違いない。女心がわかっていない。
ルシカンテの微妙な表情には気付かず、ヘンゼルは、遠くを見つめながら言った。
「火は危ないから、君にこんなものを持たせるのは、すごく不安だ。バカに鉄砲になっちまうんじゃないかって。……だが、これからは、俺が火を付けてやる訳にはいかないからな」
ヘンゼルの言葉には、別離を惜しむ響きがあった。凝視すると、ヘンゼルは「視線がうるさい」とルシカンテを翅虫のように追い払った。その手で、荷台を指さす。
「君の舞踏服、持って来た。それ、その袋に……あっただろう。それに着替えな。王様に会うんだ。正装していかないと、失礼にあたるぜ」
そう言うものらしい。ルシカンテは、舞踏服を取り出して、ヘンゼルの隣に戻った。舞踏服は膝に置いて、小首を傾げる。
「王様さ、会って貰えるかな?」
「任せなさい。運を、天に」
「俺に任せなさい、って言ってくれないんだ?」
「甘えるんじゃねぇ」
けんもほろろに跳ね付けられて、ルシカンテは苦笑した。ついて来てくれないのは、わかっている。そこまで頼るつもりはない。それでも、もう少しだけ、一緒にいられたら良かったのに。
ルシカンテは、舞踏服を胸に抱いて立ちあがった。荷台に戻って、着替えることにする。仕切り布を引こうとした時、ヘンゼルが振り返らずに言った。
「君は、バカだが、良い娘だ。運命が、君を守りますように」
ルシカンテは、何も言わずに仕切り布を引いた。
「バカって、一言余計だよ」
そう呟いて、手の甲で目許をごしごしと拭った。もうじき、ヴァロワに到着する。新しい一日がはじまる。泣いている暇なんてない。最後を、笑顔で飾れるように、しておかなければ。