あなたが、殺したの?
裏切り……とはちょっと違いますが、主人公の大切な友達が主人公のもとを去ります
***
フィッターの事件が公になった直後、十席は騒然としていた。皆がフィッターの家を気味悪がり、避けて通った。バイスシタイン工房には、こどもたちが寄りつかなくなった。
時間は雪のように降り積もり、事件の爪痕を覆い隠す。七日もたてばほとぼりが冷め始め、こどもたちがちらほらと顔を出すようになった。ルシカンテはこどもたちとふざけ合いながら、一抹の寂しさを感じていた。フィッターはきっと、いずれこの街から忘れ去られてしまう。
示し合わせた訳では無いけれど、毎日、ヘンゼルとベンチに並んで、鳥の笛を鳴らした。窓は固く閉じられている。でも、きっとそこにいると、ヘンゼルは遠い目をして言った。
「フィッターさんとおかみさんは、今も二人並んで、あそこにいると思う」
それきり、ヘンゼルはフィッターの話をしなかった。連れて行かれたフィッターは帰ってこなかった。
平和な日々が、そよ風のように吹き抜けていく。ルシカンテの料理の腕前は、だいぶ上達した。調理の幅もぐっと広がった。揚げ物にも挑戦したかったが、ヘンゼルが断固反対した。
「ぼうっとしている君に、油を扱わせるだと? 考えただけで、ぞっとするね。火にかけていることをうっかり忘れて、火事を起こすに決まっている。却下だ、却下」
ルシカンテはむくれたが、ヘンゼルが
「これだけやれれば、十分だろう。最近は食事が楽しみになってきた。しっかり食っているから、体重もちょっと増えたし」
と付けたしたので、照れてしまって食い下がるのを忘れた。
ヘンゼルは人をおだてて、良い気分にさせるということが出来ない男だ。やろうとしては、余計なことを言ったり、表情に嘲りが出たりして、失敗している。その癖に、無意識のうちにこちらが恥ずかしくなるような褒め言葉を、さらっと口にすることがあるから始末が悪い。
そんなことがある度に、グレーテルが何処からかかけつけてきては、照れるルシカンテを指さして「ルシカンテが照れてるー! お兄ちゃんのすけべー!」と囃したて、ヘンゼルを喚かせた。
腹を抱えて笑ったり、赤面して喚いたり、頭にきてじたばたしたり。落ち込むことは少なくないけれど、ルシカンテの毎日はめまぐるしく、きらめいていた。ヘンゼルがヴァロワ行きの準備を着々とすすめるのを見て、ルシカンテは息が出来ない切なさを覚えた。
(ヴァロワさ行ったら、お別れなのかな)
ルシカンテはヘンゼルに「ヴァロワさ連れて行って」と頼んだ。ヘンゼルは了承した。二人の約束はそこで終わっている。
世間知らずのルシカンテでも、ヴァロワの王様がルシカンテの望みを簡単に聞き入れてくれるとは思っていない。王様に会えるあてもない。ヴァロワへ行ったあとが大変なのだ。だめでした、とすごすご引き下がるわけにはいかない。何が何でも王様にかけあって、派兵中止を嘆願しなければ。
時間がかかる。ヘンゼルとグレーテルは、ヴァロワに長居はしないだろう。二人はヴァロワに辛い思い出がある。
(ヴァロワさ行ったら、お別れなんだろうな)
別離を思うととても辛い。その先の苦労を思うよりも、身を引き裂かれるように辛い。
ルシカンテは先走る感傷を強く瞬きしてねじふせた。今から別れを思って、涙ぐんでいたら世話がない。先のことなら、ヴァロワでギャラッシカと二人でどうやって暮らすか、そちらを考えるべきだ。職を探して、なんとか頑張って生きていかなければならない。
ギャラッシカは、ルシカンテに何処までも付いて行くと言ってくれた。もしもギャラッシカがいなかったら、ルシカンテは不安のあまり、何も手につかなくなっていただろう。
ギャラッシカは、ルシカンテが何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まず傍に来て「大丈夫、大丈夫」とのどかに言ってくれる。そのおおらかさに何度救われたかわからない。
そのギャラッシカの様子がおかしい。
気がつくといつの間にか、ルシカンテの傍に大きな体でひっそりと控えている。声もかけずに、隠れるように寄り添っている。今まで一人でやっていた洗濯も、厩の掃除も、やろうとしない。何か用があるのかと尋ねても、訳を話してくれない。
埒が明かない。ルシカンテはギャラッシカと二人で、二人の仕事をすることにした。この日もギャラッシカと二人で浴室にこもり、洗濯物を洗っていた。
石鹸の泡をたてた水の中で、シャツを洗濯板に擦りつける。ルシカンテはそわそわと落ち着かないギャラッシカをちらりと盗み見て、ひそかに溜息をもらした。
ギャラッシカの異変の理由を、ルシカンテなりに色々と考えてみたのだ。思いつくのは、フィッターの家の前で、聖職者たちに取り囲まれたことである。ギャラッシカはあの後からおかしくなった。
紅い荷台の奥で、炯炯と光った青い瞳の持ち主が発した言葉を、いやがおうでも思い出す。
『お前は、如何な手品で門を潜り抜けたのです』
ルシカンテは邪推しないように自分を戒めていた。ギャラッシカがウメヲの着衣を着ていたことも、ウメヲと同じく肩に刺青を持っていることも、生肉しか食べないことも、青い瞳の人の不吉な言葉も、疑いたくなかった。
ギャラッシカはルシカンテの友達だ。ルシカンテがヘンゼルと打ち解けたのも、ギャラッシカの心添えがあればこそ。上滑りすることも少なくないけれど、ギャラッシカはいつもルシカンテの為を思ってくれている。疑うなんて、あんまりだ。
ルシカンテは洗濯物を念入りに濯ぐと、ギャラッシカにきつく絞って貰って脱水した。洗濯籠にまとめて入れると、ギャラッシカは洗濯籠を軽々と抱えた。ルシカンテが道具を片付けるのを待ち、ルシカンテがついて来るのを確認してから、二階へ上がる。
いつも通り、ギャラッシカがロープを引き、ルシカンテが洗濯物を伸ばし干していると、ドア・ノッカーが叩かれた。客の訪問はアロンソ以来だ。ルシカンテに緊張がはしる。
炊事場から、ぱたぱたとグレーテルが出て来た。「はいはーい!」と元気よく返事をして、扉を開ける。扉が破られるように開かれた。
グレーテルの体がどんと押され、尻持ちをつく。グレーテルの足を跨ぎ超え、アロンソがずかずかと入って来た。裏声まじりの上ずった、耳障りな声で喚く。
「ヘンゼルは何処だ!? 出ていらっしゃい! ヘンゼル!」
アロンソは感情を統率できず、激しい興奮と怒りをむき出しにしている。ヘンゼルが工房から出て来た。
「ようこそ、いらっしゃい。アロンソ様。如何したんです、そんなに慌てて」
アロンソは紫色に鬱血した唇をわなめかせている。瘧を起こしたように、体の何処かしらが間欠的に痙攣していた。
「使徒が来ます。お前のところの下働きをご所望なのですよ。その男は、検査の目を欺いて壁内に侵入した人喰いだと仰せでね」
ルシカンテの手から、ヘンゼルのシャツが滑り落ちる。はらはらと舞い落ちたシャツを、ギャラッシカが宙で掴んだ。
ギャラッシカはシャツを洗濯籠に放り込むと、ルシカンテの手首を掴んだ。
「ルシカンテ、話がある。来て」
唖然とするルシカンテの手を引いて、ギャラッシカは、ルシカンテの部屋へ飛びこんだ。下階で、アロンソが気が狂わんばかりに叫んでいる。
「いったいどういうことだ! お前はっ、人喰いを壁の内側に招き入れたのか! 人喰いなら、淵で十分に狩れるだろう! なぜ壁内に連れ込んだ!? わかっているのか、秘密がばれたら、おれもお前も破滅する! おれの、お前の、夢の暮らしは海の藻屑だぞ! お前はなんてことをしでかしてくれたんだ!」
ルシカンテを部屋に押し入れると、ギャラッシカは、後手に扉を閉めた。寝台や化粧箪笥をひょいと持ち上げ、扉の前に応急の防壁を築きあげる。
「なに……してるの?」
「ルシカンテが、逃げないようにしているんだよ」
ルシカンテはギャラッシカの背中を見つめていた。彼が勢いよく振り返ると、肩が跳ねあがる。
ギャラッシカはゆるゆると首を横に振った。
「怯えないで、大丈夫。怖くない」
「ギャラッシカ……」
怖がってなんていない。怖がる必要がない。そう言おうとしたのに、唇からは悲鳴になり損ねた、引き攣れた音が出た。
ギャラッシカの体がお仕着せの中で膨れた。ギャラッシカの肌が、黒く固く変質していく。頭から二本の角がねじれつつ伸びて、鼻先から、湾曲した角がそそりたつ。
隆起した胸がお仕着せの布地を引き裂く。二の腕、太ももと、お仕着せの布地が破られていく。
蛹から蝶が羽化するように、黒曜石の人型が人の皮を破った。肩甲骨の辺りがびきびきと裂け、凍り葉のように透き通った被膜の翼が、亀裂から滑り出す。骨組がぬらぬらと光り、被膜は朝露に濡れた花弁のようだ。影の民の姿である。
変態した影の民が、大きな足で一歩を踏み出した。ルシカンテは怯え、後ずさる。影の民はゆるゆると首を横に振る。ギャラッシカと同じ仕草だ。
「思い出す。ルシカンテ。この姿デ一度会っテいる」
聞きとりにくい籠った声で、影の民が言った。目の前にいるのは、居住区へやって来てウメヲを淵へ連れて行った、あの影の民だった。空高くから落とされたウメヲを助けてくれた筈の、影の民である。
ルシカンテはへたりこんでしまいそうだった。頭がくらくらして、吐き気がする。壁に縋りついて、なんとか立っていた。ついさっきまで、ギャラッシカだった筈の影の民を前にして、足が震える。
「ギャラッシカ……あんたは、影の民……人喰い……なの?」
「ひとガそう呼ばわるものだ」
「でも……検査では、大丈夫だって……どこにも、人喰いの印はなかったって……!」
ルシカンテは消え入りそうな叫び声を上げた。ギャラッシカは胸のあたりをとんと拳で叩く。下腕についたぎざぎざの棘が、しなやかに揺れる。
「過去、短い期間二繰り返し、何度モ心臓ヲ抉りだされた。コノ心臓、自分ヲ守る為、体の奥に潜んだ。血肉ヲもつ、ホボノノト同じ。コノ心臓ハ、とても珍しい」
ギャラッシカが歩み寄って来る。ルシカンテの脳裏に、人喰いクマに虐殺されたヴァロワの収集兵たちの、惨たらしい屍が過った。ルシカンテは、ひっと悲鳴を上げて、屈みこむ。
ギャラッシカはルシカンテを見下ろしていた。やがて殻を軋ませて、ルシカンテの横を通り過ぎる。窓辺にたち、窓硝子をこつこつと叩いた。
ルシカンテが怖々と顔を上げると、ギャラッシカは鼻先から伸びた、サイのような角で窓の下を指示した。
ルシカンテが当惑していると、ギャラッシカは、ゆっくりと後ずさり、場所を譲った。ルシカンテは、胸の前で手を握り合わせ、そろそろと窓から下を覗く。そこには紅い箱馬車がとまっていた。
「アレハ、影ノ民ト同じ。きっと、コノ心臓ヲ、欲しがる。……ここ二ハ、もう、居られない」
ギャラッシカは、ルシカンテをじっと見つめた。ルシカンテを怯えさせるのがわかっているから、距離を詰めない。その配慮が、ルシカンテの心を掻き乱す。
ギャラッシカは温度の無い声で、どこか悲しそうに言った。
「ルシカンテヲ連れテ行きたい……連れテ行けない。ひとりデここヲ去る」
ギャラッシカはゆっくりと転向すると、扉の前に積み上げた、化粧棚と寝台を元の位置に戻した。その逞しいひろい背中は、ギャラッシカのものだ。ルシカンテはこの大きな体に安らぎを覚えていた。ウメヲによく似ていたからだ。
「その体は……爺さまの、体? あんた、爺さまの体さ寄生したの? 爺さまば、殺したの?」
自分のものとは思えないくらい、しわがれ声がルシカンテの喉をついて出た。
ギャラッシカはじっとルシカンテを見つめ返す。純粋無垢なこどものような瞳が、ルシカンテを激昂させた。ルシカンテは拳を握りしめ、怒鳴った。
「答えろ! お前が、爺さまば殺したのけ! 爺さまの体ば乗っ取ったのけ!」
「違う」
ギャラッシカはきっぱりと否定した。だがその直後に、強い眼差しが揺らいだ。もどかしそうに、言葉を探している。そして、棘を呑みこむように、身悶えながら言った。
「……僕が殺した。そうかも知れない。ウメヲ、影ノ民二空から落とされた。僕ガ掟ヲ破り、ウメヲの敵を殺したから。制裁を加える為、影の民ガやった。ウメヲ、冷たい川二落とされタ。すぐ二引き上げた。でも、もう、心臓ガとまっテしまっテいた。ウメヲ、魂の翼デ命の故郷、天野原ヘ還った」
魂の故郷へ還った。死んで、生まれ変わる。そのために。
その言葉は、ルシカンテの頭上に、そうして恐らくはギャラッシカの頭上にも、等しい重さを伴い落とされた。
ギャラッシカは、喀血するように、苦しい言葉を発した。
「ウメヲ……助けたかった。でも、銀にとかされたせいで、力ガ出なかった。力ガ及ばなかった。ギャラッシカノせいデ、ウメヲの魂はいってしまった。……ルシカンテ、僕を憎んでいる」
最後の一言は、身を切るように痛切で、語尾に疑問符がついていた。ギャラッシカはウメヲにも同じように尋ねていた。怒っている? と。ウメヲは首を横にふっていた。怒っていない。お前は悪くない。
ギャラッシカはいつもルシカンテにそう言ってくれた。ルシカンテはなにも悪くない。
だが、ルシカンテには、その言葉がどうしても言えなかった。ギャラッシカのせいだとか、そうじゃないとか。憎むとか、許すとか。そんなことは、ウメヲの死と言う、圧倒的な絶望の前に木端微塵に吹き飛んでしまっていた。
ギャラッシカはややあって、言った。
「ギャラッシカが、悪い。ルシカンテは、ギャラッシカが憎い」
ルシカンテは何も言えなかった。スカートの裾を握り締めて、俯いていた。ギャラッシカは自らの胸に刃を突き立てるように、同じ言葉を繰り返している。
ギャラッシカはのそのそと窓辺に移動した。窓を開け放った。ぎしぎしと階段が軋む音がする。
ギャラッシカは窓枠に足をかけた。ルシカンテがはっとして顔をあげる。ギャラッシカはルシカンテを見つめていた。固い輝殻に表情は出ないが、瞳が悲しそうに微笑んだようだった。
「ルシカンテ二憎まれルのハ、ギャラッシカガ悪い。ルシカンテハ悪くない。悲しい顔、しないんだよ」
ルシカンテは両手で口元を押さえた。嗚咽が漏れそうだった。何か言おうとしたとき、 扉が、ノックされた。ヘンゼルの声がする。
「二人とも、ここにいるのか。話がある。入るぞ」
扉を開いたヘンゼルが目を剥いた。ギャラッシカは、ベランダの手すりに飛び乗る。紅い目がヘンゼルを睨みつける。
「思い通りカ、ヘンゼル」
ギャラッシカが牙を剥いた。輝殻と同じ黒い牙が、深紅の口腔の中でぎらついている。
「お前ハ鞭カラ、ルシカンテヲ守った。だから、今ハお前ヲ殺さない。守れ。ルシカンテヲ守れ。お前ノ肉ハ喰わない。しくじったラ、八つ裂き二しテ海二撒く」
ギャラッシカは俊敏に跳躍した。フィッターの家の屋根にとび移ると、助走をつけて屋根を蹴り、被膜の翼を羽ばたかせて飛び立った。
大きな鳥のような影を、ルシカンテは呆然として見上げていた。窓の下から、年齢も性別も不詳の声が上がる。
「ヘンゼル・バイスシタイン」
ルシカンテと同じように呆然としていたヘンゼルが、窓枠に飛びつき下を覗きこむ。箱馬車から、聖職者がひとり降りていた。その傍らに、アロンソが慇懃に控えている。聖職者は厳かに告げた。
「神の名の許に、ヘンゼル・バイスシタインに命じる。彼の者を生け捕り、神の御前に差し出しなさい。明朝に出立せよ。彼の者を捕えぬ限り、使徒の地を踏むこと、罷りならぬ」
聖職者はそれだけ言い伝えると、去って行った。アロンソも去った。ギャラッシカも、去ってしまった。
ルシカンテは床に座り込んだ。窓を閉めたヘンゼルが、ルシカンテの傍らに膝をつき、気遣わし気にルシカンテの顔を覗きこむ。
「ルシカンテさん?」
「爺さま……待ってれって、言ってたのに……」
ヘンゼルが目を瞠る。ルシカンテの口は勝手に喋っていた。
「帰ってくるから……待ってれって、言って出て行ったのに……ギャラッシカ、ずっと一緒について来るって、言ってたのに……うそつき。うそつき……!」
涙が、堰を切って出て来た。ルシカンテは、憚ることなく号泣した。心がぐちゃぐちゃだった。ヘンゼルの手が、遠慮がちに肩に回される。ルシカンテはヘンゼルの胸に飛び込んだ。ヘンゼルの胸を叩き、うそつき、うそつきと泣き叫ぶ。
ヘンゼルの体が震えた。
同じ憤りと悲しみを共有している気がした。
これにて、三章が終わりになります。あとは、四章とエピローグを残すのみ! このまま一気に終わりまで駆け抜けます。




