とても、悲しいから
ヘンゼルの部屋と自室の前を行ったり来たりする。たっぷり時間をかけて悩んだ末に、悩むことがばかばかしくなった。思い切って、ヘンゼルの部屋の扉をノックした。すぐに応答がある。
「誰?」
「……ルシカンテ」
「なに、どうした?」
ルシカンテは口籠った。傷は大丈夫? 辛くない? そう言ったところで、大丈夫、平気。と答えられたら、すごすごと引き下がらなければならなくなるだろう。お義理で心配をしに来たのではない。
ヘンゼルが苛々して怒鳴ってくれたらいいのに、と思った。そうしたらルシカンテもいつもの調子で、ちょっと入らせて貰うよ、と切り出しやすいのに。
ところが、ヘンゼルは穏やかに、笑みさえ滲ませて言った。
「どうぞ、入って」
ルシカンテは静電気がはしったみたいに、ぱっと取手から手をひいた。何度か同じことを繰り返してようやく、扉を開く。
ヘンゼルは窓を開けていた。タバコを咥えていて、紫煙がもくもくと部屋の低い処を漂っている。ヘンゼルはルシカンテをちらりと見ると、まだ長いタバコを灰皿でもみ消し、寝台に仰向けになった。目を閉じている。
シャツを着ているが、白い布地をすかせて赤い傷痕が見えてしまいそうだ。ルシカンテは目のやり場に困って、視線を泳がせた。
ヘンゼルの部屋は、来て日が浅いルシカンテの部屋より殺風景だった。寝台と箪笥しかない。寝て起きて、着替えをする為だけの部屋だ。ここで何か楽しいことをして、一人の時間を楽しむ気配は、ない。白い壁がヤニで黄ばんでいるから、タバコで一服することが、唯一の楽しみなのかもしれない。
ヘンゼルは、半分目を開けて、立ち尽くしているルシカンテを見た。
「もう繕ってくれたのか?」
言葉は、ルシカンテが胸に抱えているシャツをさしている。ルシカンテは、ふるふると首を横にふった。ヘンゼルが、片眉を跳ね上げる。ルシカンテは、おずおずと寝台の前まで行くと、ぺこりと頭を下げた。
「けが、すごく痛いっしょ。……ごめんな。おらが、余計なことばすっから」
「余計なこと、どころか。お陰様で、この程度で済んだのさ」
ヘンゼルが笑う。ルシカンテは苦々しい気持ちになった。
ヘンゼルの腹の虫は変だ。ちょっとしたことですぐに騒ぎ出すのに、ここぞという時は大人しい。
ルシカンテはヘンゼルに、とても迷惑をかけた。感情的になってヘンゼルを罵り、聖職者の邪魔をして連れ去られそうになり、アロンソからヘンゼルを守るつもりで飛び出して、逆に守られた。ヘンゼルは今こそ腹をたてて、ルシカンテを責め詰るべきなのに。
ふと、ヘンゼルは本当に小遣い稼ぎの為に、フィッターに指輪を作ってやったのだろうかと疑問に思った。ヘンゼルはフィッターが狂気にのまれたことを知っていた。狂気の世界に住んでいたフィッターは、死体を隠そうとしなかった。彼にとって、死体は死体ではなかったから。だから、死体が発見されるのは時間の問題だと、ヘンゼルには分かっていたに違いない。輝石の装身具工房は、片手の指で数えて足りるくらいしかないと言っていた。
死体と一緒に指輪は発見され、ヘンゼルはアロンソに呵責される。そのことが利口なヘンゼルにはわかっていた筈だ。
それなのに、ヘンゼルは指輪をつくって届けてやった。フィッターに話を合わせてやっていた。それは、どうしてだろう。
(ヘンゼルは、フィッターさんのことが、好きだったんだ。フィッターさんの為に、やったんだ)
ルシカンテは寝台の前に跪いた。ヘンゼルの投げ出された左手に、両手を重ねる。ヘンゼルがそろりとルシカンテを見た。ルシカンテはヘンゼルの左手の薬指をそっと撫でて、言った。
「フィッターさんのおかみさん、ちゃんと、指輪ばつけていたよ」
ヘンゼルががばりと上体を起こした。片膝を抱える。伏せた顔は、髪に隠れて見えない。左手は、震えている。ヘンゼルは囁くような声で言った。
「フィッターさんは、狂ってなんかない。おかみさんは、本当に、生きているんだ。フィッターさんに微笑みかけて、冗談を言って笑わせて、たまに拗ねてみせて、楽しそうに笑っているんだよ。婚約指輪、すごく喜んでくれたって、フィッターさんが言っていたんだ。すごく、幸せそうに笑ってさ」
ヘンゼルの声が罅割れた。
「それでいいじゃないか。フィッターさんは、それで幸せなんだ。そうでないと、生きていけない……どうして、そっとしておいてやれないんだ、どうして!」
丸めた背中が哀れだった。固い殻を剥ぎ取られて、弱い生身が震えている。ルシカンテはああそうだったのか、とすとんと腑に落ちた。
怒りは体力も気力も消耗する。今のヘンゼルには、怒りにさく余力が無かったのだ。悲しみを堪えるので精いっぱいだった。
ルシカンテはヘンゼルの左手をぎゅっと握った。
「ごめんな」
心ない言葉を吐いて、心にもない言葉を吐かせて。ルシカンテなんかよりヘンゼルの方がよっぽど、フィッターの死に打ちのめされていたのに、知りもしないで。
ルシカンテは気の利いた言葉でヘンゼルを慰めることは出来ない。踏み込んで、抱きしめてやることも出来なかった。でも、繋いだ手は放さなかった。そして、ヘンゼルも振り払わなかった。
(涙が枯れるまで泣けばいい。あんたの涙はきっと熱くて、フィッターさんのおかみさんの足ば凍らせたりしねぇから)
どれくらい、そうしていただろう。ルシカンテの体には、煉瓦のような虚脱感が張りついている。瞼が重く、目をあけていられない。こんな時に、眠たくなるなんて、薄情者はどっちだ。と自分を叱咤して、ルシカンテは眠気と闘っていた。しきりに瞬きをして、頭をぶるぶると降って眠気を払いのけようとした。だが、眠気はしつこく付きまとい、ルシカンテはいつの間にか眠ってしまったらしい。
がくん、と重い頭が肩に落ちて、ルシカンテは唐突に目覚めた。肩からシーツがはらりと落ちる。ルシカンテを見下ろしている、ヘンゼルがかけてくれたのだろう。
ルシカンテは習い性でヘンゼルを見返した。ヘンゼルは決まり悪そうに目を逸らす。目許にまだ赤みが残っていた。決まりが悪そうだ。弁舌は歯切れが悪い。
「君……腹が空かないか」
窓の外の空は茜色に染まり、建物の影を黒く焼きつけている。ヘンゼルは右手で顔を擦った。
「昼飯……抜いちまった。あの男が腹を空かせて、そのへんのこどもにかぶりついていなきゃいいけど」
キレは良くないが、いつもの軽口である。ルシカンテはほっとして、茶化した。
「あの男って、ギャラッシカのこと? ギャラッシカはお行儀が良いから、ちゃんと切って皿に盛ってやった肉じゃねぇと、口ばつけないよ」
「その上で、君がよしと言わなきゃ、食わないんだろ。忠良なわん公だね。ご主人様の言う事以外、聞く耳をもたない。いったい、どうやって躾けたんだい」
ルシカンテは笑った。
「十年くらい前だったかな。カシママのこけら落としがあった、次の日だよ。あっ、カシママのこけら落としって、あんたらが言うところの、銀蝋のおおもとが弾けて、流れ星みたいに降ることば言うの。銀蝋ば探しさいったおらいの爺さまが、淵さ行き倒れてたギャラッシカば連れ帰って、介抱したんだ。そんときのことば恩にきているみたい。義理がたい子だよ」
ヘンゼルが僅かに目を瞠る。
「十年前の、銀の星が降る夜」
ルシカンテはこくりと頷いた。
「んだんだ。あれっきり、ないけどね。あんたも覚えてるの? ヴァロワから見えた?」
「いいや」
ヘンゼルはついと顔を背けた。それ以上話さない。彼は、頑固だ。沈黙と決めたら、とことん貫くだろう。ルシカンテは話の穂をつぎかえた。
「ギャラッシカがあんたさ懐かないのは、あんたのせい。あんた、ギャラッシカのことばよく構わねぇからだよ。ギャラッシカは、人見知りばしてんの。あんたから、にこやかに話しかけてやれば、ギャラッシカも安心するよ。まず、あの男なんて呼ばないで、ちゃんと名前で呼んだげて。ギャラッシカって、立派な名前があるんだから」
「あの男は俺と仲良くなりたいだなんて、露ほども思っちゃいないな。奴は、俺を邪魔者だと思っているよ。俺が君と仲良くしているからさ」
ルシカンテは噎せそうになった。仲好く、なったのか。ヘンゼルはルシカンテと親しくなったと思っていたのか。つまり、好きか嫌いかどちらかというと、好きなのか。
「おい、君? どうした、いつもより変な顔をしているぜ」
いつも、変な顔をしている前提である。ルシカンテはヘンゼルの悪童のような笑顔を睨みあげた。
ヘンゼルの言う通り、ふたりが仲良くなったなら、文句をつけても差し支えがないだろうと、常々、心にひっかかっていた不満を漏らす。
「ギャラッシカはそんなことば気にしない。それに、仲良くなったって言っても、ヘンゼル……あんたさ。おらの名前も、呼んでくれないよね」
ヘンゼルの口が、あんぐりと開く。「えっ?」と彼は、素っ頓狂な声を上げた。
「呼んだこと、なかったっけ。別にいいだろう。呼ばなくたって、事足りるってことだ」
「おい、とか、君、とかで、いいわけねぇべや! 呼ばれてるのがわかれば、いいってもんじゃねぇ! おらの名前は、火のカシママが付けてくれた、大切な名だ。名前を呼び合って、はじめて真の信頼ば寄せ合えるんだすけ、ちゃんと名前ば呼べ!」
ヘンゼルはルシカンテの剣幕にいささか腰が引けている。彼は、寝ぼけているようにぼんやりと言った。
「君は、俺のこと……信じているの?」
「また、君って言った!」
名前を呼べ、と喚き散らす。ヘンゼルはわかった、わかった、とおめいた。ルシカンテにずいと顔を近づける。長い睫毛が、ルシカンテの睫毛と絡まりそうなくらい、顔が近い。
大人しくなった、というか、固まったルシカンテに、ヘンゼルは失笑した。呆れたような、憐れむような、複雑な翳りのある微笑み方で。
「ルシカンテさんは、バカだな」
ルシカンテは、ぱちぱちと瞬きした。聞き間違えかもしれない。ルシカンテは、確認してみた。
「ルシカンテ……さん」
ヘンゼルはむっとした。ぐいと上体を起こし、ルシカンテをにらむ。
「なんだよ。名前を呼べって、うるさくごねたのは、……ルシカンテさんだぞ」
「なして、さん付け?」
ヘンゼルはルシカンテを食い入るように見つめた。軽く肩を竦める。
「ホボノノではどうか知らないけど……人の名前に敬称をつけるのは、こっちじゃおかしなことじゃないよ」
でも、とルシカンテは食い下がった。敬称をつけられるのは、落ちつかない。なんだか、もやもやする。
「グレーテルのことば、呼び捨てにしてるでねぇか」
「あれは妹」
「ママ・ローズのことも」
「ママは、ここの言葉で「お母さん」。ママ・ローズは、ローズお母さんって意味だよ。まぁ、仇名みたいなもんかな」
「……おらは、ヘンゼルって、あんたのことば呼び捨てさしてる」
「ああ、そうだったな。初対面からいきなり呼び捨てだった。なんて礼義知らずなガキだろうと思ったぜ。でもまぁ、もうそれでいいよ。俺も慣れたし、今じゃなんとも思っていない」
ヘンゼルは意地悪をしているのではない。本当に、呼び捨てにする必要性を感じていないのだ。ル
シカンテはずっしりとした徒労を肩に感じた。ヘンゼルが両腕をひろげて待っていたから飛びついたのに、それは陽炎で、本物はずっと向こうにいたのだ。どっと疲れた。
ルシカンテはヘンゼルを恨みがましく見上げた。洗われたような、さっぱりとした顔を見ていると、むかむかと騒いでいた腹の虫が、すうっと大人しくなる。
ヘンゼルは寝台から足を投げ出して、立ち上がった。ルシカンテも、引き摺られて立ち上がる。握ったままだったヘンゼルの左手が、ルシカンテの右手を握っていた。
「腹減った。飯だ、飯。気張ってつくり給え。今ならとんでもないものを出さない限り、文句をつけられなくて済みそうだぞ。空腹は、最高の調味料だからな」
ルシカンテはぐいぐいと引き摺られながら、失敬な言葉を浴びせられながら、へらへら笑っていた。自分でもよくわからないけれど、胸の中がほっこりと暖かかった。




