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ヘンゼルと悪い魔女  作者: 銀ねも
第三章「不吉な牙が胸を噛む」
38/65

とても、悲しいから

 ヘンゼルの部屋と自室の前を行ったり来たりする。たっぷり時間をかけて悩んだ末に、悩むことがばかばかしくなった。思い切って、ヘンゼルの部屋の扉をノックした。すぐに応答がある。


「誰?」

「……ルシカンテ」

「なに、どうした?」


 ルシカンテは口籠った。傷は大丈夫? 辛くない? そう言ったところで、大丈夫、平気。と答えられたら、すごすごと引き下がらなければならなくなるだろう。お義理で心配をしに来たのではない。

 ヘンゼルが苛々して怒鳴ってくれたらいいのに、と思った。そうしたらルシカンテもいつもの調子で、ちょっと入らせて貰うよ、と切り出しやすいのに。

 ところが、ヘンゼルは穏やかに、笑みさえ滲ませて言った。


「どうぞ、入って」


 ルシカンテは静電気がはしったみたいに、ぱっと取手から手をひいた。何度か同じことを繰り返してようやく、扉を開く。

 ヘンゼルは窓を開けていた。タバコを咥えていて、紫煙がもくもくと部屋の低い処を漂っている。ヘンゼルはルシカンテをちらりと見ると、まだ長いタバコを灰皿でもみ消し、寝台に仰向けになった。目を閉じている。

 シャツを着ているが、白い布地をすかせて赤い傷痕が見えてしまいそうだ。ルシカンテは目のやり場に困って、視線を泳がせた。

 ヘンゼルの部屋は、来て日が浅いルシカンテの部屋より殺風景だった。寝台と箪笥しかない。寝て起きて、着替えをする為だけの部屋だ。ここで何か楽しいことをして、一人の時間を楽しむ気配は、ない。白い壁がヤニで黄ばんでいるから、タバコで一服することが、唯一の楽しみなのかもしれない。

 ヘンゼルは、半分目を開けて、立ち尽くしているルシカンテを見た。


「もう繕ってくれたのか?」


 言葉は、ルシカンテが胸に抱えているシャツをさしている。ルシカンテは、ふるふると首を横にふった。ヘンゼルが、片眉を跳ね上げる。ルシカンテは、おずおずと寝台の前まで行くと、ぺこりと頭を下げた。


「けが、すごく痛いっしょ。……ごめんな。おらが、余計なことばすっから」

「余計なこと、どころか。お陰様で、この程度で済んだのさ」


 ヘンゼルが笑う。ルシカンテは苦々しい気持ちになった。

 ヘンゼルの腹の虫は変だ。ちょっとしたことですぐに騒ぎ出すのに、ここぞという時は大人しい。

 ルシカンテはヘンゼルに、とても迷惑をかけた。感情的になってヘンゼルを罵り、聖職者の邪魔をして連れ去られそうになり、アロンソからヘンゼルを守るつもりで飛び出して、逆に守られた。ヘンゼルは今こそ腹をたてて、ルシカンテを責め詰るべきなのに。

 ふと、ヘンゼルは本当に小遣い稼ぎの為に、フィッターに指輪を作ってやったのだろうかと疑問に思った。ヘンゼルはフィッターが狂気にのまれたことを知っていた。狂気の世界に住んでいたフィッターは、死体を隠そうとしなかった。彼にとって、死体は死体ではなかったから。だから、死体が発見されるのは時間の問題だと、ヘンゼルには分かっていたに違いない。輝石の装身具工房は、片手の指で数えて足りるくらいしかないと言っていた。

 死体と一緒に指輪は発見され、ヘンゼルはアロンソに呵責される。そのことが利口なヘンゼルにはわかっていた筈だ。

 それなのに、ヘンゼルは指輪をつくって届けてやった。フィッターに話を合わせてやっていた。それは、どうしてだろう。


(ヘンゼルは、フィッターさんのことが、好きだったんだ。フィッターさんの為に、やったんだ)


 ルシカンテは寝台の前に跪いた。ヘンゼルの投げ出された左手に、両手を重ねる。ヘンゼルがそろりとルシカンテを見た。ルシカンテはヘンゼルの左手の薬指をそっと撫でて、言った。


「フィッターさんのおかみさん、ちゃんと、指輪ばつけていたよ」


 ヘンゼルががばりと上体を起こした。片膝を抱える。伏せた顔は、髪に隠れて見えない。左手は、震えている。ヘンゼルは囁くような声で言った。


「フィッターさんは、狂ってなんかない。おかみさんは、本当に、生きているんだ。フィッターさんに微笑みかけて、冗談を言って笑わせて、たまに拗ねてみせて、楽しそうに笑っているんだよ。婚約指輪、すごく喜んでくれたって、フィッターさんが言っていたんだ。すごく、幸せそうに笑ってさ」


 ヘンゼルの声が罅割れた。


「それでいいじゃないか。フィッターさんは、それで幸せなんだ。そうでないと、生きていけない……どうして、そっとしておいてやれないんだ、どうして!」


 丸めた背中が哀れだった。固い殻を剥ぎ取られて、弱い生身が震えている。ルシカンテはああそうだったのか、とすとんと腑に落ちた。

 怒りは体力も気力も消耗する。今のヘンゼルには、怒りにさく余力が無かったのだ。悲しみを堪えるので精いっぱいだった。

 ルシカンテはヘンゼルの左手をぎゅっと握った。


「ごめんな」


 心ない言葉を吐いて、心にもない言葉を吐かせて。ルシカンテなんかよりヘンゼルの方がよっぽど、フィッターの死に打ちのめされていたのに、知りもしないで。

 ルシカンテは気の利いた言葉でヘンゼルを慰めることは出来ない。踏み込んで、抱きしめてやることも出来なかった。でも、繋いだ手は放さなかった。そして、ヘンゼルも振り払わなかった。


(涙が枯れるまで泣けばいい。あんたの涙はきっと熱くて、フィッターさんのおかみさんの足ば凍らせたりしねぇから)


 どれくらい、そうしていただろう。ルシカンテの体には、煉瓦のような虚脱感が張りついている。瞼が重く、目をあけていられない。こんな時に、眠たくなるなんて、薄情者はどっちだ。と自分を叱咤して、ルシカンテは眠気と闘っていた。しきりに瞬きをして、頭をぶるぶると降って眠気を払いのけようとした。だが、眠気はしつこく付きまとい、ルシカンテはいつの間にか眠ってしまったらしい。

 がくん、と重い頭が肩に落ちて、ルシカンテは唐突に目覚めた。肩からシーツがはらりと落ちる。ルシカンテを見下ろしている、ヘンゼルがかけてくれたのだろう。

 ルシカンテは習い性でヘンゼルを見返した。ヘンゼルは決まり悪そうに目を逸らす。目許にまだ赤みが残っていた。決まりが悪そうだ。弁舌は歯切れが悪い。 


「君……腹が空かないか」


 窓の外の空は茜色に染まり、建物の影を黒く焼きつけている。ヘンゼルは右手で顔を擦った。


「昼飯……抜いちまった。あの男が腹を空かせて、そのへんのこどもにかぶりついていなきゃいいけど」


 キレは良くないが、いつもの軽口である。ルシカンテはほっとして、茶化した。


「あの男って、ギャラッシカのこと? ギャラッシカはお行儀が良いから、ちゃんと切って皿に盛ってやった肉じゃねぇと、口ばつけないよ」

「その上で、君がよしと言わなきゃ、食わないんだろ。忠良なわん公だね。ご主人様の言う事以外、聞く耳をもたない。いったい、どうやって躾けたんだい」


 ルシカンテは笑った。


「十年くらい前だったかな。カシママのこけら落としがあった、次の日だよ。あっ、カシママのこけら落としって、あんたらが言うところの、銀蝋のおおもとが弾けて、流れ星みたいに降ることば言うの。銀蝋ば探しさいったおらいの爺さまが、淵さ行き倒れてたギャラッシカば連れ帰って、介抱したんだ。そんときのことば恩にきているみたい。義理がたい子だよ」


 ヘンゼルが僅かに目を瞠る。


「十年前の、銀の星が降る夜」


 ルシカンテはこくりと頷いた。


「んだんだ。あれっきり、ないけどね。あんたも覚えてるの? ヴァロワから見えた?」

「いいや」


 ヘンゼルはついと顔を背けた。それ以上話さない。彼は、頑固だ。沈黙と決めたら、とことん貫くだろう。ルシカンテは話の穂をつぎかえた。


「ギャラッシカがあんたさ懐かないのは、あんたのせい。あんた、ギャラッシカのことばよく構わねぇからだよ。ギャラッシカは、人見知りばしてんの。あんたから、にこやかに話しかけてやれば、ギャラッシカも安心するよ。まず、あの男なんて呼ばないで、ちゃんと名前で呼んだげて。ギャラッシカって、立派な名前があるんだから」

「あの男は俺と仲良くなりたいだなんて、露ほども思っちゃいないな。奴は、俺を邪魔者だと思っているよ。俺が君と仲良くしているからさ」


 ルシカンテは噎せそうになった。仲好く、なったのか。ヘンゼルはルシカンテと親しくなったと思っていたのか。つまり、好きか嫌いかどちらかというと、好きなのか。


「おい、君? どうした、いつもより変な顔をしているぜ」


 いつも、変な顔をしている前提である。ルシカンテはヘンゼルの悪童のような笑顔を睨みあげた。

 ヘンゼルの言う通り、ふたりが仲良くなったなら、文句をつけても差し支えがないだろうと、常々、心にひっかかっていた不満を漏らす。


「ギャラッシカはそんなことば気にしない。それに、仲良くなったって言っても、ヘンゼル……あんたさ。おらの名前も、呼んでくれないよね」


 ヘンゼルの口が、あんぐりと開く。「えっ?」と彼は、素っ頓狂な声を上げた。


「呼んだこと、なかったっけ。別にいいだろう。呼ばなくたって、事足りるってことだ」

「おい、とか、君、とかで、いいわけねぇべや! 呼ばれてるのがわかれば、いいってもんじゃねぇ! おらの名前は、火のカシママが付けてくれた、大切な名だ。名前を呼び合って、はじめて真の信頼ば寄せ合えるんだすけ、ちゃんと名前ば呼べ!」


 ヘンゼルはルシカンテの剣幕にいささか腰が引けている。彼は、寝ぼけているようにぼんやりと言った。


「君は、俺のこと……信じているの?」

「また、君って言った!」


 名前を呼べ、と喚き散らす。ヘンゼルはわかった、わかった、とおめいた。ルシカンテにずいと顔を近づける。長い睫毛が、ルシカンテの睫毛と絡まりそうなくらい、顔が近い。

 大人しくなった、というか、固まったルシカンテに、ヘンゼルは失笑した。呆れたような、憐れむような、複雑な翳りのある微笑み方で。


「ルシカンテさんは、バカだな」


 ルシカンテは、ぱちぱちと瞬きした。聞き間違えかもしれない。ルシカンテは、確認してみた。


「ルシカンテ……さん」


 ヘンゼルはむっとした。ぐいと上体を起こし、ルシカンテをにらむ。


「なんだよ。名前を呼べって、うるさくごねたのは、……ルシカンテさんだぞ」

「なして、さん付け?」


 ヘンゼルはルシカンテを食い入るように見つめた。軽く肩を竦める。


「ホボノノではどうか知らないけど……人の名前に敬称をつけるのは、こっちじゃおかしなことじゃないよ」


 でも、とルシカンテは食い下がった。敬称をつけられるのは、落ちつかない。なんだか、もやもやする。


「グレーテルのことば、呼び捨てにしてるでねぇか」

「あれは妹」

「ママ・ローズのことも」

「ママは、ここの言葉で「お母さん」。ママ・ローズは、ローズお母さんって意味だよ。まぁ、仇名みたいなもんかな」

「……おらは、ヘンゼルって、あんたのことば呼び捨てさしてる」

「ああ、そうだったな。初対面からいきなり呼び捨てだった。なんて礼義知らずなガキだろうと思ったぜ。でもまぁ、もうそれでいいよ。俺も慣れたし、今じゃなんとも思っていない」


 ヘンゼルは意地悪をしているのではない。本当に、呼び捨てにする必要性を感じていないのだ。ル

 シカンテはずっしりとした徒労を肩に感じた。ヘンゼルが両腕をひろげて待っていたから飛びついたのに、それは陽炎で、本物はずっと向こうにいたのだ。どっと疲れた。

 ルシカンテはヘンゼルを恨みがましく見上げた。洗われたような、さっぱりとした顔を見ていると、むかむかと騒いでいた腹の虫が、すうっと大人しくなる。


 ヘンゼルは寝台から足を投げ出して、立ち上がった。ルシカンテも、引き摺られて立ち上がる。握ったままだったヘンゼルの左手が、ルシカンテの右手を握っていた。


「腹減った。飯だ、飯。気張ってつくり給え。今ならとんでもないものを出さない限り、文句をつけられなくて済みそうだぞ。空腹は、最高の調味料だからな」


 ルシカンテはぐいぐいと引き摺られながら、失敬な言葉を浴びせられながら、へらへら笑っていた。自分でもよくわからないけれど、胸の中がほっこりと暖かかった。



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