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ヘンゼルと悪い魔女  作者: 銀ねも
第三章「不吉な牙が胸を噛む」
37/65

鞭を振るう男

***


 ルシカンテとギャラッシカは、少し距離を置いてヘンゼルに従った。迷惑をかけたのだから、謝らなくてはならないと頭の片隅で思った。だが、頭のほとんどは、靄がかかったようにぼうっとしていて、つかいものにならなかった。

 ヘンゼルはいったん、部屋へ上着を取りに戻ると言う。ルシカンテとギャラッシカには、部屋で休むように勧めた。

ルシカンテとギャラッシカは、一言も口を利かずに廊下で別れ、各々の部屋に戻った。ルシカンテは扉に背をつけて、ずるずるとへたり込む。膝に顔を埋めた。

おかみさんに指輪を贈るのだとはにかんだ、フィッターの幸せそうな顔と腐乱した左手の薬指が、瞼の奥でちかちかしている。

 扉を隔てた向こう側で、出入り口の大扉のドアノッカーが叩かれた。ルシカンテはびくりと身を竦めた。お客さん、だろうか。ルシカンテが来てからここを訪ねて来たのは、フィッターだけだった。すん、と鼻を啜ると、ドアノッカーが今一度叩かれる。今度は、いささか乱暴だった。客人が声を張り上げる。


「ヘンゼル、ヘンゼル。私ですよ。隠れていないで、出ていらっしゃい」


 ねっとりと、舌で傷口から血を舐めるみたいに気色の悪い、男の声だ。ルシカンテは総毛だった。ヘンゼルが部屋から飛び出し、階段を駆け降りる。おっとり刀でかけつけている。その慌てように胸騒ぎを覚えて、扉をそうっと開けた廊下に出た。匍匐前進して、手摺の隙間から入口広間を見下ろす。ヘンゼルが、ちょうど大扉を開けたところだった。

 客人は、亡霊のように陰気な赤毛の男だった。あからさまに金をかけました、と声高に主張する格好をしている。ヘンゼルより少し背が低いが、ヘンゼルよりがっしりとしていた。


「アロンソ様」


 ヘンゼルは言った。平然を装っているが、肩が緊張している。この客人が、アロンソ・セルバンテスなのだ。アロンソは、亀裂のような笑みを浮かべている。細く神経質そうな眉が、片眼鏡の上で跳ねあがった。


「この、役立たずのクズ犬めが。ご主人様をお待たせするんじゃありませんよ」


 アロンソは、礼も言わずにずかずかと入り込んで来た。ヘンゼルは音をたてるのを憚るように、注意深く大扉をしめる。アロンソは、手を背で組んでいる。首を巡らせて、ぐるりと家中を見まわした。ルシカンテは、床に張り付いて隠れる。

 アロンソはルシカンテを見つけなかった。ざらついた含み笑いを漏らす。


「おや、掃除が行き届いていますねぇ。野営も平気な犬っころが、屋根のある暮らしを、ありがたく思うようになりましたか」

 

 アロンソは、くるりとヘンゼルを振り返る。振り向きざまに、帯革から乗馬鞭を引き抜いた。アロンソは、ヘンゼルの一瞬の硬直を見逃さず、いやらしく目を細めた。


「おやおや、怯えるのかい? 何かご主人様を怒らせるようなことを、やらかしたのかな?」


 アロンソはにたにたと笑って、乗馬鞭で自身の左の掌を軽く叩きながら、ヘンゼルの周囲を練り歩く。ねっとりとヘンゼルを眺めている。


「何を驚く。聖職者が出動する際は、必ず五席を通過するのですよ。そうでなくても、この耳は、地獄耳ですからねぇ」


 ぱしん、と乾いた鞭音が弾ける。アロンソが、階段の手摺を打ったのだ。


「私の知らぬところで勝手に、輝石の指輪の受注と納品を行ったそうですね」


 ヘンゼルが黙っていると、アロンソはもう一度、腕を閃めかせた。鞭声が弾ける。


「ほら、どうしました。ずるくて賢い、お前のことです。勝算があって、こんな愚かな真似をしたのでしょう。うまく言い逃れてご覧なさい。さぁ。それとも、鞭が欲しいのかな?」

「そんなもの、欲しがったことは、一度もありません。あんたはいつも、そればかり寄越す。うんざりだ」


 ヘンゼルが、口腔に溜まった血を吐き捨てるように、放言した。アロンソの刺すような視線に晒されながら、腕組をする。いつもの、偉ぶる為の腕組みと違う。身を守るための腕組みだ。ヘンゼルは、顎をくっと上げると、不遜なせせら笑いを浮かべた。


「小遣いが欲しかったんですよ。あんたはケチで、俺の働きに見合った給金を寄越さない。かねがね、腹にすえかねていたんだ。ついでに白状すると、何もこれが初めてじゃありませんからね。今回も、うまくちょろまかせると思ったのに。まさか、フィッターに死体性愛の趣味があるとは思わなかったな」


 ヘンゼルは、自棄になったように言った。もうどうにでもしてくれ、と大の字になって体を投げ出すみたいに。

 アロンソは、ヘンゼルの不貞腐れたような横顔を、額を合わせるようにして、繁々と眺めた。にぃっと笑みを深めると、鞭を一閃させる。

 ルシカンテは、両手で口元を押さえた。ヘンゼルが、のめりかけて、たたらを踏んでいる。シャツの脇腹に、切れ込みが入っていた。


「坊や、私をばかだと思っているのかい?」


 アロンソが言った。


「賢しい狗は憎らしいだけですが、感謝を忘れる白痴の狗など、生きるに値しません……服を脱げ。私の大事な金で買った服が、着られなくなったりしたら、大変だからねぇ」


 ヘンゼルは唇を噛んでいる。シャツのボタンを一つずつ外し、脱いだ。肌着も脱ぎ捨てて、上半身が裸になる。アロンソは、俄かに激昂して、鞭を振るった。


「思い上がるな! お前のものは、すべて! 家も、服も、靴も、体も、命も! おれのものだ、おれが金で買い与えてやった! お前が妹と楽しく暮らしていられるのは、おれのお陰なんだ! おれはお前の神だ! おれは、犬の不服従は、絶対に許さん。絶対にだ! 主人に牙を剥く犬は殺処分だ、わかるか、駄犬!」


 鞭声は、途切れない悲鳴のように響き渡る。ヘンゼルの体に、赤い線が縦横無尽に刻まれて行く。ヘンゼルの、ぎゅっと瞑った白い瞼が痙攣している。唇を噛み切ってしまっていて、血が滲んでいた。拳を震えるくらい、強く握りしめている。

馬に入れる鞭どころではない、恐ろしい暴力だ。肌を切り裂かれているだけではない。肉を斬り、骨を断ち、もっと深いところにあるものを、粉々にしようとしている。悪意に満ちている。

 

(ヘンゼルが……殺される!)


 なんとかしなければ。ルシカンテはぱっと立ち上がり、部屋に駆けこんだ。見回しても、武器になりそうなものはない。


(いや、武器じゃだめだ。ヘンゼルは、アロンソには逆らえない。アロンソを怒らせちゃだめだ。アロンソが帰っちまうように、仕向けるには……)


 ルシカンテは、寝台からシーツを剥ぎ取った。頭に枕をのせて、シーツを被る。聖職者の恰好の真似をして、呼吸を整えると、喉を震わせて寄声を上げた。


「ぎゃぁぁぁ! 人喰いが来たぞ、人喰いが来た! みんな、食われちまうど! 人喰いが来たぁぁぁ!」


 ルシカンテは、叫びながら部屋から飛び出した。鞭声が止んだ。よし、と拳を握り、階段を駆け降りた。

 アロンソは、鞭打ちの手をとめて、呆気にとられたようにルシカンテを見つめている。その正面で、目を見開いたヘンゼルの上半身は、赤い縄をうたれたみたいに無残に腫れあがっていた。

 もう一押しだ。ヘンゼルは、もう少しの辛抱だ。ルシカンテは、もう一度奇声を上げた。アロンソの周囲をぐるぐる回る。


「人喰いだぞぉ! 人喰いだ、人喰い……」


 ルシカンテは何かに躓いて、前のめりに倒れた。アロンソに足をひっかけられたのだ。顔面をしたたかに打ちつけていたが、めげていられない。すぐに、気が触れたふりを再開しなければ。アロンソが興ざめして、帰ってしまうように。

 起き上がろうとしたとき、頭上でくぐもった音がした。一瞬遅れて、小さな羽毛が雪のように舞い上がる。頭に載せた枕が、鞭の一閃で切り裂かれたのだ。

 演技を失念して、唖然と見上げるルシカンテを、アロンソは、やにさがって見下ろしている。


「威勢が良い豚だな。獰猛な犬を飼い慣らすには楽しみがあるが……さて、豚はどんな具合だ?」


 アロンソが腕を振りあげる。ルシカンテは、咄嗟に頭にのせた枕の端をつかんで丸くなった。

 痛みは、訪れなかった。ルシカンテを苦しい程抱きしめる体が、かわりに痛みにわなないた。

 ヘンゼルはルシカンテを抱きしめて、己の背を盾にしていた。ヘンゼルは引き攣った顔で、肩越しにアロンソを振り仰ぐ。


「申し訳御座いません、アロンソ様。この子は、ちょっと頭がおかしいんです」


 ヘンゼルは哀れっぽい声で、アロンソに諂い、これまでの無礼を詫びた。靴でも舐めそうな、卑屈さである。淵で収集兵にしてみせた、わざとらしさがない。ヘンゼルは本心から、必死になって許しを乞うていた。

 ヘンゼルの良く回る口が、アロンソの鞭で閉ざされる。アロンソは、瞬きも出来ずにいるルシカンテの顔を覗きこんだ。ルシカンテを抱く腕に、力がこもる。


「これが、お前の言う切り札ですか? ふふ……面白い拾いものをしましたねぇ。よく似ている」


 アロンソが入れ子のある笑みを浮かべる。ヘンゼルの顎に鞭の柄をひっかけ、無理やりのけ反らせた。強い酒に酔ってくるくる回っているような、危うく蕩けた目をしている。


「お前に問いただすまでも無く、今回のいきさつは、想像がつきます。お前は、あの哀れな男を堕落させたのです。妄想に付き合う、優しい友人のふりをして、友人を自分と同じ深淵に引きずり込んだ。お前がもっと早いうちに、死体から引き離してやれば……あの男は、完全に壊れずに済んだかもしれなかったのにねぇ」


 ヘンゼルは、ほとんど反射的に「そんなこと」と反駁しかけた。すぐに我にかえって口を噤んだが、アロンソは見逃さなかった。緑色の双眸が燃え上がる。


「そんなことはない? いやいや、お前には、そういうところがあるんだよ。よく、思い出してご覧。お前のせいで、何人のひとの足元に、地獄の釜が開いたか」


 言葉は鞭になって、ヘンゼルを打ち据えた。その鞭が、ヘンゼルの最も深いところを抉ったようだ。ヘンゼルは、放心して、ぽかんとしていた。


 アロンソは、鼻先で笑うと、ヘンゼルの頬を平手で張った。帯革に鞭を挟み、大扉の取っ手に手をかける。振り返って、首を捩ったままのヘンゼルに言った。


「お前は、妄想の中でしか生きられない、弱い人間です。私が導いてやらなければ、すぐに破滅してしまうよ。可愛い妹との幸せな暮らしを、ずっと続けたいでしょう? だったら、良い子にするんだ……いいね」


 アロンソは、高らかに嘲笑した。扉を開く。

明るい日差しの中に、小柄な影が佇んでいた。グレーテルだ。アロンソの嘲笑が途切れる。グレーテルは、影を纏いながら、大きな丸い銀色の双眸を光らせている。


「お客様は、もうお帰りね」


 グレーテルが、いつになく大人びた口調で言った。ルシカンテは、にわかに慌てた。グレーテルが打たれる。

ところが、アロンソはグレーテルには何もせず、嘲弄すらせずに、彼女の横をすり抜けて行った。

 グレーテルが、駆けつけて来る。「大丈夫?」と小首を傾げた。

 大丈夫、と返事をしてから、ルシカンテは、はっとした。ヘンゼルは、大丈夫ではない。ヘンゼルの肩が揺れている。ルシカンテは、身動ぎかけて、凍りついた。ヘンゼルの胸や腹は、ひどい鞭傷をつけられている。ルシカンテが動いたら、衣服が擦れて痛むだろう。ヘンゼルの、震えはますます激しくなった。旋毛に、ヘンゼルの呼気を感じる。ヘンゼルは箍が外れたように噴き出した。


「ははは! おいおい、君! さっきのあれは、なんの真似? おばけが出たのかと思ったじゃないか。ふふっ、おっかしい」


 ヘンゼルは、ルシカンテの背をばしばしと叩いて、笑っている。ルシカンテは、目を白黒させた。ヘンゼルは、鞭で打たれすぎて、おかしくなってしまった。

 ひとくさり笑って気が済んだのだろう。ヘンゼルは、ルシカンテを解放し、やおら立ち上がる。ルシカンテの視線が痛ましい鞭傷に注がれていると知ると、ぱっと背を向けた。


「じろじろ見るな、すけべめ」

「す、すけべ……!?」

 

 言葉をなくしているルシカンテを放ったらかしにして、ヘンゼルは、脱ぎ捨てた肌着とシャツを拾い集める。シャツを広げて、顔を顰めた。


「まったく、もう。結局、シャツを一枚やられちまったぜ。いっそのこと、最初から裸で出迎えてやりゃよかったかな。……君、裁縫得意? 苦手でも、俺やグレーテルよりマシだ。これ、頼んだ」


 そうして決め付けると、ヘンゼルは、ルシカンテにシャツを放って寄越した。肌着だけ身につけて、グレーテルに言いつける。


「俺は寝る。片付けは任せたぞ」


 そう言うと、大きな欠伸をしながら、二階へあがり、部屋へ引き取ってしまった。

  箒をもちだしてきたグレーテルは、箒で羽毛を舞いあげて、くるくると遊んでいる。


「わーい! ふわふわ! 雪みたい、すてき!」


 ルシカンテは呆然としていた。アロンソが帰った途端、悪夢から醒めたみたいに、悲壮感が消えてしまった。消してしまおうとしている。違和感を押しこめている。

グレーテルが、ルシカンテからシーツを剥ぎ取り、髪についた羽を笑いながらとってくれる。ルシカンテはグレーテルに尋ねた。


「グレーテル、さっきのひと」

「アロンソ様? あのひと、いやなひと。わたし、あのひと嫌い」


 グレーテルは、あっけらかんと答えた。顔を顰めるか、膨れっ面かをしていたら、いつもの彼女らしい、天真爛漫な振舞いだっただろう。ふわふわと舞う羽毛を髪や顔につけたグレーテルは、陶器の人形のような、綺麗な微笑みを浮かべていた。

 羽毛を踏みしめて、グレーテルは、手摺に手をのせた。アロンソが鞭で打った傷を、つうっと指でなぞる。


「わたしのものを傷つけられるのって、すごくいや。いやなことをする人は、嫌い」


 グレーテルは、くるりと足を踏みかえた。ルシカンテに、にっこりとほほ笑みかける。


「人間って、そういうものでしょう?」


 グレーテルは、羽毛で遊ぶのに夢中になってしまったので、ルシカンテは、ヘンゼルのシャツを持って、二階へ上がった。自室に戻ろうとして、踏みとどまる。

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