お祭りと、内緒の話
ママ.ローズが、ヘンゼルとグレーテルの過去について話します。
***
ギャラッシカは、ルシカンテを抱えて二階から飛び降りた。なんの断りもなく跳んだので、ルシカンテは喚く暇すら無かった。心配していた着地の衝撃は、ない。ギャラッシカは、まるで背中に翼が生えているみたいに、ふわりとベンチの前に着地した。それを指摘すると、ギャラッシカは「ルシカンテこそ、羽が生えているみたいに軽いよ」ととぼけた。
ルシカンテは、深く考えなかった。鼻先に人参をぶらさげられた馬のように、謝肉祭のことで頭がいっぱいだったから。
大通りは、しんと静まり返っていた。ほとんどの家々が、もぬけの空である。月光に洗われた街は青白く、生命の息遣いがない。街が幽霊になったみたいだ。ルシカンテは、ギャラッシカの手をぎゅっと握った。ぽつぽつと点る街灯の下に、何か怖い影が蹲っているような気さえする。幽閑な恐ろしさの先に見えた九席は、煌びやかな宝石のようだった。
迫持ちを潜った途端に、街が息を吹き返す。露天を、色とりどり丸い飾り玉がとりまいている。その全てに火がともり、星のようにまたたいた。箱型の店店も、今日は気取った衣装を脱いで、露天と一緒に、喧騒に飛び込んでいる。
広い通りを埋め尽くす、人、人、人。ヘンゼルが言った通り、蜜にたかる蟻のように、たくさんの人々が集まっている。
ルシカンテとギャラッシカは、しっかり手を繋いで、人並みを縫ってそぞろ歩いた。大柄なギャラッシカの背に庇われると、人垣がぱっと割れて、ほとんど苦労をせずに歩くことが出来た。
四方から香ばしい匂いや甘い匂いが漂い、まじりあって、独特の祭りの匂いになる。露天には、食べ物の他に、遠い異国の人形や、つづれ織り、彫刻や髪飾りなど、多種多様な品物が並んでいる。
持ち合わせが無いから購入することは出来ないけれど、見ているだけで、ルシカンテの心は躍った。
しかし、高揚しすぎているのだろうか。胸が潰れたように軋み、息が苦しい。ルシカンテは、ギャラッシカと繋いでいない方の左手で、胸を押さえようとした。肩が重くて、腕が上がらない。
ギャラッシカが、ルシカンテの異変に気がついた。ルシカンテをひょいと抱き上げると、人気のない路地に避難する。ルシカンテの顔を覗きこんで、尋ねた。
「どうしたんだい? 具合が悪いのかい」
ルシカンテは、心配ないと笑おうとした。そのとき、胸が抉られたように痛み、肺が押しつぶされる。息苦しさに笑顔の模造品が崩れた。ギャラッシカの鉄仮面に、焦りのようなものが浮かぶ。
ルシカンテは、もう一度笑顔を取り繕って、頭を振った。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと、興奮しすぎちゃったかな。ちょっと休めば、大丈夫だから。ごめんな、せっかく連れて来てくれたのに」
ギャラッシカは、ゆるゆると首を横に振った。そんなことは、気にしなくて良い、と言ってくれている。
(あんたは、本当に優しいね)
ルシカンテの、言いだせない我儘を汲み取って、叶えてくれて。楽しみに水をさされても、本心からルシカンテの身を案じてくれる。いつもルシカンテの味方で、ルシカンテの隣に寄り添ってくれる。こどもの頃のことを、恩に着ているのだろうが、ギャラッシカを救ったのはウメヲだ。ルシカンテは、ちょっとだけ介抱の手伝いをしただけ。しかも、ほとんど役にたたなかっただろう。こんなに献身的に尽くして貰える理由なんて、無い筈なのに。
ギャラッシカが、肩を叩かれたように顔を上げた。彼の視線を追いかけると、大通りから、大きな影が此方を覗きこんでいる。
「あらら? もしかして、ギャラッシカ?……ギャラッシカじゃない! やだやだ、こんなところでばったり会っちゃうなんて、運命の二人って感じじゃないの!」
ママ・ローズが、禿頭を玉虫色に光らせて、片足で交互に軽くとび跳ねながらやって来た。ギャラッシカを抱擁しようとして、その腕に抱かれたルシカンテを見とめる。色眼鏡の奥の目を見開いたようだ。
「ルシカンテちゃん! あなた、どうしたの? 顔色が真っ青よ」
「……大丈夫です。ちょっと、人だかりに酔っちゃった、かな」
ルシカンテは微笑んで、ギャラッシカに降ろしてくれるように頼んだ。ママ・ローズは、そう? と首を傾げると、にっこりした。
「こっちに馴染もうと、がんばっているみたいね。感心だわぁ。こんなに可愛いくなっちゃってぇ! 見違えちゃったわよ。ヘンゼルが言い寄ってきて、困ってるんじゃないの?」
「良くして貰ってます」
「あらま。アタシが想像していたより、仲良くなっちゃったみたいね? うふふ、ご馳走様。でも、今日は一緒じゃないのね? ルシカンテちゃんってば、貴女……可愛い顔して割とやるもんだわ。二人の男を手玉にとっちゃ、立派な魔性の女よ? うふふ」
ママ・ローズは頬に人差し指をあて、含蓄のある笑みを浮かべている。含まれるものがわからずに、見つめていると、ママ・ローズはけらけらと笑った。
「うふふ、冗談よ。ヘンゼルは、こういう楽しいことが嫌いなんだものね。変わり者よねぇ」
ルシカンテは、どきりとした。こっそりと抜け出して来たことを、ヘンゼルに告げ口されたら困る。フィッターにでも出くわさない限り、交友関係の狭いヘンゼルの、親しい知人と鉢合わせる危険は、ないと高をくくっていた。ママ・ローズは、壁の外にいるものだとばかり思っていたのに。ルシカンテは、ママ・ローズの注意をヘンゼルから逸らそうと、話を変えた。
「今日は入壁検査のお仕事、お休みなの?」
「ううん、違うのよぉ。むしろ、繁忙期ってやつ。でもでも、アタシたちだって、せっかくのお祭りを楽しみたいじゃなぁい? だからこうして、交代でお祭りを覗きに来てるのね」
そう言うと、ママ・ローズはぽんと腰の帯革に吊り下げた財布を叩いた。
「ヘンゼルは、お小遣いなんてくれなかったでしょ。あの子ケチだもの。アタシが奢ってあげるわ。何か欲しいものある? 食べたいものは?」
ルシカンテは、恐縮して、顔の前で手をぱたぱた振った。
「そんな、お気遣いなく!」
「あらあら。遠慮なんかいらないわよ。お祭りは年に一度きり。こんな時くらい、甘えちゃいなさいな」
ママ・ローズは、ギャラッシカにしなだれかかり「何が食べたいの? ソーセージ? 発酵乳飴? それとも、アタシ?」 ときゃあきゃあ言っている。ギャラッシカは、手で顔をこねて、悲しい顔を作っている。
ルシカンテとギャラッシカは、食事を済ませて来た。ギャラッシカが食べられるものは、露天にはなさそうだ。そもそも、ママ・ローズに、余計な散財をさせる訳にはいかない。生活は、楽ではない筈。これが原因で、食い詰めてしまったら大変だ。ルシカンテは、出来る限りやんわりと遠慮しようとした。
「でも、ママ・ローズ。余計なお金ば使ったら、あとあと困るんじゃ……」
ママ・ローズは、きょとんとした。それから、ぽんと手をうつ。
「ああ、そうか……なるほどね。うふふ。そうよ、アタシたちは、確かにヴァロワの移民で、末席の人間。だけど、他の人たちとは違って、アタシたち外壁守は、聖職者に雇われているの。ヴァロワ移民の中じゃ、破格の待遇を受けているのよ。衣食住にはまず不自由しないわね。だからと言って、住まいが壁の外じゃ、変わってくれって、羨ましがられもしないけど。でも、住めば都ってやつで、案外悪くないのよ? ってことで、遠慮は御無用。要望が無いなら、アタシの大好物の風船菓子にしちゃうけど、いいかしら? じゃ、買ってくるわねぇ」
ママ・ローズは足取り軽く大通りに出て行くと、程なくして、紙袋を抱えて戻って来た。髪袋の中には、キツネ色の、ごつごつした、拳大の丸いものがごろごろとはいっている。
「はぁい、お待たせ! 風船菓子よ。どうぞどうぞ、とってとって。熱いから、気をつけてね」
ママ・ローズに勧められて、ひとつとってみる。あちち、あちち、とお手玉をしてしまった。
ギャラッシカは、やっぱり受け取らない。ルシカンテは、ギャラッシカは食べられる物が極端に限られる体質なのだと説明して、ママ・ローズに詫びた。ママ・ローズが、くねくねして「アタシみたいなぴちぴちのお肉はいかが?」と迫ると、ギャラッシカは、とても悲しい顔を作って、ルシカンテの背に避難した。
ママ・ローズとルシカンテは、横に並んで風船菓子を食べた。外側のキツネ色の衣はさくさくで、中身は真綿のようにふわふわ。甘くて、香ばしくて、美味しい。そして、熱い。ルシカンテは、火傷した舌を犬のように突き出して冷ました。
ママ・ローズは、和やかに笑っている。風船菓子を頬張りながら、湯気を含んだ白い溜息をついた。
「ヘンゼルは、やっぱりヴァロワへ行くつもりなのよね? 信じられないわ、ヘンゼルがヴァロワに行くなんて。そもそも、ヘンゼルとグレーテルが、銀蝋採集の傍ら、人喰い狩りまでやってるなんて、今でも信じられないのよね。特に、あのヘンゼルが。
あの子、昔はとっても大人しい良い子だったのよ。膝に載せたら、子ウサギみたいにぷるぷる震えちゃって、最後にはべそかいちゃうの。そうしたら、グレーテルがちっちゃな拳を振りまわして走って来るのね。お兄ちゃんをいじめないでって。グレーテルは、お転婆な娘だったわよ。いつもヘンゼルを背に隠していたから、グレーテルがお姉ちゃんみたいでねぇ。でも、それを言ったら、グレーテルが怒るの。お兄ちゃんはお兄ちゃんよ。お兄ちゃんをバカにしないでって。仲の良い兄妹だったわ」
ルシカンテは、あのヘンゼルが、と呟いた。想像できない。あのヘンゼルが、年の離れた妹に庇われる、気弱な少年だったなんて。
ママ・ローズは、ヘンゼルとグレーテルの幼少期をよく知っているらしい。同郷とは言っていたが、幼いヘンゼルを膝にのせて怯えさせるような、ごく親しい関係だったとは。言及すると、ママ・ローズは笑って答えた。
「あら、言ってなかったっけ? アタシ、あの子たちのお父さんの直属の部下だったのよ。あの子たちのお父さんはね、それはもう、勇敢で、聡明で、屈強な、立派な地衛兵だったわ。それより何より、ぞくっとくるような良い男でねぇ。あぁ、ヘンゼルには、似てないのよ。あの子は、お母さんにそっくり。グレーテルの方は、今でも、お父さんの面影があるかしら。猫みたいな目許とか、口元とか、あっけらかんとしたところとか、似ているかも。
あの子たちのお父さんは、王様からの信頼も厚かったのよ。何と言っても、王様が命より大切にしていたお妃様の護衛につけるくらいだもの。……それが原因で、反逆罪で捕えられて、処刑されちゃったけどね」
風船菓子の衣が喉に突き刺さり、ルシカンテは息をとめた。ヘンゼルとグレーテルは、二人暮らしだった。両親は他界したのかもしれない、と推察はしていた。その死因が、処刑だったなんて。
ママ・ローズは、頭をゆるゆるとふって、重く苦しい長息を吐いた。
「惨いやり方でね……人喰いにされたあげく、銀蝋で燃やされたの。燃え上がる銀の炎から突き立った指に、結婚指輪を見つけて……あの子たちのお母さんは、心を病んでしまったわ。花壇で大切に咲かせたお花みたいに、綺麗なひとだったんだけど、心も花びらみたいに脆かったのね。
そのお母さんも、その後、竈の中から焼死体になって発見されたわ。兄妹は行方がわからなくなった。アタシは、もうあの子たちは死んだものだと思っていたのよ。竈を調べたら、あの子たちの骨が見つかるんじゃないかって。
孤児が集まる地下を探してもみたけど、どこにもいなかったからね。もう諦めて、娘たちを連れて使徒座に移り住んで……そうしたら、あの子たち、生きてアタシの前に現われたの。アロンソ・セルバンテスに連れられて。
アタシはヴァロワにいた頃、アロンソ・セルバンテスの名前も知らなかった。彼は、一介の地衛兵だったのよ。あの子たちのお父さんとは、面識も無かったんじゃないかしら。もちろん、アロンソ・セルバンテスの方は、彼のことを知っていたでしょうけど」
ママ・ローズは、ルシカンテを見つめた。強い眼差しに、思わずたじろいでしまう。ママ・ローズは、声を落として言った。
「アロンソ・セルバンテスが、あの子たちを、無理にヴァロワに行かせようとしているんじゃないかって、アタシは疑っているのよ。ルシカンテちゃん。貴女、何か知らないかしら?」
ルシカンテは、自問した。何か知らないか? ルシカンテは、ヘンゼルとグレーテルの置かれている立場が、危ういことを、なんとなく察知していた。だが、突っ込んで、知ろうとしたか?
しなかった。何もしなかった。自分のことで頭がいっぱいで、気が回らなかった。
ルシカンテは、正直に告げた。
「知らない……おら、アロンソ・セルバンテスってひとと、会ったこともないもの……でも、こっちさ来てすぐに、ヘンゼル、アロンソ・セルバンテスさ呼び出されたよ。すごく草臥れて帰って来て……手の甲に、傷があった」
せっかく、息苦しさが和らいできたというのに、自己嫌悪で胸が引き絞られる。
ママ・ローズは、物憂く言った。
「十年前に淵の銀蝋の海が枯れてから、慢性的な銀蝋不足が続いてね。使徒座の行商連中もみんな困り果てていたのよ。そこに、アロンソ・セルバンテスが移民としてやって来たの。
彼は、何処からか新鮮な液状の銀蝋を手に入れて来てね。あっと言う間に、銀蝋の市場を独占したわ。銀蝋は、行商の命綱だから、銀蝋の利権を掌握することは、使徒座の商業を掌握することに繋がるの。がめつい男でねぇ、そこかしこから恨みを買っているのよ。
ヘンゼルとグレーテルは、アロンソの下請けよ。銀蝋と輝石を調達し、輝石を装身具に加工して、アロンソに納める。……銀蝋を集める、あの子たちにしか出来ない方法とか、秘密の場所とかが、あるんでしょうね。アロンソが売り捌く銀蝋のほとんどは、あの子たちが調達して来ているんだもの。
アロンソ・セルバンテスの成功は、あの子たちを踏み台にして成り立っているのよ。だからこそ、あの子たちもそれなりの生活が出来ているんだけど。銀蝋を独占する者への恨みや妬みが、あの子たちにも波及しているわ。心当たり、あるんじゃない?」
「ある……あります」
末席のごろつきたちの悪い言葉や、仕切り壁の見張り番たちの悪態。露天商人たちの慇懃無礼な態度。それに、プリムラたちだって、ヘンゼルを快く思っていないようだった。心当たりは、山ほどある。この広い使徒座十二席で、ヘンゼルに好意的なのは、ママ・ローズとフィッター夫妻くらいのものなのだろう。
ママ・ローズは、腰を屈めてルシカンテの顔を覗きこんだ。幼い子供を見守るような、優しいほほ笑みを湛えている。
「ルシカンテちゃんは、あの子のことを、心配してくれるのね。これからも、そうやって、気にかけてあげて頂戴ね。一緒に怒って、泣いて、笑ってあげて。それだけでいいの。一人ぼっちは、寂しいからね」
「勘定に入れられてないのは、俺とグレーテルのどっちだろうね?」
「ここはやっぱり、お兄ちゃんでしょ」




