出来ることから、始めよう
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ルシカンテが掃除を終えて、箒を物置にしまうために下階におりると、洗濯籠を抱えたギャラッシカが炊事場の扉から出て来た。ルシカンテは箒を片付けてから、ギャラッシカの洗濯物干しを手伝うことにした。洗濯用のロープは二階の手すりに環状に渡されているので、手繰り寄せればその場にいて全ての洗濯物を干してしまえる。ギャラッシカがロープを手繰り寄せ、ルシカンテが洗濯物をぱんぱんと叩いて伸ばしロープにかけておく、役割分担だ。ルシカンテはギャラッシカの薄っぺらな微笑みを振り仰いだ。
「ギャラッシカ。あんた、おらのことば心配してヘンゼルさ文句ばつけたんだって?」
ギャラッシカは飄々とした体を崩さずに、あっさりと認めた。
「ルシカンテが悲しいのはよくないからね」
「あれはおらが悪かったんだよ」
「ルシカンテは何も悪くない。彼は理不尽で、すぐにかっとなる。よくないよ」
ギャラッシカはまるで最初からそう決まっているみたいに言いきった。ギャラッシカはヘンゼルのことを名前で呼ばない。ヘンゼルはヘンゼルでギャラッシカのことを「あの男」呼ばわりだから、お互い様だけれど。ルシカンテは苦笑した。
「もう……でも、心配してくれて、ありがとう。あんたは優しいね」
ギャラッシカは腹が満たされた獣みたいに、満足そうに喉を鳴らす。
「ルシカンテが元気になった。嬉しい」
「ふふ……そう? 嬉しそうに見えないけど」
ルシカンテは悪戯心を起こして意地悪を言った。ギャラッシカはちょっと黙って、それから首を横に振った。
「顔を変えるのは難しいね」
「難しいことないよ。ちょっと屈んで? ほら、こうやるの!」
最後の一枚をロープに干したルシカンテは、腰を屈めたギャラッシカの口に親指をこじ入れた。ギャラッシカは表情を変えずに、のけ反りそうになっている。ルシカンテの指に尖った歯があたると、口を大きく開けた。ルシカンテはギャラッシカの口の端に親指を引っ掛け、耳に引き付けた。他の指で頬や目許の肉を揉みほぐし、表情を捏ねあげる。
「これが嬉しい時。んで、これが悲しいとき。これは怒ったとき。どう、わかる?」
「わかっはほ」
ギャラッシカは不自由な舌を動かして、なんとか喋った。今のは「わかったよ」だ。ルシカンテはにっと笑って、手を引いた。
「んじゃ。やってみて」
ギャラッシカは目玉をぐるりと動かすと、ルシカンテにやられたように、顔の肉を手でつかんだ。口角を引っ張り上げ、頬肉を持ち上げ、目許を引き下げて、不格好な笑顔をつくる。
「これが嬉しいとき。これが悲しいとき、これは怒ったとき」
「んだんだ! 上手、上手!」
ルシカンテは手を叩いて喜んだ。変な顔だが、一生懸命に言われた通りにやってくれるギャラッシカが可愛い。
ふと、ヘンゼルも同じなのかなと思った。一生懸命やっていたら、それだけで可愛く見えるのかもしれない。
(だったら、もっともっと一生懸命がんばらねぇと)
心の中でぐっと拳を握った直後に、どうしてこんなに張り切っているのか、自分でもよくわからなくなった。
昼食の支度をするまでまだ時間がある。ルシカンテは、鳥の笛の練習にギャラッシカを誘った。ヘンゼルがよく座っている、裏のベンチに二人並んで腰掛けて練習すれば、楽しかろうと思ったのだ。ギャラッシカは快諾してくれたが、家を出ようとしたところで、グレーテルにつかまってしまった。資材庫の荷物を移動するのに、ギャラッシカの力が必要らしい。
「ルシカンテは一休み? 行ってらっしゃい」
ルシカンテはお呼びではないそうだ。仕方なく、ルシカンテはひとりでベンチに腰掛けた。フィッターの家の二階の窓は、今日も開け放たれている。レースのカーテンが青空の雲のように爽やかにゆらめいていた。ルシカンテはこっそりと息を詰めた。腐臭がはっきりと臭う。生塵を適切に処分していないのだろうか。追いかけっこをする子供たちも、風がふくたびに、鼻先に皺を寄せている。
胸が悪くなったが、ヘンゼルがいつもここで鳥の笛を鳴らしていると思うと、ここで囀りたいという気持ちになるから不思議である。ルシカンテは留まった。
ルシカンテは教わった通りに、鳥の笛を舌先に載せて、舌を上げて、顎につけて、ちっちっちっと舌を打った。鳥の笛がずるりと滑ってうまくいかなかったが、舌先に吸いつかせるコツを掴むと、音が鳴らせるようになった。
うまく出来ると楽しくなってくる。順調に囀っていると、三人のこどもたちが足をとめた。
「あれ! 鳥だ、鳥の鳴き声がする!」
「本当だー! でも、何処にいるんだろ?」
「いっつも、そうだよね、声はするのに、何処にもいない」
「変なの。おばけかな?」
「やだー」
こどもたちはきょろきょろして、鳥を探している。鳥が見つかる筈もなく、こどもたちはつまらなそうにはなをならして走り去った。
その様子を見たルシカンテは、ぴんと閃いた。ベンチから立ち上がりこどもたちを追いかける。一本折れた路地で、こどもたちに追いつて呼び止める。
「鳥、何処さいるか教えてあげよっか?」
いきなり話しかけて来た見知らぬルシカンテを、こどもたちは警戒した。だが、ルシカンテがちーちっちっち、と鳥の笛を鳴らすと、彼らの疑いは好奇心に吹き飛ばされた。
ルシカンテは確かな手ごたえを感じた。いつの間にかこどもたちは増えて、ルシカンテをわらわらと取り囲んでいる。十代になるか、ならないかと言った年齢のこどもたちは、ルシカンテとほとんど背丈が変わらなかった。ルシカンテより背が高い子さえいた。
ルシカンテはこどもたちのわくわくした顔を見回して、得意になった。ポケットから、ヘンゼルが見本で作った鳥の笛を取り出すと、掌にのせて見せる。
「これ、すごいでしょ。鳥の笛って言うの。舌を上げて顎につけて、ちっちっちってやると、鳥の声で鳴けるんだ。これね、あそこのバイスシタイン装身具工房でつくってるよ。欲しかったら、お金ば持っておいで。売ってあげる」
欲しい! と叫ぶ子がいれば、いくらなの? と首を傾げる子もいる。値段に言及されると、ルシカンテはお茶を濁すしかない。貨幣の仕組みが、未だによくわからない。「工房さ来てくれたら、その時、教える」と言っておいた。
後ろからやんちゃそうな男の子がひとり、こともたちを掻き分けて出て来る。ルシカンテの正面にいる子の隣に立つと、髪の毛を掻き擦り、常軌を逸した振舞いをした。
「わーっ、わーっ、わーっ! 怖いよぅ、人喰いが来るよぅ! 食べられちゃうよぅ!」
「ど、どげしただ!?」
男の子はぎゃあぎゃあと喚き散らしている。ルシカンテは驚いて辺りを見回した。人喰いがいる? 人喰いクマに襲われた恐怖が鮮やかに蘇った。後ろから、別の男の子が駆けて来る。ルシカンテの掌から鳥の笛を奪った。
「へへ、やった、いただきー!」
「よっしゃ、ずらかるぞー!」
ルシカンテが呆気にとられている隙に、喚いていた男の子と鳥の笛を奪った男の子は、掲げた手を打ち合わせ、はしゃぎながら走り去って行く。いっぱい食わされたようだ。我に返ったルシカンテは、拳をぐっと突き上げた。
「わっ、ちょっと……待ちな、待たねぇか、こらぁ!」
追いかけようとしたところで、背後から肩を掴まれた。
「何をしているんだい?」
こどもたちがきゃあきゃあ騒いで、蜘蛛の子を散らしたように逃げて行く。逃げ遅れたルシカンテな首を軋ませて振り返った。
ヘンゼルが憮然として立っていた。こどもが逃げ出すような顔をして。
ルシカンテはベンチに連れ戻された。ベンチの端に浅くこしかけ、ほとんど尻を浮かせているルシカンテの隣に、ヘンゼルがゆったりと座っている。
ちーっちっちっち。と鳥笛を鳴らしている。矢張りヘンゼルは上手だ。ルシカンテの笛の音では、小鳥が仲間だと勘違いしてはくれないだろう。
ヘンゼルはレースのカーテンがひらひら揺れているのを、見るともなしに眺めている。
「勝手に家を離れるなと言った筈だが?」
冷静に追及されると尚更決まりが悪い。ルシカンテは口籠った。ヘンゼルは口が酸っぱくなる程、ルシカンテに言ってきかせていた。勝手に家を離れるな。外に出ても構わないが、家からは絶対に離れるな。と。
ルシカンテはスカートを揉みながら、もごもごと言い訳した。
「鳥の笛……とられちゃって……取り返さなきゃって……」
「二つやっただろ。二つともとられたの?」
「一つだけど……」
「なら、欲張らずに諦めたらいいじゃないか。そもそも、ガキどもに見せびらかすのが悪いんだよ。ガキって奴は、人のものをなんでも欲しがるからね」
「う……あの、その……売り込んでたの……売れるかと、思って……」
ヘンゼルは目をぱちくりさせた。売り込み? と素っ頓狂な声で反芻している。ルシカンテが項垂れて頷くと、ヘンゼルはあてつけがましく溜息をついた。
「バカ、こんなもんが売れるかよ」
ルシカンテの手の中で、スカートの布地が湿り始めている。知らない間に、手にびっしょりと汗をかいていた。
ヘンゼルはこう言うけれど、ルシカンテは売れると直感したのだ。気分が良くて、気が大きくなっていたから、久しぶりに直感に従って衝動的に動いていた。今は後悔している。ルシカンテが自分で考えて何かしたら、ヘンゼルは喜ばないことを忘れていた。「バカの考え、休むより悪い」とはヘンゼルの弁である。
沈黙を、ちーっちっちっち。と鳥の囀りの真似が埋めている。俯いていたら情けない気持ちに拍車がかかるので、ルシカンテはヘンゼルと一緒に、翻るレースのカーテンを見上げていた。
窓の奥から、にゅっと長い腕が伸びて来た。レースのカーテンを部屋に引き入れているのは、フィッターだ。フィッターはにこにこしている。窓を閉める前に背後を振り返った。
「今日も、鳥の囀りが聞けて良かったね」
フィッターはルシカンテたちに気付かないまま、窓を締めてレースのカーテンをひいた。
ルシカンテはヘンゼルの顔を盗み見た。尖った横顔にはっきりとした感情を読み取ることは出来なかった。けれど、ヘンゼルがここで鳥の笛を鳴らす理由は、わかった気がする。
ヘンゼルは思いやりをちゃんともっている。怒るばかりの男ではないのだ。ルシカンテがいつも不甲斐ないから、ヘンゼルはいつも詮方なく怒っている。
ルシカンテはがっくりと肩を落とした。
「ごめんな、ヘンゼル。おら、いらないことばしてばっかりだ。良かれと思ってやったんだけども……なんか、やることなすこと、裏目さ出てるなぁ。もういっそ、おらなんかいない方が」
「情けないことを言うんじゃないよ」
ヘンゼルは皆まで言わせず、ルシカンテの弱音をぐしゃぐしゃに丸めて、ぽいと放り投げた。
「やることなすこと裏目に出て、間違いばかり犯していたら、消えて無くならなきゃいけないって言うのかい。冗談じゃない。そんなこと言い出したら、俺はとっくの昔に跡形も無く消えて無くなってなきゃいけないぜ」
ヘンゼルはぼけっとしているルシカンテを流し見ると、吐息に辛うじて言葉をのせた。
「売れないだろうけど……こういうことだよ」
ルシカンテには、ヘンゼルが何を言いたいのかわからない。首を傾げていると、ヘンゼルはうんざりと顔を顰めた。
「だから……俺には出来ないことを、君がやってくれると、助かるってこと」
ルシカンテは目をひんむいた。ヘンゼルは、今、なんと言った?
ヘンゼルは腰を上げると不自然に高い声で言った。
「さてと。そろそろ飯にするか」
のしのしと先に歩き始めたヘンゼルが、がしがしと頭髪をかいている。耳がほんのり赤い。
(……照れてる)
ヘンゼルもルシカンテも。
ルシカンテは先に歩き出したヘンゼルの横に並んだ。後ろで手を組み、ヘンゼルの前に回り込む。後ろむきに歩きながら、ヘンゼルの顔を覗きこんだ。
「ねぇ、試してみたい料理があるんだけど……やってみていい?」
ヘンゼルが眉を吊り上げる。ルシカンテはへらりと笑った。
「ホボノノの保存食。すぐに食べれるものじゃないけども長持ちするし、何より美味しいだよ」