落ち込んで、浮き上がって
第三話 不吉な牙が胸を噛む
ヘンゼルの家で働き始めて、七日がたつ。ルシカンテはどん底に落ち込んでいた。
ルシカンテは朝、昼、夜、三食の料理を任されることになった。凝ったものはおいおいで良いから、取り合えず火を通した、食べられる料理をつくるようにとのお達しである。お任せあれと、意気込んで漕ぎ出したのだが、出だしに大きな落とし穴があった。
そもそも、内地のひととは味覚が違う。ルシカンテにしてみれば、火を通した肉は塩気がないと食べられたものではない。自身の舌に合うように味付けすると、ヘンゼルは水を浴びるように飲みながら「君は俺を腹の中から塩漬けにして、ハムにでもするつもりか!?」と怒った。
反省を踏まえ加減して味付けると、ヘンゼルは塩をばっばっとふりかけながら「味付けをしなくていいとは言ってない!」とまた怒る。
そんなことが三食続けば、ヘンゼルはルシカンテの料理を疑うようになる。ぴったりと後に張り付いて監視するようなったのだ。
ヘンゼルは根をつめて細工の仕事をしている。神経を使う繊細な作業だ。ルシカンテもホボノノで齧っていたからわかる。仕事の合間にぬけてくるヘンゼルは、いつもきりきりしていた。
火が強すぎる、野菜が汚い、そのヘラを炒め物に使うな、もっと大きな鍋で煮ないと噴きこぼれる、とルシカンテを何かにつけて叱り飛ばした。
ルシカンテ、反骨精神を奮い起して頑張ったつもりだった。しかし、自分で考え、よかれと思ったやることなすこと、ヘンゼルにものすごい剣幕で否定されると、だんだんしょんぼりしてきた。
ヘンゼルが神経をとがらせるのも、御尤もだ。ルシカンテはそそっかしく、勘違いが多く、大雑把である。ヘンゼルにしてみれば「忙しい俺が時間をさいて教えてやっているのに、やる気がまるでない」と、腹立たしく思うわけだ。
ヘンゼルに怒鳴られないように、怒鳴られないようにと、そればかりに意識がむいてしまう。気が付いたら、固く縮んで殻に籠っていた。自主的にはほとんど動けず、ヘンゼルにどやされると、慌てて失敗する。
とうとう、ヘンゼルは怒鳴らなくなった。かわりに、溜息が飛躍的に増えた。そうなってようやく、喉元過ぎれば熱さ忘れる、だったルシカンテも、これはまずいぞと焦り始めたのである。
焦り始めたら、思考がばらばらに解けた。とっちらかった頭では、出来ていた筈のことも出来ない。今朝は野菜炒めをまっくろに焦がした。ヘンゼルは暗い顔で「これを食うの?俺はストーブじゃないんだぞ」と呟いたきり、何も言わなかった。
かくして、ルシカンテは焦げた鍋を洗いながら、どん底に落ち込むに至ったのである。
例えばヘンゼルの辛い当たりが、苛々発散の八つ当たりなら、ルシカンテは落ち込まなかった。ルシカンテに非があるからこそ、情けないし、悲しいのだ。ヘンゼルは怒りっぽいし、理不尽な八つ当たりもするが、まんざら嫌な奴ではない。そのことをここに着いて早々に知っていたので、尚更悲しい。
桶に張った井戸水の中で、じゃぶじゃぶとタワシを動かしながら、もう溜息も出なかった。窓の外を、この時間になると遊びに出て来る、いたいけな少年少女たちが駆けて行く。無邪気な歓声にも、心は和まない。ルシカンテは焦げの塊が浮く水面を見つめた。
何よりも情けないのは、穀つぶしはルシカンテだけだということだ。ギャラッシカはちゃんと、与えられた役割をこなしている。彼は自主性も協調性も無いが、従順で力持ちである。水くみや荷物の運搬を一手に引き受けている。ヘンゼルは力仕事から解放されて大喜びだ。ヘンゼルとギャラッシカはろくに口を利かないが、ヘンゼルはギャラッシカの力をあてにしている。
ルシカンテが庇護するべき者だと位置づけていたギャラッシカは、立派に自立して居場所を得ていた。今もグレーテルに呼ばれて、アーサーへ水と餌をやりに行った。
(……守ってあげなきゃなんて、思い上がりも甚だしかったな。ギャラッシカはちゃんとやれてる。ヘンゼルは、ギャラッシカがいねくなると、困る。それさ引き換え、おらはいつ居なくなっても、誰も困らねぇ。いつ追い出されても、おかしくねぇ)
ホボノノの暮らしでは、ルシカンテは己の不甲斐なさに気がつかなかった。ウメヲはルシカンテの素行には苦言を呈したが、家事に文句をつけた事は無かった。繕い物の縫い目ががたがたでも、肉が不揃いでも、床の隅に埃が残っていても、何も言わずにただいまと言って帰って来た。甘やかされていたのだと、今さらになって痛感する。ウメヲが悪いわけではない。十七にもなって、何も出来ないことに気がつかなかった、ルシカンテが悪い。
「おい、君」
「ひぃ!?」
自責の念にどっぷり浸っていたルシカンテは飛び上がり、水を跳ねあげた。振りかえると、作業用の前掛けをしたヘンゼルが扉を背に立っている。何にも悪いことはしていなかった筈なのに、ルシカンテはあわあわと慌てふためいた。自覚がなかっただけで、何かしてしまったのかもしれない。落ち度に気が付けない程、ルシカンテはなっていないのだから。
ヘンゼルはルシカンテの狼狽を見て、そっと俯いた。こげ茶色の長い睫毛が、下まぶたに影を落とす。ヘンゼルは固い声で言った。
「話がある。洗い物が終わったら、工房に来てくれ」
ルシカンテは鍋を放り出していた。ヘンゼルに駆けより、水に濡れた手で彼の前掛けにしがみつく。ヘンゼルの灰色の目に宿っているだろう、怒りや諦めを吹き飛ばそうと、ルシカンテは声を張り上げた。
「ごめんなさい! おら、これからはもっとがんばる! したっけ、お願いだすけ、捨てないでください!」
ルシカンテはぐいと頭を下げた。ヘンゼルの鳩尾あたりに頭が刺さって、ヘンゼルが呻いた。そんなことにも気付けないくらい、ルシカンテは必死だった。
ヴァロワに行けなくなることより、ここに置いて貰えなくなることが、大きな問題だ。ルシカンテは怒られてばかりの役立たず。しかし、ここの他に行くところがない。ここをでたら、路頭に迷ってしまう。どうやって生きて行けば良いのか、皆目見当がつかない。
ヘンゼルはあ、だの、う、だの、意味の無い音を喉から絞り出している。ヘンゼルには情がある。ルシカンテを憐れんで、突き放すことに抵抗を感じているのだろう。情けに漬けこんででも、ここにしがみつくしかない。
ヘンゼルの肩は不自然につり上がっている。両手はルシカンテの肩の上で、うろうろしていた。行き場を失くして途方に暮れている。
ややしばらくたって、ヘンゼルはルシカンテの肩をそっと押し戻した。その動作を拒絶ととったルシカンテの目の前は、真っ暗になる。頭の奥で葬送の歌唱が鳴り響いた。
いつまでも俯いていると、ヘンゼルの筋ばった手に米神を挟まれ、上向かせられた。ヘンゼルの目をまともに見ることができず、ルシカンテは視線をさ迷わせる。ヘンゼルは腰を折り、ルシカンテと視線の高さを合わせた。呆れて、溜息をついて言う。
「人聞きが悪い。捨てるなんて誰が言った。君には、こっちの料理が不向きだと言うことがよくわかったから、別の仕事をやって貰おうって話だぞ」
ヘンゼルはきょとんとするルシカンテの頭を、グレーテルにするようにぽんぽんと叩いた。
「なんでも得意な人間なんていない。不得意な事を上手く出来る人間も、滅多にいない。俺は偏屈な人間だが、そんなことくらい、分かっている。これくらいのことで、猫みたいに捨てたりしないから、びくびくするな。安心して、可及的速やかに鍋を片付けなさい。工房で待ってる」
ルシカンテは自らの頬の肉を抓ってみた。ヘンゼルが出て行って扉が閉まっても、頬が痛いのか痛くないのか、よくわからなかった。
鍋を洗い終えると、一方的に取りつけられた約束にしたがい、ルシカンテは工房の扉の前に赴いた。何度も何度も躊躇って考え直して、逃げる口実を探して、やっと覚悟を決めて、扉をノックする。返事はすぐにかえってきた。
「どうぞ」
ルシカンテはヘンゼルに招かれて工房に入った。むわっとした熱気が充満している。隅に小さな竈があった。
ヘンゼルは不思議な機械を置いた机についていた。上下二つの歯車がかみ合い、その右側にもう一つの歯車がかみ合っている。そこにとりつけられた、鉤状に曲がった取っ手の棒を、右手でぐるぐると回している。
工房は決して狭くない。ルシカンテの部屋とヘンゼルの部屋を、敷居無しにひとつにした広さがある。けれど、机や棚がひしめき合っているせいで、狭小に感じた。
ここに来て初めての夜、グレーテルとヘンゼルが並んでいた作業台の隣に、鮫の歯のようにぎざぎざした糸のこぎりを固定した、半円にくりぬかれた机がある。後ろには金床と金槌が乗った机があって、隣に切り株をそのまま利用した小さな台がある。
床には金属屑が散乱しており、踏みしめるとさりさりとやけた砂のような音を立てた。
ヘンゼルは隣に座って見ているように言った。ルシカンテは余計なことは喋らずに、おとなしく言われた通りに、丸椅子を引いてヘンゼルの隣に座る。
ヘンゼルは歯車の機械を操作している。銀色の板を歯車で挟んで、平らに伸ばす作業をしている。釣り込まれるように覗きこむルシカンテに、ヘンゼルは何気なく言った。
「君には、ここの仕事をちょっと、手伝って貰う。難しいことは言わない。ただ、気をつけないと怪我をするから、そのつもりで」
ルシカンテはざっと周囲を見回した。見た事も無い、不思議なかたちの道具がたくさんある。トンカチ一つとっても、大きいものから小さなもの、形も様々だ。ルシカンテは不安になった。こんな中であれをとれ、これをとれと言われたら、ルシカンテの頭には大混乱が到来するだろう。
「この、歯車のお化けみたいな機械の名前は、ローラーって言う」
言いながら、ヘンゼルは左側にある螺子を回して、上下の歯車の距離を調節した。席を立ち、ルシカンテに譲る。
「こんな感じで、やってみようか」
使うのは鉄屑。練習だから、指さえ巻き込まなければ失敗していい。とヘンゼルは言った。ルシカンテに拒否権はない。せっかく、ヘンゼルがくれた好機だ。これが最後かもしれない。
ルシカンテはがちがちに緊張した。さっき手元を見ていたのに、手順は緊張が頭から押し出していた。小指より細い鉄の棒を摘んで、途方に暮れる。何をどうしたらいいのだ。
ヘンゼルが鼻息をついた。ルシカンテは、身を強張らせたが、怒声は降ってこない。そのかわりに、ヘンゼルの体が背に覆いかぶさってきた。ルシカンテを背後から抱きすくめるようにして、鉄の棒を取り上げる。そして、さっきやっていた作業の手本を、もう一度やってみせた。
このひとは、本当にヘンゼルだろうか。ルシカンテは疑がった。怒鳴らず、落ちついていて、躓いたところで、丁寧に教えてくれる。ヘンゼルはこんなに穏やかなひとだっただろうか。戸惑いつつもルシカンテの緊張は次第に和らぎ、肩の力が抜けた。ローラーに鉄の棒を挟んで、ハンドルを回してのばす。上下の歯車を近づけて、さらに薄くのばしていく。ヘンゼルはルシカンテの手元に目を光らせ、たまに止めて注意をしつつ、言った。
「俺は、君に多少無理をさせてでも、料理を担当させたかった。俺の手料理を食っていれば、その理由がわかっただろ? クソまずい」
鉄をぺらぺらの紙のように伸ばしてしまうと、ヘンゼルは糸のこぎりの台に移動した。鉛筆で、さらさらと型をとって、話を続ける。
「最初のうちは君、てんてこ舞いでも張り切っていたから、時間はかかっても、そのうち任せられるだろうと思ったよ。だが、ここ数日の君ときたら、人生に行き詰ったみたいにどんよりしてきた。こりゃだめだ。降参だ。自分が食って旨いと思えないものをうまく作れ、って要求には無理があったみたいだね」
ルシカンテは教わった通りに糸のこぎりで鉄板を裁断しながら、いよいよ信じられなくなった。ヘンゼルが非を被っている。ルシカンテの不出来はルシカンテのせいなのに。ルシカンテは熱っぽい、ぼんやりと霞みがかった頭で、謝らなければいけないと思った。
「ごめんね」
「悪いと思うなら、得意分野の開拓を急げ」
ヘンゼルはぴしゃりと言う。突き放す物言いと同時に、ルシカンテから体をはなした。ルシカンテはほっとした。胸の中で小鳥が羽ばたいているみたいで、作業中、ずっと苦しかったのだ。ヘンゼルが離れると、だいぶ楽になった。
切り取った小指の先ほどの破片に、厚紙を小さく切ったものをとり付ける。ピンセットという道具を駆使するのだが、見本を見せるヘンゼルはやや難儀していた。ずっと、貧乏ゆすりをしている。
さぁやってみろと、ピンセットを渡される。ルシカンテはこういう作業がわりと得意だった。ウメヲは立派なオリュシだったので、加工する猟獣の爪や牙に事欠かないどころか、余分にあった。それらを捌く為に、ルシカンテは工芸の手伝いをさせられていた。あの頃は億劫だと思っていたが、培われた集中力が、意外なところで生かされている。
ヘンゼルは感心したようだった。完成した鳥の笛をつまみあげて、顔をほころばせる。
「器用なもんだ。手が小さくて指が細いから、いけるんじゃないかと思ったよ。俺の見る目は確かだな。流石は俺だ」
あのヘンゼルに、誉められた。ルシカンテはヘンゼルの顔をまともに見られなかった。顔が燃えるように熱い。どうしてだろう。部屋が暑すぎるのかもしれない。
ヘンゼルはルシカンテに掌を上にして手を出すように言った。差し出された掌に、鳥の笛を二つのせる。
「君が手掛けた、初めての作品だ。見本もおまけでつけてやる。鳥の笛に、興味があるんだろ」
「……貰って良いの?」
「いいよ、塵が片付く。ああ、飽きたら外で捨てろ。くれぐれも、間違って呑み込まないように」
ヘンゼルは、ルシカンテに鳥の笛の鳴らし方を教えると、今日はここまで、と手を打った。フィッターの指輪の納期が近いから、遊んでばかりもいられない、とのことだ。ルシカンテが、仕事の邪魔をしてすまなかったと謝ると、ヘンゼルは変な顔をした。
「……別に。俺にだって、息抜きは必要だしね」
ぽかんとしていると、ヘンゼルに工房から追い出された。ルシカンテは工房の扉の前で、ぼんやりした。工房の外は涼しい。しかし、鬱陶しい微熱は、なかなか冷めてくれない。
鳥の笛をグレーテルから借りているスカートのポケットに入れて、掃除にとりかかった。入口広間の埃を掃き取っていく。少し掃いては立ち止まり、ポケットから鳥の笛を取り出す。どうしても、気になって仕方がないのだ。
そうしているうちに、グレーテルが外から戻った。ギャラッシカは一緒ではない。厩の掃除をしているのだろう。その後は、洗濯という大仕事が彼を待っている。グレーテルは彼女が担っていた力仕事のすべてに、ギャラッシカを巻き込んでいた。ギャラッシカが文句を言わないのをいいことに、いつの間にかほとんどの仕事を押し付けてしまった。そうしてつくった余暇は、ぶらぶらして潰している。
暇を持て余したグレーテルは玩具になる蝶々を見つけた仔キツネのように、ルシカンテに近寄って来た。
「あっ、ルシカンテだー。なになに? なんか、いいことあった?」
いいことがあったと、一目でわかるような弛んだ顔をしていたようだ。なんでもない無表情を取り繕ったが、グレーテルは誤魔化されない。ルシカンテの掌にのった鳥の笛に目をとめて、にまにまと笑みを深める。
「うふふ、お兄ちゃん、うまくやったのね」
「……うまくやったって?」
「仲直りだよ。ルシカンテ、こっちに来てから、萎れたお花みたいに可哀そうになっていたでしょ。お兄ちゃんねぇ、うじうじ気にしていたの。怒鳴り過ぎたかもーって。お兄ちゃんはね、短気ですぐにかっとなるけど、本当は気が小さいのよ。ルシカンテがお兄ちゃんが傍にいるだけでびくびくするようになって、堪えてたみたいだね。女の子なんて扱ったことが無いから、どうしたらいいかわかんないの。それで昨日、とうとうギャラッシカにも怒られちゃった。お兄ちゃんがこっちの常識押しつけてばっかりだから、ルシカンテが押しつぶされちゃうって」
ルシカンテは面喰った。ヘンゼルが怒鳴る頻度が減ったのは、言ってもわからない奴だと、呆れられたからだと思っていた。見捨てられる予兆だと思っていたのだ。まさか、ヘンゼルがルシカンテのことで気を揉んでいたなんて。ルシカンテはとんでもない、と頭を振った。
「世話さなってるんだから、そんなことは当然っしょ。おらが不真面目だから悪い。ヘンゼルは、悪くないよ」
グレーテルは不思議そうにまたたきした。
「お兄ちゃんは、篤志家じゃないのよ? ルシカンテがいくらお胸が豊かな女の子だからって、ただの不真面目な怠け者だったら、気を使ったりしないわ。ルシカンテが少しずつ言葉をなおしたり、自分から進んでお掃除したり、出来ることを頑張ってるから、お兄ちゃんだって、なんとかしてあげたいと思うんじゃない」
ヘンゼルがルシカンテのつまらないちょんぼを、鋭い目で見張っていたことは知っている。けれど、同じように、ルシカンテのなんてことない小さな努力も見ていたとは知らなかった。
人並みに出来ないことを人並みまで持って行くのは当然のことで、努力のうちには入らない。評価されるものでは無い。そう思い込んでいたけれど、ヘンゼルはそうは思っていなかったのだ。
グレーテルは悪戯っぽく微笑んで言った。
「ねぇ、ルシカンテ。お兄ちゃんのこと好きになった?」
ルシカンテは目を点にした。ヘンゼルのことを、好きになった? 最初の頃と比べたら、親しみは湧いてきた気がする。
淵で再会したばかりの頃は、なんて嫌な奴だろうと思っていた。ヴァロワに連れて行くと約束してくれたから感謝はしたが、仲良くなるのは難しいと思った。
けれど、落ち込んだルシカンテを気にかけてくれたこと、髪をくしけずってくれたこと、買い物帰りに荷物を持って手を引いてくれたこと、フィッターに親切にしていたこと。色々な面が見えて来たことで、悪い奴じゃない。いや、実は気の良い奴なんじゃないか、と思うようになった。
しかし、好きとは違う。好きと言うのは、一緒にいると楽しくなったり、和んだりする気持ちじゃないのか。
さっき、ヘンゼルに鳥の笛の作り方を教わった時から、ルシカンテの心は平穏とは正反対の状態だ。心臓はどくどくと脈打ち、微熱がずっと続いている。グレーテルの話を聞いて、もっとひどくなったようだ。
ルシカンテが答えあぐねていると、グレーテルはくすくす笑った。まるで、ルシカンテからもう答えを引き出してしまったみたいに。
「ルシカンテにはお兄ちゃんのこと、好きになって欲しいな。その方が絶対に楽しいもん」
グレーテルはそう言い残して、工房に入って行った。ぽかんとするルシカンテは、置いてきぼりを食らった。
その後、ルシカンテはせっせと掃除の手を動かした。じっとしていたら、体中の肌がざわめいて、身悶えしたくなってしまう。




