おかしな訪問者1
第一話 ここに留まってはいられない
あの日の空は落っこちてきそうな、重く垂れこめた曇天だった。
ルシカンテは野草集めの帰り道にふと気まぐれを起こし、東の外れの柵際に立ち寄った。雨がぱらぱらと降ってきたので、丸合羽に縫い付けた頭巾を被り、籠を懐に抱いて、さっさと帰ろうと身を翻しかけたとき。
柵の内側に、一匹の仔キツネを見つけた。こちらに尻を向けて、柵の隙間から外を覗いている。姉のアイノネがよく遊んでやっていた仔キツネの子供、いや、孫たちが遊びにきているのだろうと、ルシカンテは思った。いつもはルシカンテが傍に行くと、蜘蛛の子を散らしたように逃げてしまうのだが、この時はルシカンテがすぐ後ろに立っても動かない。耳を澄ませば柵のすぐ向こう側から、ちー、ちちちち、と鳥のさえずりが聞こえる。聞いたことのない、不思議な囀りだ。人が口笛を吹くように、決まりごとに沿わず、自由に囀っている。
不思議に思ったルシカンテは、仔キツネと一緒に隙間を覗き込んだ。
すると、隙間から白いひとの手がにゅっと突き出したのである。
ルシカンテは腰を抜かしかけた。日は西に傾き、空の天辺からじょじょに夜が染みはじめている。猟師たちはもうみんな柵の内側に戻った。ならば、この手はなんなのか。
手はひらひらと揺れている。長い指が裂いた干し肉を摘んでいた。仔キツネが体制を低くして、くんくんと干し肉の匂いを嗅ぐ。鳥のさえずりが手の動きと同時にぴたりととまった。柵の向こう側で男の話し声がする。
「よしよし、いいぞ、そうそう。いいこだ。そのままこっちへおいで。違う、そっちじゃない、こっちだよ。ほらほら、こっちこっち。ああ、止まるなって、こら! おいしい干し肉をやるぞ。来ぉい、来い来い、仔キツネやーい。来い来い、来ぉい」
仔キツネが警戒心も露わに後ずさるのも無理も無い、あからさまな猫撫で声だった。毒を隠す為に悪戯に甘く味付けした、毒入り団子みたいだ。不用意に誘いに乗れば、あの綺麗な掌を返すだろう魂胆が透けて見える。
ルシカンテの心の声がうっかり喉から滑り出してしまったのかと思うような言葉が、柵の向こう側で紡がれた。
「きっと来ないわ。怪しんでいるのよ。毒餌を食べてしまったことがあるのかも。お兄ちゃん、胡散臭くって、いかにも毒餌を仕込みそうな、意地の悪そうなお顔とお声をしてるもん」
こちらは舌足らずの少女の声だ。春の空を高く舞い上がるヒバリのような、高く澄んだ声音である。
男は仔キツネをおびき出そうとした声色からがらりと変えた。雨上がりの土の上を這うような、じっとりと不機嫌そうな声音を使って言う。
「ここらに住みついてるのは、料理しないで生肉を食う獣じみた未開の蛮族どもだぞ。そんな知恵があるとは思えん。つまらない想像をしていないで、お前も少しは手伝いな。見るからに賢明な俺がやるより、頭が弱そうなお前がやった方が、胡散臭くないだろうし?」
「えー。いや。お洋服が汚れちゃう」
「路銀がなくちゃ、お洋服の変えを買うどころか、家にさえ帰れないぞ」
「お金がなければ、狩りをすればいいじゃない。アーサーの草なら、もう少し南に下れば青々と茂ってるよ」
「お前たちだけなら、それで済むだろうがね。生憎とお兄ちゃんは文明人なんだ。何を食って育ったかわからん獣を素人が捌いて料理した肉なんて、食えない。きっと吐いちまう」
「んもう。お兄ちゃんったら、ワガママなんだから」
「代替案もないのに、嫌だやりたくないとごねるお前の方がよっぽどワガママだろ。もういいから、俺とかわれ。お前の細い腕なら、付け根まではいる。あの忌々しいキツネを引きずり出せ。さっさっと財布を取り返さんとよ。見張りに見つかって、矢を射られちゃかなわん」
「なら、荷台の輝石を売ってお金に換えればいいわ。そのお金でお兄ちゃんの食べるものを買おう?」
「お前はひとの話をまったく聞かないよな。あれは売りもんじゃないって、言っただろうが。必要数にはまだまだ足りていないんだぞ。そもそも、お前はなにか勘違いしてるようだがね。食い物があったら諦めるのかと言うと、そんなことは断じてない。俺は損をするのが大嫌いなんだ」
「お兄ちゃん、けちんぼだもんね」
「その鈍い頭がようやく理解出来たところで、お前もお兄ちゃんを手伝おうか」
「いや。絶対、いやー」
「この、クソガキ……。まぁ、お前の言う事も一理あるか。こんな辺鄙な地にいちゃ、俺みたいに洗練された立ち振る舞いをする紳士は初めてだったろう。警戒されるのも仕方がない。そもそも、服を着て二本足で立ってる人は始めてなのかもしれんな」
「お兄ちゃん、ここのひとたちとどう違うの? 四つん這いになって、体中、泥だらけになってるのに?」
「ああもう、鬱陶しい! ごちゃごちゃ言ってないで手伝え! 大した輝石の収穫も無く、財布まで失くしました、なんてアロンソに言ってみろ。あの変態野郎がこれ以上、増長する口実をくれてやるのは、ごめんこうむるぜ」
「お兄ちゃん、また折檻されちゃうもんね」
聞き慣れない語調と会話の内容は、彼らが内地からやって来た人間だと言うことを示している。
ルシカンテは、ぐるりと辺りを見渡した。全速力で走れば十秒かからない距離に、東の物見櫓がある。見張りが櫓の上でこっくりこっくりと舟を漕いでいるのが、なんとなく見えた。
すぐに最寄りの物見櫓の見張りに知らせるべきだったが、ルシカンテはそうしなかった。見知らぬ若い旅人達のやりとりは、ほのぼののとした兄弟喧嘩にしか聞こえない。内地の人間と初めて接近したルシカンテを、ちっとも緊張させなかった。好奇心の押さえがない。
ルシカンテは好奇心の虜になって、仔キツネの隣にしゃがみ込み、息を潜めて聞き耳を立てていた。隙間から突き出していた手がいったん引っ込む。干し肉を難儀して噛みきっているらしい。咀嚼音がする。
「旨いなぁ、この干し肉。樹の皮みたいにがちがちで、歯が立たねぇし、喉に突き刺さるよ。旨いなぁ、旨い。干してあんのに生臭ぇし、旨いな、本当に。くっそ、こんなクソ旨ぇ干し肉で、よく商売が成り立つもんだな! 燃やして炭にしちまえ、そしたら、もっと高値で買い取ってやる!」
「お兄ちゃん、イライラしないの。どうどう。お煙草のむ?」
「そんなしょっちゅう、のんでたまるか! アロンソの思うつぼじゃねぇか」
兄の剣幕に怖気づいて、仔キツネがぴょんと飛び上がり、驚いてのけ反ったルシカンテの後に隠れる。仔キツネの姿が見えなくなって、兄はさっきに輪をかけて苛立ち、声を荒げた。
「おい、コラ、このチクショウ! こっちへ来やがれ! 毛皮は便所の敷物にして、肉は人喰いどもの餌にしてやるからよ!」
「お兄ちゃん、なんてひどいこと言うの。お兄ちゃん怖い。お兄ちゃん、いやー」
妹に呑気な声で非難されながら、兄はやけくそになって、隙間につっこんだ手を無暗矢鱈と振りまわしている。のたうっている手の皮膚に、蚯蚓のように傷痕がのたうっている。手がつけられない荒くれ者のようだ。
仔キツネが咥えていた巾着をぽとりと落とした。ルシカンテが拾い上げると、はたと気がついて、取り返そうと飛びかかってくる。ルシカンテは立ち上がって仔キツネをいなした。頭を押さえつけて、やんちゃな悪戯っ子を窘める。
「こぉら。おいたしゃダメっしょ。便所の敷物にされちまうど」
ルシカンテは不用意に声を出したあと、幾ばくか間を置いて、はっとした。
(いけねぇ、声ば出しちまった)
柵から伸びていた手が、つつかれた蛇のように、しゅっと引っ込む。柵の向こう側で、男が押し殺した声で言った。
「しまった、ばれた!」
ルシカンテは隙間から向こう側を覗いた。二人は死角に逃れたようだ。姿は見えない。見えないところで、なにやら揉めている。
「お兄ちゃん、やめて、おさないで! 誰かいるよ、誰かいるの!」
「いるから隠れるんだよ! こら、大人しくしろ! まったくもう、お前がそうやって騒ぐから……!」
「うるさくしたのは、お兄ちゃんでしょ。ねぇねぇ、お話ししてみようよ! もしもーし、バンゾクさん、そこにいる?」
「バカっ、よせ、やめろ!」
隙間から白い顔が覗いた。綺麗な銀色をした、大粒の宝石のようなぱっちりお目目が印象的である。年の頃は十代前半か。ルシカンテと変わらないくらいに思われた。
少女はすぐに長い手に首根っこを掴まれて、死角に引きずり戻された。兄妹が揉み合っているうちに、ルシカンテの足に挑みかかっていた仔キツネが、飽きて柵の隙間から外へ逃げて行く。兄が、あっと声を上げる。ふたりが仔キツネを追いかける前に、呼びとめなければ。と慌てたルシカンテは、必要以上に大きな声を出した。
「あのぅ、内地からいらした旅のお方? この巾着だったら、おらが持っとりますけども」
兄妹は息を潜めて黙っている。物盗りだと勘違いされたかもしれない、とルシカンテは心配になった。誤解をとかなければ、何か言わなければ。ルシカンテが焦っていると、妹の弾んだ声が明るく言った。
「わぁ! 答えてくれた! ねぇねぇ、お兄ちゃん。このひとバンゾクさん? 本物のバンゾクさんよね? すごぉい! はだかで四つん這いになって、そこにいるのかな? 見たい見たい! お兄ちゃん、そこ、かわって! わたしにも見せて!」
「お前は黙って引っ込んでろ! しっしっ!」
妹を犬のように追い払い「おらは、バン族でなくて、ホボノノ族ですよ」と訂正しようかと思っているルシカンテに、兄がおもむろに咳払いをしてから言った。
「ええ、如何にも。私どもは北の地を巡回している……行商でございます」
男は語調を変えていた。今度は、妙に四角張った声色で、勿体ぶった話し方だ。口調がころころ変わる。
ホボノノ居住区は、ふたつの大きな国のちょうど真ん中あたりにある。周囲を、人を食らう殻の獣どもの住みかである深い「淵」に囲まれているので、内地の人間は寄り付かない。ふたつの国を渡る旅人たちのほとんどは、淵を倦厭し迂回していく。だが中には危険を顧みず、淵をつっきり隣国を目指すつわものがいる。そう言った旅人と遭遇した猟師も少なくない。その旅人の多くは、品物の運び売りを生業とする商人たちだ。
ホボノノは余所者を嫌う。近ごろ、淵に分け入り殻の獣に挑む内地の人間が度々見かけられているそうだ。今のところ実害はないのだが、ホボノノは目的がなんであれ、秩序を土足で踏み荒らす者として、よそ者に辛く当っている。
ルシカンテはその状況を今更思いだして、声を潜めて問いかけた。
「なして、こげなとこさおいでになりました。居住区の周りにゃ、内地の方は近づいちゃいけねぇ。乱暴なやり方で追っ払われる。ご存知ねかった?」
ルシカンテが盗み聞きした会話から推察して言うと、兄は実にわかりやすい、嘆きの溜息をついた。
「それがね、この愚かな連れが私の目を盗んで、あの憎たらしい仔キツネに干し肉を与えて遊んでいたのが、元凶で御座いましてね。図々しくも馬車に乗り込んできた仔キツネが、悪戯に私の持ち物を咥えて逃げてしまったのですよ。やむを得ずその仔キツネの後を追い、気が付いたら、こんなところまで来てしまっていたというわけです」
「お兄ちゃんね、あの仔にしてやられたの。ポケットからお財布が抜き取られちゃったのね。そっち行ったから、気をつけてってわたし、言ったのに。居眠りしてたんだよ、きっと」
「バカ言え! 馬車の制御に集中してたんだ。遊び呆けてるお前と違って、お兄ちゃんにはいろいろ気を配ることがあって大変なんだっての」
兄がとさかをたてて怒鳴ると、妹のふざけたような悲鳴が遠くなった。ぐぬぬ、と唸ってから、兄が声色をまた変える。ちょっと鼻につくくらい、哀れっぽい声をつくる。きっと揉み手をしているだろう。
「よろしければ……それを返しては頂けませんか。もちろん、ただでとは申しません。感謝はほらそれ相応に、きちんとかたちにして」
ルシカンテは「財布」なる巾着をそっと持ち上げてみた。じゃらじゃらと、固い物が擦れ合う音がする。膨らみ具合の割に、ずっしりと重い。中身は鉄だろうか。よくわからないが兄の態度からして、大切なものなのだ。ルシカンテは財布を、隙間から外に出してやった。
出してやったのに、兄はなかなか財布を受け取らずにいる。ルシカンテは焦れて、せっついた。
「どげしましただ? なにば遠慮してます。おめぇ様のもんなんだべ?」
干し肉はもののけ姫でサンがアシタカに食べさせてあげる、あの干し肉のイメージです。かたい!