仕立て屋とヘンゼル
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第十席に戻ると、街並みは夕焼けの朱銀に燃えていた。
ヘンゼルに顎でこき使われ、食料を貯蔵庫に全て降ろし終える。ヘンゼルは二つ手を叩いて、ルシカンテたちを集めて言い渡した。
「お仕着せは、裏の仕立屋に頼むことにする。九席の店に頼んだら、ふっかけられるからね。早い方がいいから、今から生地を持ち込むぞ。出来るようなら、採寸も済ませてしまおう。グレーテル、寝るな。お前も来るんだ」
一息つく暇もなく、ルシカンテたちはヘンゼルに引き摺られるようにして出掛けた。路地を通り抜け、仕立屋の正面に回り込む。
導入路も迫持ちも庭の飛び石も、赤茶色の煉瓦で出来ている。釣り看板は、針とはさみを象った、可愛らしいものだった。
ヘンゼルは扉に取り付けられた、ノッカーと言う金具で扉を叩いた。しばらく待ったが、返事はない。留守なのではないか、と訴えたルシカンテの視線を無視して、ヘンゼルは声を張り上げた。
「ごめんください。フィッターさん。バイスシタインです。仕立てをお願いしたいんですが」
ややしばらくして、扉の向こうから物音が聞こえて来た。ぱたぱたと小走りの足音が近づいて来る。
扉を開けて現われたのは、肌の青白い、痩せぎすの、壮年の男だった。
男が薄暗い屋内からにゅっと現れたとき、ルシカンテは飛び上がってしまった。生気が薄い容姿もそうだが、つんと鼻をつく肉の腐ったような臭いが、男を起き出した屍のように思わせたのだ。猟が成功してしばらくの間はしつこく臭う、馴染み深くも不快な腐臭に似ている。
男の落ちくぼんだ眼窩で、しょぼついた小さな目が瞬いている。男はぼうっとしていたかと思うと、やにわにはっと目を見開いた。細い鼻梁に引っ掛かった瓶底眼鏡のつるを、指で押し上げると、やっと焦点が結ばれた。
「やぁ……! ヘンゼル君、戻ったんだね。今回も、無事で良かった。ようこそ、いらっしゃい。グレーテルちゃんも」
「グレーテル、ご挨拶は?」
ヘンゼルに促されて、ヘンゼルの背に隠れていたグレーテルがひょっこりと顔を出した。
「こんにちは、フィッターさん」
グレーテルのはにかみに、フィッターは目許を和ませた。彼の反応は一拍遅れている。目から鼻に抜ける感じはないが、素朴で親しみやすい雰囲気をもっている。
フィッターは、ルシカンテとギャラッシカに気がつくにも時間がかかった。斜めに傾いた眼鏡を直しながら、彼はヘンゼルに尋ねた。
「……うしろの方々は?」
「うちで、とうとう使用人を雇うことになりましてね。この二人がそうです。これでお仕着せを二着ずつ、仕立てて頂きたい」
ヘンゼルはギャラッシカの腹を肘でついた。ギャラッシカが巻物を差し出す。フィッターは、ギャラッシカの大柄と、野に放たれた獣のような風情に圧倒されたようだ。ヘンゼルがギャラッシカから巻物をひったくって、フィッターに手渡す。
「噛みつきやしませんよ。その娘がけしかけなけりゃね」
ヘンゼルはルシカンテを視界の端にとらえて嘯く。フィッターは、頭頂部に一掴みだけ残っている鳶色の毛髪を手櫛で整え、ヘンゼルとルシカンテたちを家に招き入れた。
部屋の壁を棚が占領しており、多種多様な巻物が並べられている。机の上には色とりどりの糸巻きが詰まった箱と、鉛筆、カタツムリのような巻尺という道具が散らかっている。
フィッターは机の上に散乱しているものを奥に押しやりあけたスペースで巻物を広げた。生地の手触りを確かめている。
「良い生地だね。丈夫なお仕着せが出来る。お嬢さん、あなたのお仕着せも、この生地で作ってかまわないのかな」
机の隣に配置された、机と同じくらい大きな箱型の機械をまじまじと見つめていたルシカンテは、声をかけられたことになかなか気づかなかった。ヘンゼルは苦い顔をして「ちょろちょろするな。フィッターさんを無視するな。返事」とルシカンテを叱ったが、フィッターはくすくすとのどかに笑っている。
「ミシンが珍しいのかな。工房でもなければ、こんなに大きなミシンは置かないだろうからね」
ミシンというらしい。呼び戻された犬のように、ヘンゼルの許に戻ったルシカンテを顎でさして、ヘンゼルがフィッターに問い掛ける。
「その生地、彼女が選んだんです。おかしいですか?」
「いや、おかしいことは無いんだ……ただ、年頃のお嬢さんだから、もう少し華やかなものが着たいんじゃないかと思ってね」
ヘンゼルは、いつもよりは控えめに眉を顰めた。
「私は彼女に、料理を作ったり、皿を洗ったり、湯を沸かしたり、掃除をしたり、その他の簡単な雑事をして欲しくて、使用人として雇い入れました。綺麗な恰好をさせて、硝子のケースに飾る為じゃありません」
その簡単な雑事すらてんでだめだと思うと、ルシカンテの肩身は狭い。フィッターはくすりと含み笑った。
「そうだったね。女性と見ると見境なく、綺麗に着飾らせたくなってしまう。職業病だよ」
フィッターは机の上を探って、巻尺と紙と鉛筆を手に取ると、大きな姿見の前に移動した。姿見の前には台が置かれている。
姿見の前でフィッターが振り返った。
「時間はあるのかい? もし良かったら、今、採寸を済ませてしまおうかと思うんだが」
「助かります」
ヘンゼルは渡りに船だと頷いて、ルシカンテの背中を押しだした。わけがわからずに振り返るルシカンテに、ヘンゼルは顎をしゃくってみせる。
「採寸して貰うんだ。ほら、さっさと行って」
体を測ると聞いて、ルシカンテは気が進まなかった。無駄だろうとわかっていても、ごねてみる。
「……また、裸さなるの? おらもう、これで良いよ」
はぁ? とヘンゼルが柳眉を逆立てた。
「これで、とはなんだね。それは俺のシャツだぞ。俺は衣装持ちじゃないんだ。君にかしていたら、生乾きのシャツを着ないといけなくなる。それに、誰も裸になれとは言ってないだろう」
ヘンゼルの言葉を掻き消すように、ギャラッシカがよく通る声で言った。
「その男は、ルシカンテのはだかの胸が見たくて、嘘をついているのかもしれない」
「バカ言うんじゃないよ!」
ヘンゼルが目の色を変えて怒鳴る。フィッターは、堪え切れずに噴き出した。ヘンゼルがじっとりとした目つきになると、慌てて取り繕ったが、言葉に笑いが滲んでいる。
「……ごめん、ごめんよ。気にしないで。……それにしても意外だなぁ。君はずっとグレーテルちゃんと二人きりでやっていくものだとばかり、思っていたよ」
「私もそのつもりでしたが……事情が変わりましてね」
ヘンゼルが疲れた様子で首を横にふる。フィッターは真に受けず、にこにこした。
「わかるよ。賑やかで楽しそうだ」
「私には、あなたが何か勘違いしているってことが、よくわかりました」
ヘンゼルはそう言って、ルシカンテの背をもう一度押し出した。裸にならなくても良いという言葉に安心して、ルシカンテは大人しくフィッターの許へ近づく。台に上がると、両腕を広げるように言われた。言われた通りにすると、動かないように言い含められた。
何が始まるのかとたじろいだルシカンテだったが、痛いこともかゆいこともなかった。フィッターはただ、ルシカンテの周りをくるくると回り、巻尺を巧みにさばき、体にあてたりまきつけたりして、手際良く紙に字をしたためていく。目は真剣だったが、口元は楽しそうに綻んでいる。手を休めずフィッターは言った。
「これからはこの可愛らしいお嬢さんが、君の為に美味しい手料理を作ってくれるんだね。これでひと安心だ」
ルシカンテは唸りたくなった。大前提が、間違っている。ルシカンテはホボノノの料理なら、上手とまではいかなくても、一通りは出来るつもりだ。だが、ホボノノの料理はヘンゼルに全否定されてしまった。おらは可愛く無いし、美味しい料理も作れません。と卑屈に白状したくなる。
そんなルシカンテの情けなさを知る筈も無く、フィッターはにこやかに続ける。
「君がこれ以上やせ細っていったらどうしようかと心配だったんだ。妻も喜ぶだろう。君に手料理を振舞えなくなったことを、妻はひどく気に病んでいてね。君が飢えて死んでしまうって言うんだ」
「フィッターさん、おかみさんは」
ヘンゼルの言葉が途切れる。白い顔の上で、なにかしらの葛藤が閃いた。ずけずけと物を言うヘンゼルが、言いかねている。ヘンゼルがご執心だと言う、胸の大きなおかみさんのことだ。
フィッターは朗らかに笑って、中途半端の質問にこたえた。
「心配しなくても大丈夫だよ。ベッドから出られなくて退屈しているけど、もう、苦しいことも痛いこともない。この暮らしに、それなりの楽しみを見出しているよ。今までずっと働き詰めだったから、ゆっくり休ませてあげるんだ」
フィッターの、夢に夢見るような双眸が姿見にうつりこむ。恋する少年のように、頬が薔薇色に染まっていた。
フィッターは手を引くと、ルシカンテに採寸の終了を告げた。ルシカンテは、よくわからないまま、台から飛び降り、ギャラッシカと交代した。ギャラッシカが台に上がると、フィッターは「これは、僕の方こそ、台が必要だな」と言って苦笑した。
台を降りたギャラッシカの採寸をしながら、フィッターは言った。
「ヘンゼル君に頼みたい仕事があるんだ。謝肉祭の日に、妻に贈る輝石の装身具をつくって貰いたい。長旅の帰りで、疲れているところに急で悪いんだが、是非とも君に頼みたいんだよ」
十日後に、謝肉祭というお祭りが開催される。謝肉祭はもともと、冬の悪霊追放、春の豊作、幸運祈願をする農民のお祭りで、農業地区では、粛々と儀式が執り行われるそうだ。しかし第九席では、商魂たくましい商人たちによる、祭事にかこつけた、着飾り、歌い踊り、飲んで食べて、羽目を外して楽しむ、どんちゃん騒ぎが催される。祭りの目玉として夜空に打ち上げられる、花火というものを一緒に眺め、婚約を交わした恋人は、末長く幸せになると言う、伝承があるそうだ。
フィッターは照れくさそうに鼻をかいた。
「祭りには参加できなくても、彼女の部屋の窓から、高く打ちあがった花火が見えるからさ。花火を見ながら、彼女に贈りたいんだ。僕は甲斐性なしだから、婚約の指輪を贈れるようになるまで、こんなに時間がかかってしまったよ」
内地では、結婚するときに指輪を贈る習慣があるのか。とルシカンテは興味深くフィッターの話を聞いた。ホボノノでは結婚のときに、父が仕留めた猟獣と、毛皮や牙の工芸品を持参の品として娘に持たせて嫁がせる。夫となる男が、妻になる女に贈り物をする習慣はない。夫は常日頃、肉という贈り物を妻にすることになるからだ。
ルシカンテは内地の伝統に好感をもった。語るフィッターが、妻への愛情に溢れる、感じの良い男だからかもしれない。ヘンゼルもフィッターの前では、苛々せず、かといって冷笑的でもなく、落ちついている。まともな人づきあいとは縁がなさそうに思われたヘンゼルだったが、思いがけず近くに、良い理解者をもっていたらしい。ルシカンテも、フィッターとならうまくやれそうだ。ヘンゼルとより、もっと気楽に付き合えそうである。
ヘンゼルはフィッターの目をじっと見つめている。また、何か言いたそうにしている。フィッターの顔が曇った。
「ああ……そうか。勝手に仕事をするわけには、いかないよね。セルバンテス様を通さなければ……」
ヘンゼルはじっとフィッターの目を見つめる。力なくほほ笑んだ。
「アロンソ様を通していたら、装身具が手に入るのは、早く見積もっても一年後。小指にはめる可愛い指輪と引き換えに、三カ月は飲まず食わずで服を縫わなきゃならなくなりますよ。その仕事は、私が個人的に承ります」
でも、と言い淀むフィッターを、ヘンゼルは有無を言わさぬ笑顔で黙らせた。
「大切なお品物になりますから、ご要望を粒さにお伝えください。ご相談がてら、これから家で食事をご一緒しませんか。たいしたものは、お出しできませんが」
フィッターはヘンゼルの申し出を喜んだが、丁寧に断った。
「残念だが、妻を一人残しては行けない。でも、誘ってくれて、とてもうれしいよ。指輪のことも、ありがとう。無理を言って、悪かったね」
夫婦二人きりの生活なら、それは当然の判断だ、とルシカンテは思った。フィッターの妻は、順調に快方に向かっているようだが、未だに寝台にから起き上がれない体らしい。病床の妻をひとりで残して、食事によばれるのは、愛妻家の夫には出来ない選択だろう。
しかし、ヘンゼルはそう考えていなかったようだ。一瞬、言葉に詰まりさえした。「そうですか」とやっと言って、ギャラッシカの採寸が終わると、すぐに暇乞いをした。帰り際、見送りに出たフィッターの笑顔を、曇り空の目でじっと見つめていた。
ルシカンテはヘンゼルの感情の揺れ幅が理解できずに、首を傾げるばかりだった。ヘンゼルの家に戻り、野菜を井戸水で洗いながら、ようやく、わかった気がした。ヘンゼルが心配するのも、無理はない。肉をあんなにひどく腐らせる体たらくなのだ。生活能力に欠けているのだろう。ヘンゼルが好きだという巨乳のおかみさんも、おちおち寝ていられそうにない。
ルシカンテは、相変わらずうまく仕事を捌けず、竈で火をさばくヘンゼルにどやしつけられながら、鞭に怯える家畜のように這いずりまわった。
ヘンゼルの怒声は相変わらず怖い。けれど、気を抜くと、ふっと笑みがこぼれそうになる。
(フィッターさんを心配して食事さ招いたり、特別に仕事を引き受けたりして。ヘンゼルは、結構、気の良い奴なんだな)
ふふふ、と笑っていると、ヘンゼルが目を三角にしていた。
「何がおかしい。おかしいのは、君の処理能力だけにしてくれよ。とろとろ洗ってた癖に、なんだ、これ。枯れた葉の部分は千切って捨てておけよ、気がきがねぇな。おぉい、グレーテル! お前、このノロマ男を見ててやれって言っただろ! このグズ男は、玉ねぎを皮だけじゃなくて、実まで剥いてばらばらにしちまってるぞ!」
食卓の椅子に座っているギャラッシカが、目を真っ赤にしながら、玉ねぎをばらばらにしている。玉ねぎの汁がついた手で目をごしごし擦り、グレーテルに「お目目が痛くなっちゃう」ととめられている。
「君には任せておけない」と仕事を取り上げられたので、ギャラッシカの向かい側の席に腰を下ろすと、ヘンゼルは気が触れたように叫んだ。
「怠けるな、使用人!」
ルシカンテは、ヘンゼルの後で右往左往して、邪魔だとどやされながら
(一刻もはやく、仕事ば覚えよう。ヘンゼルが腹ばたてなくて済むように)
と、気合を入れ直した。