おでかけ2
泡を綺麗に流して、ルシカンテとグレーテルは浴室を出た。タオルという、綿の柔らかい織物で、体の水気を拭う。グレーテルの洗いたての髪は、タオルで少し水気をとると柔らかく揺れたが、ルシカンテの髪は油分を失い、ごわごわしていた。
布地面積の少ない内地の下着を身に付け、その上にグレーテルに借りた服を重ねる。上半身には、ゆったりした肌着状の、ブラウスという白い上着を着て、前のボタンを留める。グレーテルが履いている、黒い伸縮する布地で出来た、タイツというものを素足に履くと、足がつっぱった。その上から、深紅のスカートを履く。ブラウスの裾をスカートに突っ込んで、ホックを留めた。
ヘンゼルの言う通り、ルシカンテとグレーテルの体型のおおよそは、似通っている。だが、胸と尻の部分は、幼いグレーテルと、十七歳のルシカンテとでは、明らかに発育が異なり、質量も異なっていた。
尻は、まだなんとかなるが、胸がだめだ。ボタンはなんとかとまったが、今にもはちきれそうになっていて、ボタンとボタンの間に大きな隙間があいてしまっている。
グレーテルは、着替える前と同じような意匠の、濃紺のワンピースに着替えを済ませている。ルシカンテがもたもたしていると、脱衣所の扉がどんどんと叩かれた。
「おい、もう上がったんだろ? なにを手間取っている? 服の着方か? グレーテル、ちゃんと教えてやれ」
ヘンゼルの不機嫌な声だ。ルシカンテは、慌てて返事をした。
「いや、違う、大丈夫。ただ、ちょっと、きつくて……」
「はぁ? 君は、グレーテルよりチビじゃないか。何処がきつい」
「チビとはなんだ!」とルシカンテが噛みつくのに被せて、グレーテルがやたらと元気な声で言った。
「お胸がきついの! ボタンが弾け飛んじゃうよ!」
なにもそんなに大きな声を出さなくても、とは思ったが、グレーテルが代弁してくれて、助かった。ヘンゼルにああでもない、こうでもないとつつかれて、つい言い返していたら、ブラウスのボタンが引きちぎれた。なんてことになったら、今度は何を言われるか、わかったものじゃない。
ヘンゼルは、黙っている。グレーテルが扉を開けようとすると、向こう側から開かないように、押さえつけた。
ヘンゼルは、へどもどしている。
「あっ……そう、そうなの? それじゃ、ええと……新しいの、買おうか」
グレーテルは、はて、と首を傾げた。
「だけど、お兄ちゃん。その新しいお洋服を買いに、出かけなきゃいけないんでしょ? このまま行くの? はちきれちゃいそうだけど」
「バカ言うな、はちきれそうな服を着て、街なかを歩いてみろ! その娘も、一緒の俺らも、あっという間に、とんでもない誤解をされるぞ!」
グレーテルをがみがみと怒鳴りつけてから、ややしばらくして、ヘンゼルが扉をノックした。グレーテルが開け放とうとした扉を向こう側から押さえている。隙間からヘンゼルの手だけがにゅっと伸びて来た。綺麗に畳んだ白いシャツを差し出している。
「上に俺のシャツを着ていてくれ。それなら、さすがに、きつくないだろう」
シャツを受け取ったグレーテルは、ルシカンテの前でシャツを広げて見せた。シャツを受け取り、肌着の上から羽織ってみる。肩山があまりすぎて、袋のようにたれているし、裾がスカートみたいに長かった。けれど、首元のボタンを締めれば、首が詰まり、ちゃんと着ていられる。シャツの裾をスカートに入れて身支度を整えていると、グレーテルがしみじみと言った。
「ルシカンテって、お胸が大きかったんだねぇ。あの格好じゃ、わからなかったわ。うふふ、良かったね、ルシカンテ! お兄ちゃん、ルシカンテには、優しくなると思うよ。お兄ちゃんは、お胸が大きい女の人が大好きなの!」
へ? とルシカンテが間の抜けた声を出すのとほぼ同時に、扉の向こう側でヘンゼルががなりたてた。
「こら、クソガキ! 適当なことを言ってんじゃねぇぞ!」
「裏の、仕立て屋のおかみさん、とってもお胸が豊かなの。お兄ちゃんが、あそこを贔屓にするのは、おかみさんに会いたいからなのよ。いつも、鼻の下のばして見ているの。おかみさんがご病気で、工房に出れなくなったら、今度は窓の外からのぞいてるんだから。今日も、いやらしい目でじろじろ見ていたでしょ? お兄ちゃんてば、すけべー」
「そんなんじゃねぇって、言ってるんだろ! 黙れ! 黙らねぇか、この、この! こまっしゃくれ!」
「お兄ちゃん、お着替え、終わったわ」
グレーテルがしれっとして言うと、ヘンゼルは一呼吸置いてから、扉を開けた。あけたら恐ろしいものが飛び出してくると思っているような開け方だ。
そうっと覗いたヘンゼルの小難しい顔の上には、ギャラッシカののほほんとした微笑みがある。ヘンゼルは、神経をすり減らす細かな作業に従事しているみたいな顔つきで、ルシカンテに尋ねた。
「君さ……本当の歳はいくつなの?」
本当の歳もなにも、虚偽の申告をした覚えはない。府に落ちないものの、ルシカンテはきちんとこたえた。
「もうすぐ十七」
「その背で? その顔で?」
「そのお胸で?」
「グレーテル! 胸の大きさにこだわるな! ……ごほん。愚かしい妹が好き放題言っているが、勘違いしてくれるなよ。君の胸が想定より豊満だったからと言って、俺は態度を改めたりしないからな」
ルシカンテは、はぁ、と相槌を打った。
(胸の大きさによって態度を変えられる心配なんて、してねぇんだけどもな)
ヘンゼルは、しばらく沈思黙考していたかと思うと、いきなり耳まで赤くなった。上ずった声で自らの発言を打ち消す。
「違う、違う! 今のは、なし! 君が想定していたより大人だからと言って、態度を改めたりしないって言いたかったんだ! これは、胸の話じゃない。年齢の話だ!」
「……お兄ちゃん、気持ち悪い。お兄ちゃん、いやー」
「俺だって嫌だよ! お前な……変なことをお兄ちゃんに言わせるな!」
「お兄ちゃんが勝手に、気持ち悪いこと喋ったんでしょー。お兄ちゃんの助平。お兄ちゃん、いやー」
グレーテルの間延びした呑気な声が、ひどく冷ややかに聞こえる。
ヘンゼルは、耳を塞いで「わーわー、何も聞こえなーい!」と騒いだ。ルシカンテの隣に立ち
「助平には気をつけて」
と言ったギャラッシカは、ヘンゼルによって浴室に蹴りいれられた。
ルシカンテは、ヘンゼルに櫛を手渡され、髪を梳かすように言われた。ヘンゼルはグレーテルを炊事場の椅子に座らせて、髪を梳いてやっている。
ヘンゼルは「石鹸の泡が落とし切れていない」「髪が縺れている」とぶちぶち不満を漏らしていたが、懸念に反して、ルシカンテを怒鳴りつけることはなかった。兄に世話を焼いて貰っている間、グレーテルはじっとしていられず、「まだ、まだ?」とそわそわしている。うるさくして、ヘンゼルに叱られていた。
ルシカンテはと言うと、髪に櫛入れて、ちょっと引き下ろしただけで、櫛の歯が、顔面を殴られたみたいに折れてしまい、うろたえていた。歯のかけた櫛を持っておろおろしていると、ヘンゼルがあきれ顔で言った。
「髪もひとりで梳かせないのかい。十七にもなるのに、グレーテル並に手がかかる」
ヘンゼルは、グレーテルを椅子から追い立てると、今度はルシカンテを呼び寄せた。まごつくルシカンテを椅子に座らせて、ヘンゼルが後に立つ。
「失礼」
と断りを入れて、ヘンゼルがルシカンテの髪に触れた。
グレーテルの髪が綺麗なのは、ヘンゼルの手入れが行き届いているからだと、よくわかる。ルシカンテの、ぐちゃぐちゃに縺れた髪を根気強く解き、櫛通りが滑らかになるまで髪を梳かしてくれた。器用ではないが、丁寧な手つきだった。頭皮が軽くひかれる心地よさを初めて体験して、ルシカンテはうとうとしかけた。
鼻先に、甘い香りがかすめる。ヘンゼルは、桃色のガラスの小瓶から、黄色っぽい、粘性のある液体をとり、掌全体で伸ばして、ルシカンテの髪に塗り込んでいる。ルシカンテの、四方八方に散らかっていた跳ねっ返りの毛髪が、しおしおと垂れていく。瑞々しい青さを含んだ甘い香りが、薄い膜になってルシカンテを包んでいる。ルシカンテは、うっとりした。
「いい香り」
「そうだろう。値が張るんだ、これ。椿油だよ。髪油の中でも最高級品なんだぜ」
値が張ると言われて、ルシカンテは恐縮した。そんな高級品を、今のところ何の役にもたっていないルシカンテが、たっぷり使って貰って良いのだろうか。もしかして、ヘンゼルはその皮肉をこめて、値が張ると言ったのかもしれない。
ルシカンテが思い悩んでいる間、ヘンゼルは、仕上げに櫛で髪を今一度梳かした。櫛は滑るように髪を通る。ヘンゼルは櫛を置くと、満足そうに頷いた。
「よし、これで、だいぶましになったかな」
ルシカンテは、歯の欠けた櫛を握り締めて、落ちつかなかった。櫛のことで怒鳴られないばかりか、優しく髪を梳いて貰ってしまった。
びくびくしているルシカンテを見て、ヘンゼルが胡乱気に眉を顰める。
「なんだい? 変な顔をして」
「……櫛の歯ば、おっちゃった。怒んないの?」
歯の折れた櫛を、恐る恐る差し出す。ヘンゼルは、目をぱちくりさせて、やれやれと肩を竦めた。
「君ね……。俺だって、そうそう怒ってばかりいちゃ、体がもたないよ」
「……思っていたより、おらの胸が大きかったから、優しいのけ?」
「そんなに俺を怒らせたいか! よし、わかった。根限り怒鳴り続けてやるから、そこになおれ!」
そうこうしていると、ギャラッシカが脱衣所から出て来た。彼の入浴は、烏の行水だった。ギャラッシカは、ヘンゼルのシャツとズボンを借りている。留めなければならないボタン、留め金は、筋肉に押し上げられ、全て弾け飛んでいた。
ヘンゼルは、堰止めていたものが崩れたみたいに、激して怒鳴った。
「袖を通した時点で、無理だと気付いて諦めろ、バカ!」
ギャラッシカは、ボタンが弾け飛んだシャツをぐいぐいと引っ張りながら、ひどい苦労をしたような、疲れた顔をした。
「その体は、骨に皮が張っているだけなのかい?」
「なんだと……普通の男はこんなもんなんだよ、異常なのは貴様だ! むきむきの筋肉バカめ……!」
ヘンゼルはギャラッシカを蹴り退けて、ずかずかと浴室に入り、力任せに扉を閉めた。
皆を急かした癖に、ヘンゼルはたっぷり時間をかけて入浴した。脱衣所から出て来ると、髪型をきれいに整え、紳士服をぱりっと着こなしていた。今すぐにでも、出掛けられるようだ。食卓の椅子に座ったグレーテルと、床にしゃがみ込んでいるギャラッシカと、その前にしゃがんだルシカンテを見渡して、威張って言った。
「準備はいいかな、諸君。それでは、出発するぞ。予定通り、着る服のない奴は置いて行く。服は、適当に余裕がありそうなのを見繕ってやるから、お前が来なくても支障はない。安心して留守番してろ」
グレーテルが、元気良く返事をして立ち上がる。ルシカンテは困ってしまった。さっきから、ギャラッシカの身形を整えようと思考錯誤していたのだが、どうにもならなかったのだ。ルシカンテは、ギャラッシカに「一人でお留守番ば出来る?」と努めて優しく聞いた。するとギャラッシカは、断固として留守番を拒んだ。
「ルシカンテの胸の大きさを知って、この男はルシカンテを変な目で見ている。何をされてしまうかわからないから、ルシカンテだけを行かせられない」
「失敬な奴だな!」
ルシカンテは、ヘンゼルを見つめた。変な目って、どんな目だろう。
これでは、ギャラッシカを一人残して行けない。ルシカンテは、ギャラッシカと一緒に留守番をすると、ヘンゼルに申し出た。自分の服も、適当に余裕があるものを選んで欲しいと告げる。
ヘンゼルはとんでもない、と言った。グレーテルも、ルシカンテを置いて遠くには行けないという。
「ルシカンテは、いつもわたしの傍にいてくれなきゃダメなの」
グレーテルが、ルシカンテの腕にぎゅっと抱きつく。ギャラッシカと言い、グレーテルと言い、こんなに懐いて貰える理由が分からない。
ヘンゼルは、腹ただし気に舌打ちをすると、炊事場を出た。足音荒く階段を上り下りして、戻って来る。着丈の長い、黒い外套をギャラッシカに投げつけた。
「そんなに言うなら、これでも着てろ! ただし、どんなに暑くても、暑くて死にそうになっても、絶対に脱ぐなよ。露出狂を連れ歩いていると思われるのは、ごめんだからな」