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ヘンゼルと悪い魔女  作者: 銀ねも
第二章「まっさらな新しい日」
26/65

おでかけ1

 ***


 あくる日の朝。ルシカンテが部屋の扉を開けると、すぐのところに、ギャラッシカがもう一枚の扉のように立っていた。


「おはよう、ギャラッシカ。おらば待ってたのけ?」

「会いたかったからね」


 ギャラッシカは、大きな黒い犬みたいだ。表情が乏しく、力持ちで、ルシカンテの傍にいたがる。彼がルシカンテだけに向ける親しみは、ざらざらした舌でべろんべろんと顔を舐められるみたいで、こそばゆくなってしまう。

 ルシカンテとギャラッシカは、炊事場に直行した。食卓の上には、冷えた野菜の炒め物が鍋ごとどかりと乗っている。グレーテルは水を跳ね散らかしながら、鼻歌交じりに兄が汚した皿を洗っていた。


「ギャラッシカの分は買って来ないと、もうないの。他にもいろいろと、必要なものがあるでしょ? ルシカンテのお食事が終わったら、体を綺麗にして、皆でお買いものに行くのよ」


 ギャラッシカが生肉以外のものを口にしないことを、グレーテルは知っていた。偏食と言ってしまえば身も蓋も無いが、影の民は肉しか食べないのだ。ギャラッシカも影の民と同じ生活をしてきたのだろうから、致し方ないことである。

 ルシカンテはギャラッシカに詫びを入れて、野菜炒めをもそもそと食べた。千切ったタマヂシャに油を回して、塩をぱらぱらとかけただけの質素な料理は、材料が少なく冷めている分、昨日の炒め物よりも喉の通りが悪かった。竈にかけた大鍋が吹きこぼれて、グレーテルがあわあわと立ちまわる。火かき棒で火力を加減しながら、グレーテルは言った。


「全部食べてね。残したらもったいないって、お兄ちゃんがうるさいから」 


 ルシカンテは野菜炒めをほとんど丸のみして胃に納め、鍋を空にした。使い終えた鍋と皿は、グレーテルが引き受けた。水をたくさん沸かさなければならず、竈から離れられないのだという。グレーテルは火の番を愉しんでいるようだ。


「たまにしかやらせて貰えないのよ。お兄ちゃん、危ないからって、滅多にわたしに火を扱わせてくれないんだもん」


 ヘンゼルは妙に過保護だ。昨夜の工房で覗き見た場面でもそうだったが、年の離れた妹が可愛くて仕方がない様子である。

 グレーテルは鍋にこびりついた野菜滓を、藁を束ねたタワシで擦りながら言った。


「ルシカンテはお兄ちゃんを呼んで来て。お家の裏のベンチに、おじいさんみたいに座っているわ。あっ、ダメだよ。ギャラッシカは残って。沸かしたお湯を、浴槽に入れてほしいの。お湯をあけたら、井戸で水を汲んで来て。浴槽がいっぱいになるまで繰り返すのよ。わかった?」


 ギャラッシカは引きとめられても当然のように、ルシカンテの後について来ようとする。ルシカンテは、グレーテルの言うことを聞くように、ギャラッシカを説き伏せた。ヘンゼル兄妹の不興を買って追い出されたら、路頭に迷うのはギャラッシカも一緒だ。


「ギャラッシカ。ヘンゼルとグレーテルとちゃんとお話ばしな? 思ってたより怖くねぇからさ」


 ルシカンテは昨日の、二つ並んだ窓辺での出来事を思い返しながら言った。ギャラッシカは、手応えのない千篇一律の微笑みを浮かべて、こくりと頷く。


「そうかい」


 ルシカンテは炊事場を出て、入口の広間を通過し、両開きの扉から外へ出た。鍵はかかっていなかった。

 石畳の大通りには疎らではあるが、人の行き来がある。昨日と同じく、ほとんどの人間は工房に籠っているようだ。小さな荷馬車の御者が通り過ぎる際に、ルシカンテをじろじろと見ていた。奇妙な蟲でも見るような目だった。ルシカンテは寝癖を撫でつけ、合羽の裾を引っ張って皺を伸ばし、そそくさと路地に入った。

 末席と違って、路地に折れても清潔だ。生塵が散らかっていたり、ひとが蹲っていたりすることはない。遠くで近くで、人々の営みが音になり匂いになり、漂っていた。しかし、ほのかに饐えた臭いがする。ルシカンテは鼻先に皺を寄せた。臭いは、ヘンゼルの家の裏手に近づくほど強くなる。

 ヘンゼルはグレーテルの言った通り、家の裏手にいた。二人掛けの木製のベンチの真ん中にどかりと腰かけ、両腕を背凭れにかけている。シャツの襟は中途半端に内側に折れ込んでおり、ズボンの裾のうち、片方だけが靴下に挟まっていた。ヘンゼルは生欠伸を呼吸するみたいに連発している。

 着の身着のままでいるのが恥ずかしくなっていたルシカンテだったが、ヘンゼルのだらしない恰好を見ていると、気に病む必要はない気がしてきた。寝ぼけているせいもあるのだろうが、もともと、身嗜みに無頓着なのだろう。

 ちーっ、ちっちっちっち、と鳥が囀ずっている。今のヘンゼルは頭に鳥の巣を載せているみたいに見えるが、鳥は近くにはいない。鳥の笛を鳴らしているのだ。焦点の甘い視線を、自宅と背中合わせに立っている家の、二階の窓に向けている。ルシカンテが見上げると、ちょうど、窓は閉ざされた。


「ヘンゼル、おはようさん」


 ルシカンテが朝の挨拶をすると、ヘンゼルは返事の変わりに唸った。ルシカンテはヘンゼルの前で立ち止まる。腰に手をあて、ヘンゼルを見下ろした。


「グレーテルさ言われて呼びに来ただ。「お買いもの」さ行くんだべさ?」

「……ああ」


 ヘンゼルは気のぬけた声を出して、やおら立ち上がった。ルシカンテはヘンゼルの後をついて行く。家の前に回り込み、扉の取手に手をかけたところで、ヘンゼルは思い出したように言った。


「言葉の訛りがはやくぬけると良いな。九席の商人たちは、人当たりは良いが陰険だ。君はきっとバカにされるぞ」


「あんたが、ひとを陰険だとか言うのか」と、喉まで出かかった言葉をなんとか呑み込もうとしたが、飲み下せなかった分の厭味が、ぽろりと口をついて出た。


「あんただって、その恰好で行ったらバカにされるんでねぇのけ?」

「ああ?」

「……靴下さ右の裾だけ、挟まっとる。襟のかたち、ぐちゃぐちゃだよ。あと、すんごい寝癖」


 ヘンゼルはルシカンテの言葉に従って、自分の身形を点検した。何も言わずに扉を開き、素早く中に入ると、ルシカンテの鼻先で扉を閉めた。ルシカンテが慌てて取手に飛びつくと、流石に施錠するような意地悪はされていなかった。中に入ると、ヘンゼルはズボンの裾を靴下から出しながら、早口でまくし立てた


「今のはあれだ。誰に見せるわけでもないから、どうでもいいんだよ。どんな格好をしようと俺の自由じゃないか、ええ? もちろん、十席にはちゃんと身形を整えてから行くとも。当然さ。君は俺の心配より、自分の心配をするべきだと思うがね?」


 君には着替えも無いんだし。とヘンゼルは付けくわえた。意地の悪いせせら笑いを、ぐぬぬ、と睨みつけつつ、痛いところをつかれたルシカンテは押し黙る。せめて、今からでも遅くないから合羽にブラシをかけさせてくれないだろうか。

 ヘンゼルは襟の形を整えて、袖口のボタンをしっかりと留めると、居丈高に手を三度うち号令をかけた。


「さぁ、出掛ける前に風呂に入るぞ。九席の商人たちは、臭ぇ集団なんか金がねぇと思って、まともに相手にしないからな。したくが整い次第、出発だ。てきぱき動けよ、居候ども」


 炊事場からグレーテルがとことこと出て来る。ギャラッシカが後からついてきた。ヘンゼルはルシカンテ、ギャラッシカ、グレーテルの順で指を突きつけ、偉そうに指図を出した。


「女性優先だ。君とグレーテル。二人でいっぺんに入れ。長い髪は洗うのに時間がかかる。助けあって、迅速にあがってこい」

「あら? お兄ちゃんが洗ってくれるんじゃないの?」


 グレーテルが純粋な疑問を顔いっぱいに浮かべる。ヘンゼルは、一瞬言葉に詰まった。それからわざとらしく、咳払いをひとつ。


「今日からしばらくの間は、彼女に洗って貰いなさい。こういうことは、本当なら女性同士の方がいいんだ」

「ふぅん。そうなの」

「そうなのだ。それはそうと、グレーテル。なんでもいいから、この娘によそ行きの服を一式貸してやりな。だいたい似たような背丈だから、間に合うだろ。問題は……その男だな。俺の服が着れるのか……?」

「無理だと思うよ。彼は痩せっぽっちだからね」


 ギャラッシカはルシカンテににっこりとほほ笑んで言った。見向きもされないまま、男の自尊心を傷つけられたヘンゼルが、頬を引き攣らせる。川の水と血を吸込み、生乾きのままのギャラッシカの着衣を忌々しそうに一瞥し、歯ぎしりした。


「……着られなかったらお前は留守番だ。そんなみすぼらしい上に臭い恰好じゃ、恥ずかしくて連れて歩けやしない」


 ルシカンテとグレーテルは、脱衣籠に着衣を脱ぎすて浴室へ入った。水色のタイルが敷き詰められた、四角い、寒々しい小部屋である。小さな突き上げ窓の下に、白い陶器の浴槽が置かれている。湯気のたつお湯が、七分目くらいの嵩まで湛えられていた。これ程の量のお湯を体を洗う為だけに使うらしい。なんて贅沢だろう。とルシカンテは軽いめまいを起こした。

 ルシカンテはグレーテルに言われるまま、石鹸という、白い蝋のような塊に湯をちょっとつけて、手の中で転がした。白く軽い泡が煙のようにもくもくとわきだす。グレーテルの見よう見まねで体中に泡をなすりつけながら、ルシカンテは裸でいることの心許なさと決まりの悪さについて、あまり考えないようにつとめていた。

 内地では、人の目に裸が触れることが多いようだ。まだ、女同士なら辛うじて耐えられるけれど、昨日の身体検査のような不測の事態が頻発するようなら、ルシカンテの心臓はもたないだろうと思う。


「ルシカンテ、お髪を洗ってあげるね!」

「へっ? ……わわっ!」


 グレーテルが両手いっぱいにたてた泡を、ルシカンテの頭に載せた。髪の毛を梳きわけて、内側の柔らかい髪、さらに内側の頭皮にまで、泡を行き渡らせる。ふわふわなものが、染みるように迫って来る未知の感覚に竦み上がるルシカンテの頭上で、グレーテルがしきりに首を傾げていた。


「あれれ? おかしいなぁ。ちっとも泡立たないや。ルシカンテの髪って、ひょっとして油っぽい?」


 髪が油分を含んでいるのは当然だろうに、グレーテルは何が不思議なのか、不思議、不思議と繰り返す。石鹸を何度も何度も泡だて、髪を泡で覆い尽くした。グレーテルは泡まみれの手をわきわきさせている。声色をかえて、ヘンゼルの語調を真似て言った。 


「目をしっかり瞑って。泡が目に入ると、痛くて、泣けてくるぞ。これは見本だ。あとで、グレーテルの髪はルシカンテに洗って貰う。洗い方、よく見て覚えるんだ。同じことを繰り返し教えてやる気はないからな」


 グレーテルは力を込めてルシカンテの頭髪を洗った。髪をぐちゃぐちゃにかき回され、引っ張られ、頭皮を容赦なく指の腹で叩かれる。苦行だった。おまけに、だらだらと額から伝って来る泡が目に入ると、グレーテルの言う通り、涙が出るくらい痛い。頭からお湯をざぶざぶとかけられ、やっとのことで苦行が終わる。

 ルシカンテは濡れた犬のように頭をぶるぶるとふって水気を飛ばした。きゃっきゃとはしゃぐグレーテルにしゃがんで貰って、教わった通りに髪を洗った。教わった通りにやったのに、グレーテルが痛い痛いと騒ぎ出した。ルシカンテの右肩は別の生き物のように勝手に跳ね上がり、ルシカンテを驚かせた。グレーテルは裏切られたように、悲痛に顔を歪めて叫んだ。


「なにするの、やめて! 痛い、痛い! お兄ちゃん、かわって! ルシカンテってば、すごく下手だわ!」


 ヘンゼルを呼ばれてはたまらない。ルシカンテは、グレーテルをなんとか宥めて、今度は糸を紡ぐように丁寧に髪をとき、泡を馴染ませた。グレーテルの髪はすべらかな絹のようで、石鹸がよく泡立つ。ほとんど力を込めずに洗ったので、汚れが落ちているとは思えなかったが、グレーテルが満足そうにしているので、ひとまずよしとした。




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