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ヘンゼルと悪い魔女  作者: 銀ねも
第二章「まっさらな新しい日」
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郷愁と、もしかしたら、慰め

 

 ***


 部屋に戻り、寝台の上でひとり膝を抱えていた。

 アイノネがいなくなってから、ホボノノから疎外されているように感じるようになった。氷苺の苗の手入れをしながら、護柵の外に綺麗な夢を見ていた。きっと、素敵なことがたくさんあるにちがいない、と。

 いま、夢にまで見た海から離れた遠い土地にいる。それなのに、心細さで胸が張り裂けそうになっていた。

 ルシカンテはホボノノで浮いていた。友達と呼べるのは、忠実な犬たちと、気まぐれに訪れる仔キツネたちだけだった。それでも、無条件に愛情を注いでくれる、ウメヲという家があった。誹謗中傷の冷たい雨に濡れても、帰れば暖をとることが出来た。

 それにまわりはみんな、生まれた時から狭い土地で共に暮らした仲間だ。思うところがあっても、心のどこかでは互いを気にかける情があった。

 見知らぬ土地に裸一貫で飛び込んで、ルシカンテはようやく、故郷の温みを思い知った。

 ヘンゼルとグレーテルは、ルシカンテに氷苺の苗をくれた。ルシカンテを馬車に載せて、ヴァロワへ連れて行くと約束してくれた。家に招き入れてくれさえした。

 しかし、ルシカンテはこのふたりのことを全然知らないのだ。どのように考え、どのように動くのか。習慣も価値観も、まるで違う。ヘンゼルにとって、ルシカンテは赤の他人だ。行き場のないルシカンテを見兼ねて助けてくれたが、気に入らなかったら、追い出してしまえる。ここにいても良いという根拠が何もない。ヘンゼルに怒鳴られる度に体がすり減っていき、いつ風に飛ばされてしまうかわからない。

 ギャラッシカは同じような境遇にいる仲間だ。影の民の里で育った特殊な身の上故に、ルシカンテ以上に新しい暮らしに慣れることが困難になるだろう。だからルシカンテはギャラッシカを支えるべきであり、寄りかかってはいけないと、思うのだ。

 ルシカンテは引寄せた膝に顔を埋めた。孤独と言う言葉と自身を結びつけたのは、恐らく生まれて初めてのことだった。


(みんな、おらは死んだと思っとるだろうな。爺さまば、とうとう一人ぼっちさしてしまった)


 ルシカンテは窓を開けた。夜風は冷たく、月は青白く、空は重い藍色で、ルシカンテを世界から弾きだされてしまったような気分にさせた。

 里を出たアイノネとばったり出くわすなんて奇跡が起これば良いのに、と甘えたことすら考えてしまう。

 ルシカンテは星を読み、正面が北の方角だと確かめると、背の高い家々に切り取られた歪な地平線を眺めた。ウダリの女房の亡躯は砂浜に横たわっているだろう。やがて、波が海へと連れ帰る。冥界に至る海にのびる月の影の道を、一歩一歩踏みしめて歩いて行くのだ。

 ルシカンテは小さな声で、囁くように歌った。

 美しい故郷、波で命を運ぶ海、生と死を繰り返す太陽。それらに宿りし霊性カシママへ、尊敬と畏怖を、風にのせて捧げる歌。ホボノノの糧となった猟獣のように、ウダリの女房もカシママとなり、自然に帰る。ホボノノの歌唱は、彼らの追い風になるのだ。遠く離れた地に来て、ルシカンテは、自分の歌声がホボノノの皆のそれと、ひとつに融け合っていることを願った。


「陰気な歌。俺は、そう言うの、好きじゃないな」


 ルシカンテの口から、歌声の代わりに心臓が飛び出しかけた。口を両手で覆い、声がした方に目をむけて確かめる。隣の窓が開け放たれている。ヘンゼルが、気だるそうに手摺に背をもたせていた。とても近い。ヘンゼルが騒がしい、と怒って手を振りあげれば、ルシカンテの頭に拳を落とすことが出来るだろう。

 ルシカンテは、また怒られるのではないかと怯えた。足が勝手に逃げ出そうとする。しかし、ここから逃げ出しても行くあてがない。

 ルシカンテは必死に踏みとどまった。ヘンゼルは背凭れに肱をおいて、空を仰いでいる。ぐったりと目を閉じていた。疲れているらしい。

 ルシカンテは自身の為に、ヘンゼルの為に


「……もう、寝たら?」


 と勧めた。

 ヘンゼルは鼻先で笑う。懐から掌に載る大きさの薄い箱を取り出した。蓋には、真珠色に光るヤコウガイの貝殻の破片を、鳥のかたちに嵌めこんだ、緻密な螺鈿細工が施されている。ヘンゼルは小箱から小指よりも細い紙の筒、タバコを一本とりだした。長い指先で弄びながら言う。


「お陰さまで、ちょっと気が立っていてね。一服してから寝ようとしたら、隣からめそめそ、鬱陶しい泣き言みたいな歌が聞こえて来たわけだ」

「泣いてねぇ」


 ヘンゼルはルシカンテの言葉を聞かない。


「なに、泣いてるの。俺の言い方がきついって、拗ねたのかい? 俺はガキだからって優しくしないって、言わなかったかな」

「だから、泣いてねぇってば!」


 むきになって言い返してから、もしやと思い掌で拭った頬は湿っていた。食言するのは癪で、ルシカンテは泣いてないと言い張った。


「泣いたら、おらの涙がウダリのおっかぁの足ば凍らせて、冥府さ行けなくさしちまう。おらは泣かねぇ」


 泣かないと言っている傍から、とめどなく涙が溢れるのを今度は自覚する。涙の堤が決壊してしまっていた。ルシカンテは意固地になって、ごしごしと頬を擦る。とまらない涙に腹が立った。

 ヘンゼルはタバコを人差し指と親指に挟み、ぐしぐしと揉みほぐしている。細かく砕かれた乾いた葉が、足元に零れ落ちている。よれよれになった煙草をぽいと捨てて、千切って投げるように言った。


「理由はどうあれ。悲しみは君自身の問題だ。他の奴には関係ない。泣きたきゃ泣け」


 ヘンゼルはルシカンテの方へ身を乗り出した。身を強張らせるルシカンテの手を、顔から払いのける。真っ赤に擦れ、熱をもった頬に流れる涙の粒をすくいとって、ヘンゼルは零すように笑い、肩を竦めた。


「こんなに熱い涙は凍らない。それどころか、氷を溶かしてしまうだろうな」


 ヘンゼルは奥に引っ込んで窓を閉めた。ルシカンテは唖然としていた。冷たい指が触れた頬に、新しい涙が伝う。ルシカンテは手摺に突っ伏して、嗚咽を漏らした。

 泣いて泣いて、泣き暮れて、不安も後悔も寂寥も、涙で洗い流した。泣きつかれて、そのままうとうととまどろむ。眠りに陥りかけたところで、耳を掴まれた。騒ぎ立てる暇もなく、耳元で警鐘を打ち鳴らすみたいに、ヘンゼルががなりたてた。


「こんなところで寝るんじゃねぇ! 体を壊しても、下働きに休みはねぇからな! 脳味噌が煮えるだけ熱を出しても、働かなきゃ食いっぱぐれるってことを、忘れるな!」


 ルシカンテはぐわんぐわんと回る頭を抱えて、よろめく。ヘンゼルが憤然と鼻息をついて、開けたばかりの窓を閉めた。


(……まだ、起きてたんだ)


 泣き腫らした顔を上げると、街並みのふちが白み始めていた。生まれたての風が頬を撫でる。頬に触れた指先の冷たさが、不思議と心地よかったのを思い出した。


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