彼の悪夢2
今回も残酷描写があります。苦手な方はご注意を!
「よせ」
きしるような声で王様は吐き捨てた。女は時計の秒針を押さえたように、ぴたりと動かなくなる。王様は目許を手で覆っている。
「すべてお前にくれてやる。好きにするが良い」
王様は溜息のような声で短く言った。女の美々しい顔からすっと喜色がひく。興ざめたような表情は、女の美貌を氷の彫像のように見せた。
女は彼から身を放すと、王様の座る肱掛け椅子の後に回り込んだ。女の髪は長く、小柄な彼女のくるぶしまである。女は王様の膝に乗り上げ、しなだれかかった。逞しい胸に整えられた指先でぐりぐりと縁を描いて、悩ましい目つきで王様を見つめる。
「遊戯はそろそろおしまいになさいませ。あれを、新しい器にうつしてやらねば」
銀の炎のような女の目に射抜かれて彼は、身を固くした。王様はいななく馬を宥めるように女の項を軽く叩いて言う。
「まぁ待て。今少し戯れさせよ」
「いたくお気に召しましたのね」
王様は応えずに女を押しのけ、席を立つ。女は王様の背を苦々しい顔つきで一瞥し、身を翻して肱掛け椅子に腰かけた。長い髪が紗のように滑らかに靡く。独特な深い艶を帯びた髪は、光の加減で青みがかって見える。
王様は彼の目と鼻の先で立ち止まると、少女を吊るし上げた大人たちに目顔で指図をした。いぶかしむ彼の鼻先でしゃがみ込み、顔をくしゃくしゃにして微笑みかける。不格好な笑顔が恐ろしくて身じろぎする彼に、王様は猫撫で声で語りかけた。
「これより汝の妹を、徐々に水槽へとおろしてゆく。彼女を愛しぶなら、この窮地より見事救ってみせよ。何人たりとも手出しはさせぬ」
王様はそう言うと、粗末な服の襟ぐりを掴み彼を立たせた。銀蝋の短剣が閃き、彼の足の縛めを断つ。
彼は両手を後ろ手に縛められた状態で、王様を凝視した。部屋の隅で歯車が軋みながら回り出し、少女の絹を裂くような悲鳴が反響する。はっとして目をやると、天井まで吊り上げられた少女の体が、ゆっくりと下降していた。歯車が粉をひくよりゆっくりと回り、鎖を送り出していく。少女が怯え、足をばたつかせるたびに血が流れ、水面が揺れた。
彼は妹の方へ駆け寄ろうとした。王様の視線の動きひとつで、赤毛の男が護壁のように、ぬっと立ちはだかり行く手を阻む。彼はうろたえ、周囲を見回した。徐々に下降する少女、滑車をすべる鎖、回転する歯車。水面に広がる血の波紋を砕く、漣。彼は恐慌状態に陥りかけて、金切り声を上げた。
「とめるって、とめるって、どうするんだよ!」
王様は応えない。冷笑を深めるばかりだ。彼は右往左往した。鎖が滑車に擦れ、きいきいと耳触りな金切り声を上げる。少女を救うには、あの鎖を手繰り寄せて少女を引き上げるしかない。
彼はつんのめるように走った。歯車の前で立ちすくむ。重く噛みあう歯車は、もしも手が自由だったとしても、押さえてとめられるものではない。
彼は歯車から送り出される鎖に食らいついた。顎が砕けんばかりの渾身の力をこめて食らいつくが、鎖の流れはとまらず、彼の歯と口唇を削りとる。焦燥に痛みを忘れて何度も繰り返し噛みつく。しかし、結果はかわらない。ならば歯車の回転をとめようと、歯車に体を押しつけるが、力強い回転にあやうく巻き込まれそうになり、尻もちをついた。隙間なく噛みあう歯車の回転は、ちょっとやそっとではとめられそうにない。
少女が甲高く叫ぶ。
「いやっ、やめて、こっちに来ないで! いやっ、いやいやいやぁ! お兄ちゃぁん!!」
水が跳ねる音がする。彼は恐ろしくて振り返ることが出来ない。顔じゅうを血塗れにして、癇癪を起したみたいに喚き散らす。
「とめろ、とめろよ、これをとめろ!」
彼は歯車のレバーを操作する大人に食ってかかった。無茶苦茶に蹴りつけ、仮借なく噛みつく。顎が疲れていなければ、肉を噛みちぎっていただろう。驚いた大人はわっとおめいた。彼を力任せに引きはがし、床に叩きつける。それでも尚、向かって行こうとすると、大人は目を血走らせて腰に帯びた剣を引き抜いた。
研磨された鉄の輝きに彼はおののき、たたらをふむ。彼がおよび腰になると途端に、大人は歯を剥いて嗜虐的に笑った。大人が踏み込む一歩を、王様の峻厳な声音が鞭のように打ち据える。
「彼を殺してはならぬ。……よく聞け、少年よ。レバーに触れれば妹は直ちに落とす」
大人は酔いが冷めたようにはっとなった。わたわたと剣を鞘に納めて畏まる。命拾いをした安堵に浸ってはいられず、彼は王様の前に転がり出た。血と涙でぐちゃぐちゃになった顔をタイルに押し付けて、哀願する。
「出来ない、なにも出来ない! とめて……お願いだから、とめてください。助けて……ぼくが、ぼくがかわりに水槽に飛び込みますから。どうか、妹は助けてやってください……どうか」
万策尽きた。彼はもう王様に泣き縋るより他に術が見つけられなかった。
(おれは兄さんなんだ。おれが守ってあげなきゃ)
しかし、王様の返事はにべもないものだった。
「余は、傍観するのみよ」
「そんな……」
彼は呆然自失として、王様のなめらかな横顔を見上げた。つるりとした壁の前に立ちつくしているようだ。手がかりも足がかりもない。このひとには、ひとの言葉に感じ入る心がない。悪い魔女のように彼の怯えや痛みや恐れを喜ぶ、歪んだ情緒さえ、持ち合わせていないのだ。絶望の亀裂に、体が瓦解していくようだった。
水の中にいるように、見えるものが揺らいでいる。音はくぐもって聞こえる。体はふわふわと漂っている。思考はとりとめなく空回りして、ぐわんぐわんと頭の中で反響する。
(助けなきゃ、助けなきゃ。おれは兄さんなんだから、助けなきゃ。でも、無理だ。助けられない。どうやってもとめられない)
王様がゆらりと陽炎のように立ち上がった。彼の顎を持ち上げ、目を覗き込む。王様の狼の瞳にうつった、彼の曇天のように沈んだ灰色の瞳が、虚ろにさまよっている。
王様は彼と額を合わせると、噛んで含めるように、言った。
「妹のかわりに喰われる覚悟があるのなら、汝は妹を救える筈だが」
(救える? どうやって? 歯車はとめられない。歯車はがっちりかみ合って回ってる。何か噛ませて回転を止められるようなものは見当たらないし、そもそも手が使えない。それなのに、どうやったらとめられるんだ?)
彼は項垂れて、唇をかんだ。痩せた膝小僧に、血の混じった涙がぽつぽつとおちる。歯車の回転はとめられない。押さえつけようにも、歯が立たなかった。下手をしたら、歯車の回転に体を巻き込まれるところだった。
(体を、巻き込まれる)
彼は雷にうたれたように跳ねた。啓示を得たのだ。とてつもなく恐ろしい、悪魔の啓示を。その方法なら、きっと歯車を止められる。しかし、そんなことが、彼に出来るのだろうか。
灰のように呆然とする彼の耳に、少女の悲鳴が鮮明に届いた。
「助けて、お兄ちゃん!」
彼は綾取られる人形のように飛び上がった。覚束ない足取りで、歯車の前に辿りつく。
(あいつは、おれの為に恐ろしい魔女をやっつけてくれた)
歯車は重く噛み合い回転している。彼は、手繰られるように、ぺたんと、足を前に投げ出して座った。大人たちのどよめきが遠い。歯車の回る音がどんどん大きくなる。
(守らなきゃ、守らなきゃ。今度こそ、おれが守らなきゃ。守らなきゃ、守らなきゃ、守らなきゃ)
少女が半狂乱になって叫ぶ。もう、一刻の猶予もない。彼は無心になって、右足を歯車に載せる。
彼の右の足首が、歯車の回転に巻き込まれた。圧迫感と痺れが電流のように駆け上がる。ぞっとする破壊音が、背骨を伝って頭の奥で響いた。幼い献身はその瞬間、踝と一緒に無残に砕け散る。
彼は喉が張り裂けんばかりに絶叫した。力任せに右足を引っ張る。皮膚が破られ肉が引き千切られる。しかし、丈夫な骨はなかなか砕けない。足を引っ張るが、抜けない。
(痛い、痛い、痛い。痛い、痛い、痛い!)
彼は獣のように咆哮しながら、遮二無二右足を引っ張る。しかし、歯車の回転はとまらない。彼の足を巻き込んで、歯車は回り続ける。脹脛が、膝が、引きずり込まれていく。歯車は人喰いのように、彼の右足を咀嚼していく。
彼は叫んだ。痛い、怖い、助けて。そのどれも、痛みと恐怖に押しつぶされて言葉になりそこなう。彼は、右足を引き抜こうと死に物狂いになった。左足をつっぱって、歯車を蹴る。軋みながらも、少しずつ少しずつ、回ろうとする。自ら口腔に飛び込んできた愚かな獲物を、逃がさない。
彼は翅をもがれた翅虫のように、もんどりうった。苦しみから解放されたい一心で、右足を捩じ切ろうと、床を這う。少しも前に進むことができず、血と涙と涎と汗をタイルになすりつけただけだった。
王様は手を叩いて悦んだ。
「善哉、善哉。やってくれるな、流石は、勇猛果敢な兵士長殿のご子息よ。あと一息で、歯車がとまる。そうさな、左足を噛ませれば、完全に停止するだろう。汝の心意気には負けたわ」
彼の傍らに屈みこんだ王様が、彼の頭髪を撫でている。彼の萎えた左足を撫でさすり、機嫌よく言う。
「どうした、もう一息で妹を救えるのだぞ。疲労して動けぬか? どれ、余が手をかそう」
氷のように冷たい王様の手が彼の足首を掴む。歯車のかみ合わせに彼の左足を導いて行く。彼は、もみくちゃにされた頭で、さらなる痛みの襲撃を予感した。そして、瞬時に恐怖に屈した。彼は左足をばたばたして、王様を蹴飛ばす。
「やめて、やめてやめてやめて!」
王様は足掻く彼の足を捕まえて、わざとらしく困惑したような声音を使って言った。
「だが、汝は妹を救いたいのだろう。妹を救うには、この歯車を完全に停止させねばならぬ。妹の為なら死ねると豪語する、奇特な兄にしてみれば足の一本や二本、安い物だ。そうであろう?」
「いやだ、助けて! 痛いのはいやだ! お願い、助けて!」
「しかし、それでは妹君が死ぬぞ」
「いい! そんなのいいから、助けて!」
彼は我を忘れて叫んだ。我が身を苦痛から遠ざけることの他に、頓着することが出来なかった。
王様は喉奥でざらついた嘲笑を漏らした。凍りつくような侮蔑の眼差しに晒され、刹那、彼は痛みを忘れた。取り返しのつかないあやまちを悟る。
王様は笑みに撓めた唇から、毒のような言葉を吐きだした。
「彼岸よりしかと見よ、兵士長。貴様が使命と身命を擲ってまで守った結果が、これだ」
王様は彼の左足を歯車のかみ合わせに放りこんだ。少女が、悪い魔女を竈に突き飛ばしたときのように。彼の耳には己の断末魔めいた絶叫すら聞こえなかった。
彼の両脚を噛んだ歯車は、ようやく停止した。彼の意識は許容量を超える衝撃により、焼き切れ、夢と現の境界線で浮き沈みを繰り返す。
女の声が聞こえる。
「もう、よろしいのですか?」
男の声が聞こえる。
「彼が死なぬよう、手当てを施せ。これの次の器にする」
いくつかの足音が遠ざかっていく。彼が縫い付けられたような瞼を持ち上げると、五人の人影が、固く閉ざされた扉から外へ出て行く。深紅の外套を翻した人影が、室内を冷ややかに一瞥して、言い捨てた。
「喜べ、貴様に相応しい器を与えてやる。貴様を死なせはせぬ。器ならば新しいものを、いくらでも用立ててやろう。何度でも何度でも、貴様の心が死ぬまで、嬲り殺し続けてやろうぞ」
扉が閉ざされ、五つの人影が去った。足音が聞こえなくなると、ただひとり取り残された赤毛の男が荒々しく悪態をつく。ナイフで切れ目を入れたような細い目で彼を一瞥すると、腕を掴み床を引きずった。乱暴な扱いを受けたが、痛みはおろか触覚すら感じない。わき腹を蹴られ、仰向けにされる。
痛みと決別を果たした彼は、茫洋とものをうつす濁った目玉で、室内で唯一動くものである大人の男を追った。赤毛の男は人喰いの仔を荷物のように跨ぎ超え、部屋を横切る。床下の水槽を覗きこんだ。途端に、水面が大きく波打ちしぶきを上げる。水槽から溢れだした水が、真っ赤だ。血のように赤い。水槽に沈んだ鎖が、ぶらぶらと揺れている。
そこではじめて、彼は絶望を理解した。
(死んだ。おれが見殺しにしたから、死んだ)
彼の慟哭は声にならなかった。目玉が眼窩の内側でとけて流れ出しているかのように、血の涙がとめどなく流れ堕ちる。
(守らなきゃいけない、おれは兄さんだから、守らなきゃいけない。守れるんだ、おれは兄さんだから。だから、こんなのうそだ。こんなのは、間違ってる)
赤毛の男は、鎖を手繰り寄せている。目許が神経質そうに、ぴくぴくと痙攣している。
彼は目を固く瞑った。
(こんなひどい現実なら、夢のほうがいい。こんなひどい現実は、いっそ夢になれ)
こんなひどいことばかりが、立て続けにおこるわけがない。彼のせいで、父が殺されたあの時からずっと、彼は悪夢に魘されているにちがいないのだ。
きっと、すべてが悪い夢だ。目を瞑って、次に目を開けたら、小さなベッドの上で目が覚めるに決まっている。
隣には薔薇色の頬を膨らませた少女が寝息をたてていて、パンの焼ける、香ばしい匂いが漂っている。美しく優しい母と、生意気だけれど甘えん坊な妹と食卓を囲み、敬愛する父の帰りを待つのだ。
そうでなければ、死んでしまう。もしこれが夢でなければ、愛する家族が皆、自分のせいで死んだのだ。彼は、もう生きていられない。
すべてを諦めたその時。彼の許に、銀の星が降ってきた。そうして、彼の悲劇はすべて、悪い夢になったのだ。