薔薇の乙女の塔2
塔の中の吹き抜けの空間を、螺旋階段が渦巻いている。見上げると、蓋をするように石の天井があり、螺旋階段が突き抜けていた。無数の灯り窓から差し込む光がいたるところで交差して、埃がきらきらと雪のように光っている。
ヘンゼルの後をついて螺旋階段を上がりながら、ルシカンテは、手を繋いだままのギャラッシカへ、声を潜めて話しかけた。
「ギャラッシカ、あんた、なしておとなしく尻ば撫でくりまわされてただ? 厭じゃねぇの?」
内地では、男のお尻に触ることには、挨拶と同じような、何気ない仕草なのかもしれない。しかし、ホボノノの常識の枠を持ちだして考えると、特に親しい仲でもないのに下肢に触れるのは、けしからんことだ。それに、ラベンダーの顔つきと手つきは、なんだか不穏な感じがした。
ギャラッシカは、はて、と首を傾げている。もしかしたら、影の民は、男が男のお尻を撫でまわす文化をもっているのかもしれないな。とルシカンテが考え直していると、ギャラッシカが言った。
「大人しくしていなくても良かったのかい?」
ルシカンテが素早く振り返ったので、長い髪が鞭のようにギャラッシカを打ったが、謝ることも思いつかなかった。ルシカンテは、ギャラッシカの腕を抱えるように掴んで、揺さぶった。
「いいよ、いいよ! 嫌なときは、ちゃんと怒んなさい。怒らねぇと、嫌がってるって伝わんねェ。また、やられるかもしれねぇべや」
「そうかい」
ギャラッシカは、こくりと頷くと、ルシカンテの手を外して、踵を返した。ルシカンテは、咄嗟にギャラッシカの着ている服のフードを掴んで引きとめる。
「ちょっと、待った! 何処さ行く!?」
「ちょっと、噛んでくる」
「噛む!?」
ルシカンテの素っ頓狂な声を、吹き抜けの螺旋階段が増幅し、反響させる。ルシカンテは口を両手で押さえた。怖々と見上げると、ヘンゼルが、それこそ噛みつくような目でルシカンテたちを睨んでいた。ぱっと顔を背けるルシカンテに、ギャラッシカは、鷹揚に頷いてみせた。
「嫌だったからね。ひとに触られるのは嫌いだ」
言いながら、ルシカンテの手をぎゅっと握っている。ギャラッシカは、ルシカンテのことを、犬のような、愛すべき使役獣の類とでも思っているのだろうか。
ルシカンテは、ヘンゼルとグレーテルを、いまいちど見上げた。彼らは歩みを止めない。ギャラッシカを見下ろす。その肩の向こうから、プリムラが階段を上って来る。
ルシカンテは、ギャラッシカを宥めにかかった。まっくらな森の中で、導火がどんどん先に進んでしまい、後ろからは狼が追いかけて来る。そんな状況で、引き返そうとする仲間を、思いとどまらせなければならない。
「だめ、噛んじゃ、だめ」
「殴った方がいいのかい?」
「だめ! 齧っても、殴っても、蹴ってもだめ!」
「そう」
「それは困ったね」なんてとぼけた顔をして、ギャラッシカには、結構、過激なところがあるようだ。わざわざ戻って、噛んでやりたいくらい嫌だったなら、口で言うなり、手を払うなり、拒否すれば良かったのに。と思いつつ、ルシカンテは、ギャラッシカの手をかたく繋ぎなおした。
「ヘンゼルから離れねぇほうがいい。今は辛抱してけれ」
「辛抱……我慢だね」
ギャラッシカは、素直に手を握り返してきた。皮膚がごわごわと固い、節くれだった大きな手に、心が安らぐ。ギャラッシカは、ルシカンテを安心させようとしているのか、力強く頷いた。
「大丈夫、大丈夫。ウメヲは、僕は我慢強いと言っていた」
そう言ったきり、ギャラッシカは、ラベンダーに尻を触られた問題を蒸し返さなかった。聞きわけが良い。聞きわけが良すぎて、本当に大丈夫なのか、と疑ってしまう。
ルシカンテは、ヘンゼルたちに追いつくべく、歩調を速めた。
「ギャラッシカ、怖がるこたねぇんだよ」
階段を登りながら、ルシカンテは、漆喰を塗り重ねるように、言い聞かせた。
「さっきの、ラベンダーとかいうひとには、びっくらこいたども……たぶん、ちょっと、ふざけただけだべ。お前さんは、可哀そうだったけどもね。内地の人は、悪いひとたちばかりじゃねぇと思う」
「そうかい」
「んだ、んだ。したっけ、安心しな。そうやってにこにこ、感じ良くしててね」
「わかった」
ギャラッシカの返答は、こどもの返事のようだ。何の抵抗もなく、羽のように軽い。不安は残るけれど、本人がわかったと言っているのだから、信じるしかない。
上から、賑々しい話し声が降って来る。甲高い裏声で、男たちが笑いさざめいている。ルシカンテの一抹の不安が、倍以上に膨れ上がったが、重い足を根性で持ち上げて階段を登った。いざとなったら、ちゃんと護ってあげなくてはならないので、ギャラッシカの手をぎゅうっと掴む。
ヘンゼルとグレーテルが階段を登りきると、上階は、水を打ったように場が静まり返る。すぐ後に、黄色い歓声が上がった。
「まぁ、まぁ! やっと来たわねぇ。おかえりなさい、ヘンゼルとグレーテル。遅かったじゃないの、まぁた、プリムラちゃんとじゃれ合っていたんでしょ。ほんとうに、仲よしさんよねぇ。やけちゃう」
(黄色くない。敢えて色であらわすと、黄色が濁った感じの……黄土色?)
ルシカンテは、ギャラッシカを腕で制した。モグラのようにひょこっと顔だけ出して偵察する。
こじんまりとした部屋の真ん中に、つやつやに磨かれた長テーブルが置かれている。立派な図体の男が、右側に二人、左側に一人、奥に一人。長い巻き毛の女が左に一人。寄せ木細工の丸椅子に腰かけている。右に一つ、左の一つ、空席がある。彼らは、湯気がたつカップを、リスのように両手で持っていた。
奥の男が、両腕を広げてヘンゼルを歓迎している。男は色眼鏡をかけているが、なめされたような面の皮を皺くちゃにして微笑んでいるのが、はっきりわかる。一方で、他の男たちは、こちらに一瞥もくれない。ルシカンテたち四人の来訪を、快く思っていないのが、空気からびしばしと伝わって来た。
ヘンゼルは、奥の男の四角い禿頭を見据え、ぶっきらぼうに言った。
「ママ・ローズ。今日は俺たち二人だけじゃない。あと二人、入壁を許可して欲しい者を連れて来た」
ヘンゼルがそう言うと、プリムラがルシカンテとギャラッシカの背をどんと押した。つんのめるようにして、上へ押し上げられる。プリムラは、部屋に入らず、階段を降りて行った。
おっとっとっと、と体制を立て直すと、ルシカンテは注目の的になっていた。視線が確かな質量を伴って、ずんと圧し掛かって来る。ルシカンテは、どぎまぎしながら、名乗り、挨拶をした。
「どうも……おらは、ルシカンテって言います。よろしくどうぞ」
これで、良いのだろうか。と、斜め前のヘンゼルに視線で伺いを立てる。ヘンゼルには無視されたが、ママ・ローズは穏やかな口調で反応してくれた。
「よろしくどうぞ、小鳥みたいに可愛いルシカンテちゃん。アタシのことは、ママ・ローズって呼んで頂戴。……珍しいことがあるもんだわね。浜の訛り言葉なんて、随分久しぶりに聞いた気がする」
「浜言葉ば、知ってんですか? あんた、旅人さん?」
「いいえ、違うの。アタシ、使徒座に雇われる前は、ヴァロワで地衛兵なんてやっていてねぇ。あそこ、あんなになる前は、貿易の要所だったから。いろんな人が集まる、人種の坩堝だったのよ。浜言葉を使う人も中にはいた。それだけだわ。自由な旅には、正直、憧れるところもあるんだけどねぇ。なんて言うの? 地に根を張らないと、はらはらしちゃってダメなのよ。こう見えて、結構な心配性なの。アタシってば」
ヴァロワと聞いたルシカンテは、つい食いつきそうになったが、ヘンゼルの厳しい視線で、なんとか思いとどまった。大人しくしているつもりだったのに、ママ・ローズの柔らかい声と言葉に釣り込まれて、緊張をなくしかけてしまっていた。
ママ・ローズは、岩のような厳つい体つきと強面に反して、人当たりが良い。なよなよしい言葉遣いの妙かもしれない。ふわふわの小さな小鳥を、そっと手で包みこむような、優しい雰囲気をもっている。
ママ・ローズは、ルシカンテの隣に立つギャラッシカにも、同じ様に優しく声をかけた。
「そちらの素敵な殿方のお名前は、なんて仰るの?」
ギャラッシカは、答えない。ママ・ローズの挙動から、彼がラベンダーと同類だと思って、警戒しているのかもしれない。或いは、内地の人間みんなに適用される人見知りなのか。ルシカンテは、ギャラッシカの脇腹を軽くつついた。
「ほら、答えて」
「……ギャラッシカ」
ギャラッシカは、ルシカンテの顔を覗きこんだまま、極限まで切りつめた言葉で応じた。ほとんどそれと分からないくらい、薄めた笑みを張り付けたギャラッシカの顔を見つめて、ママ・ローズはうっとりとほほ笑んだ。
「そう……ギャラッシカ。私、皆には、ママ・ローズって呼ばれているけど、お仕事抜きでお近づきになれるなら、お好きなように呼んでくれてもいいわよ? うふ」
雄偉な体が科をつくる。剛い筋肉がよじれてなよなよするのは、呑み込みがたい現象だった。ギャラッシカは、ルシカンテを力づけるように頷いて見せた。
「我慢だろう、ルシカンテ。大丈夫、大丈夫」
右側の手前に座った、耳の上で赤っぽい茶髪を切りそろえた男が、やおら、ずっしりと実が詰まった重い腰を上げた。壁一面を占領する階段箪笥の抽斗から、躊躇いなく一つを選び引き出し、紙の束を取り出すと、ヘンゼルとグレーテルに向けて言った。
「ほら、あんたたちも、名前。見飽きた面に、聞き飽きた名前だけど、一応。これ、規則なのよね」
「なんだい、バイオレット。そのつまらない態度は。感心しないな、どんなに嫌な奴が相手だって、仕事なら、おしみなく愛想を振りまけなくっちゃ」
ヘンゼルは、唇を歪めて微笑んだ。ネズミを追い詰めたイタチの心情を露わしているとしたら、良くできている。笑顔としては、ひどい出来だ。
「いつもにこにこ、心にもない笑顔を絶やさない社会人の鑑、ヘンゼル・バイスシタインです」
「いつもにこにこ、心にもない笑顔がとっても嫌な感じなお兄ちゃんの妹、グレーテルです」
隣で、グレーテルが両頬を指で突いて笑窪をつくり、にっこりする。
バイオレットと呼ばれた男は、紐綴じされた紙の束をぺらぺらと捲っている。すぐに、目当ての頁を探り当てると、溜息といっしょに言った。
「その惜しみない愛想が、ひとを不愉快にさせちゃ、世話ねぇわね」
バイオレットの後から、背が低くどっしりとした腰つきの、足の短い男が、目を回した蟹のように歩み出た。バイオレットの肩をぽんと叩いて、人懐っこく笑っている。
「んもう。バイオレットったら。そうカリカリしないのよぅ。苛々はお肌によくないわ」
バイオレットは、気安い男の手をつっけんどんに払いのけた。
「うるせぇわよ、パンジー。アタシは苛々なんてしてねぇわ。プリムラじゃあるまいし」
パンジーの隣で、石から切り出した巨像のような男が席を立つ。天井に頭を擦るくらい背が高い。彼は、石のお面を被ったみたいに無表情で、ほとんど唇を動かさずに話す。
「そうやって、すぐ、苛々する。乱暴な立ち振る舞いをする。バイオレットは、プリムラ姉さまを慕って、姉さまの真似ばかりする」
「……キャッツ!! アタシが、プリムラの真似をしてるですって!? バカ言うんじゃねぇわよ! 誰があんな、がさつなオンナの真似なんかするもんですか!」
プリムラは、女では無かった……筈だ。この特殊な空間において性別という概念は、ふわふわと煙のように定まらないもの、らしい。パンジーは、頭に血をのぼらせるバイオレットを宥めすかして、取り繕うように言った。
「そんじゃ、とっとと済ませちまいましょ。おら、ヘンゼルちゃんよ。調べてやるから、とっとと、服を脱ぎな」




