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ヘンゼルと悪い魔女  作者: 銀ねも
第一章「留まってはいられない」
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人喰い狩り3

 クマが勿体ぶるような足取りで、ゆっくりと近づいて来る。しきりに鼻をひくつかせている。グレーテルの兄は、ルシカンテの身代わりの外套一式を振りかぶって、クマ目がけて投げた。


「お前の大事な保存食を返してやる。だからかわりに教えてくれよ。お前の大事な心臓の在りかをな」


 クマの鼻先に、外套がどさりと落ちる。クマは、鼻面を外套の隙間につっこんで、ふんふんと臭いを嗅いだかと思うと、爪でばりばりと引っ掻きまわした。人を襲ったクマは怖いもの知らずだ。小さな火など恐れない。

 クマがひっかきまわしている間に、外套の端でくすぶった火が、髪の房に燃えうつった。唐突に、火が膨らみ弾ける。クマが驚いて飛び上がった。

 好機を得たグレーテルの兄は、足を開き、腰を落とした。太もも、脹脛の筋肉が、逞しく膨張する。素早く靴を脱ぎ捨てると、裸足で足場を踏み抉り、高く跳躍した。顔を上げたクマの、殻に覆われていない目玉に、祓い火を宿した剣を突き立てる。クマの眼窩が噴火口のように、血と銀の炎を吹き上げた。クマの絶叫に木々が怯えたように震える。

 グレーテルの兄は、クマの鼻面を踏みつけ、さらに深く眼窩を抉ろうとした。クマは痛みに狂乱して、両腕をやみくもに振りまわし、頭を振り乱す。クマは必死で暴れている。このままでは、振り落とされかねない。グレーテルの兄はやむを得ず、鼻を蹴って配転跳躍した。クマの腕が振りまわされる煽りを受け、着地のときに後傾し、尻持ちをついた。怒り狂ったクマは、それを見逃さなかった。グレーテルの兄へと猛進してくる。右眼から杖を生やしたクマは、冥府の海に住まう邪悪な化け物のようだった。顎が大きく開かれ、狂暴にのたうつ舌に根をはる、赤い輝石が露出する。


「危ない!」


 ルシカンテが叫んだとき、グレーテルの兄を押しつぶすように、クマが覆いかぶさった。グレーテルの兄は巨体の影にすっぽりとのまれ、見えなくなる。固い物を噛む音と、苦鳴が聞こえる。

 ルシカンテの髪がざわりと逆立った。このままでは、殺されてしまう。ルシカンテは大男にとりつき、木偶の坊をしている体を揺さぶった。


「助けなきゃ! あれ、あればかして! あんたらの飛び道具!」


 ルシカンテの腕を、グレーテルがひく。兄が殻のクマに襲われていると言うのに、グレーテルはのんびりと笑っていた。


「だめよ。あれ、火花が散って危ないから」

「危なくたっていい! 助けねぇと殺される!」


 グレーテルの腕を振り払ったとき、クマの怒りに満ちた呻きが響いた。

 グレーテルの兄が、クマの上顎に足の裏を押し当て、つっぱっている。足首より先がクマの口腔に入っている。だが、クマはなぜか顎を閉ざさない。グレーテルの兄は、軋るような声で軽口を叩いた。


「俺の魅力に欲情したか? よせよ、こどもが見てるだろ」


 グレーテルの兄は上体を撥ね起こし、クマの目から伸びる剣の柄を握った。力任せに剣を引き抜く。


「見つけたぜ、お前の心臓」


グレーテルの兄は躊躇いなく、クマの鼻先で剣を一閃させた。

 ルシカンテは目を瞠った。グレーテルの兄が、自らの足首より先を、切り落としたように見えたのだ。グレーテルの兄は間髪いれずに、剣を口腔に突き入れる。咥えていたものを、奥に押し込んだ。牙が剣にあたり、固い音と火花が弾ける。祓い火が燃え上がった。

 クマの顎から、鼻孔から、眼窩から、銀の火の柱がたつ。顔面から蜘蛛の巣状に銀の亀裂がはしる。

 殻のクマは大きくのけ反った。身の内から燃え上がる火を消そうとして、身を捩りのたうつ。七転八倒したクマは、二本足で立ち上がり、最後に大きな叫び声を発した。それが、断末魔だった。

 クマは前傾し、ゆっくりと倒れた。途端に、輝く殻は砕けた。

 殻のクマの死骸があるべき場所には、塩が小山のように積もっている。銀の炎は、塩に埋まり、鎮火していた。

 塩の山の手前で、グレーテルの兄が、よろよろと立ち上がる。右足の裾を、祓い火が煌々と燃やしている。グレーテルの兄は、片足でとび跳ねて塩の塊までいくと、右足を突っ込んだ。祓い火が、じゅっと音をたてて消える。グレーテルの兄の背中から、ふっと緊張が抜けた。終わったのだと、ルシカンテにもわかった。

 誰もが戸惑い動けずにいるなかで、グレーテルが軽やかな足取りで兄の許へかけていく。兄の足元に跪き、塩に埋まった兄の足をそっととり、顔を傾けた。ブルネットの髪がさらりと流れ、顔が隠れる。足に口づけたようだ。

 ルシカンテはぎょっとした。グレーテルの兄は、足に大けがを負っていた筈だ。舐めれば治るとかいう、可愛らしい怪我ではない。そもそも、傷は舐めたら化膿する。

 ルシカンテは慌てて兄妹の許へ駆けよった。


「ちょっと、待った! あんたら、なにしてんの! 手当ばすんなら、もっとちゃんと」

「手当?」


 グレーテルの兄が振り返る。例の如く、顎を上げて見下ろす嫌な振り返り方で。夏の初めの、土とまじった雪のような髪が、額に張り付いている。


「なんの為に? 体に余計な穴は増えてないぜ」


 彼は、無造作に右足をひいた。その足を見て、ルシカンテは目を丸くする。

 無傷だった。きれいなものだ。まるでぴかぴかの新しい靴みたいに。裾は踝の上まで黒く焦げているのに、足には煤のひとつもついていない。

 ルシカンテは、へどもどした。確かに、怪我をした筈なのだ。彼は一刃のもとに、己の足を切り落とした、ように見えた。見えたのに。

 不意に気配が動いた。収集兵たちの馬車が、脱兎のごとく走り去って行くところだった。グレーテルが、ルシカンテの肩に頭をもたれさせて言う。


「あらら? あのひとたち、行っちゃった。お別れの挨拶がまだなのに」

「なんだかんだで、ちまちまと狩りとった分と、俺らから盗った分を合わせれば、結構な輝石が集まった筈だ。仲間は半分以上死んだし、一刻もはやくヴァロワに戻りたいんだろうよ」


 グレーテルの兄はまったく関心を示さず、グレーテルは、名残惜しそうにさようなら、と馬車に手を振っている。こちらに背を向けた、何をやっているのだと、ルシカンテはグレーテルの兄を盗み見た。彼は、塩の山を剣でほじくり返している。塩の山から、拳大の輝石を転がし出した。

 石の心臓だ。球体から針状に多角的な結晶が突き立ち、赤く透き通っている。よく見てみると、ただ透き通っているのではなく、風がふく水面のようにゆらめいているようだ。グレーテルの兄が、石の心臓を揺らすたびに異なる容に波打った。

 興味をそそられたルシカンテが、つりこまれるように手を伸ばす。すると、針状の結晶が触手のように伸びて、鋭利な先端をルシカンテの皮膚に潜り込ませようとした。

 ルシカンテはわっと喚いてとびのく。ちきちきと、蟲の顎のように触手を打ち鳴らす石の心臓を、グレーテルの兄は無造作に地面に転がした。あきれ顔でルシカンテに言う。


「銀蝋で熱処理をしないうちに、輝石に触ろうとするなんて、君はバカだな。人喰いになりたいという特殊な願望を君がもつのは君の勝手だが、その悪趣味な夢を今ここで叶えられたら、こっちの仕事が増えてしまう。思いとどまってくれよ」

「お兄ちゃん、おなかいっぱいで眠たい。はやく馬車に戻ろう? ほら、アーサーが寂しそう」


 ルシカンテはわなわなと肩を震わせて、グレーテルの兄を睨んでいる。何処ふく風の兄の袖を、目許をごしごし擦ったグレーテルがひいた。鼻にかかった声を出している。むずがる幼子そのものの仕草だ。

 グレーテルの兄は剣に火を付け直し、石の心臓に突き立てた。雪の結晶が花開くように、触手が突き出した。のたうつように屈曲している。銀の剣が熱でとけ、蝋がしたたり、石の心臓を祓い火が包みこむ。針状の結晶はじょじょに丸みを帯びていき、すり減って、やがてなくなった。つるりとしたなだらかな表面をもつ球体になったところで、グレーテルの兄は剣を鞘に納めた。鞘に納めると、火がきえる仕組みになっている。

 グレーテルの兄は、石の心臓を拾い上げ、外套のポケットにつっこんだ。もう危険はなくなった、らしい。

 ルシカンテはほっとした。命拾いをしたようだ。

 しかし、喜んでばかりもいられない。気がかりはウメヲの安否だ。グレーテルの兄が言う通り、下流へくだり、扇状地を確認した方がよさそうだ。そこにウメヲがいなければ、絶対とは言わないが、気休めになる。

 踵を返したとき、ルシカンテは立ち竦んだ。混乱で視野狭窄になっていて気づかなかったが、周辺はまるで地獄絵図だった。

 橋の上に、麓に、死体がごろごろと転がっている。五体満足のものはほとんどない。皆、何かを失って、それによって命まで失っていた。

 しなだれかかるグレーテルの肩を支えて、グレーテルの兄が天を仰いだ。


「あちゃー……アーサーは向こう岸だったか。やっちまったな。この流れのはやい氷川を、泳いで渡るわけにもいかん。扇状地まで下って対岸に渡るしかないぞ。仕方ねぇな……グレーテル、まだ寝るな。扇状地までアーサーを連れていく。歩かせて」

「……うーん……うん、わかった。アーサー! いい子ね。わたしたちと一緒に、川沿いにくだるのよ。いい? ……うん。大丈夫よ、お兄ちゃん」

「よし、行くぞ。……もしもし? どうした、ぼうっとして。邪魔なんだが。蹴り飛ばされたいのかい?」


 脛をはだしのつま先でつつかれたが、ルシカンテは、たくさんの死体のある風景から目が離せない。

 こんなにたくさんの人が、亡くなっていた。そのことに、今更ながらにうろたえ、恐れおののいていた。

 ルシカンテはぐっと拳を握った。外套の内側の、むき出しの手足にあたる血生臭い風が、生温かい獣の呼気のように感じる。

 ルシカンテは、口を押さえた指の合間から呻いた。


「おらは……怖ぇ奴だ。こげにたくさん人が死んだのに、へっちゃらでいたなんて……」

「確かに、君は人並みの感覚から外れている。俺は、そのお陰で助かったがね。泣き喚いて取り乱されたら、いい迷惑だ。子供のきんきん声は耳に障る」


 グレーテルの兄は、無関心だった。感傷にひたるルシカンテに肩をぶつけておしのけ、橋をおりる。腰紐に括られた靴べらを抜き取り、丁寧に靴を履いた。靴紐を結び直して立ち上がった兄の隣に、グレーテルが小鳥のように寄り添い、二人で川辺を歩き出す。

 その後ろ姿をぼんやりと見送っていたルシカンテを、グレーテルが振り返る。銀色の瞳に見つめられたとき、胸を引き絞る息苦しさで我に返った。彼らは下流へ行く。ルシカンテも下流へ行って、ウメヲの無事を確かめなければならない。ルシカンテは喘ぐように息を吸いこみ、小走りで二人に追いついた。胸の痛みは、だんだんおさまってきた。

 ルシカンテは、居住区を出てしまった。あまつさえ、カシママに遭遇してしまった。ルシカンテは、ホボノノに帰れない。その現実が心だけではなく、体までもうちのめしていたのだろう。しかし、こうして目的をもって歩いていれば、苦しさは落ちついてくる。グレーテルが嬉しそうに振り返るのを見ていると、心も落ち着いた。ルシカンテはグレーテルに微笑み返した。

 すると、斜め前を歩くグレーテルの兄が、胡乱気にルシカンテを睨んだ。ついて来るな、と言いたいのだろうか。しかし、ルシカンテは可能な限り、彼らについていくつもりだった。

 グレーテルの兄は、まるでホボノノの猟師のように、淵と獣について熟知している。それに、信じられないほど、強い足をもっている。おまけに、喧嘩にも慣れていて、相手のことを少しも思いやらずに叩きのめす性根の悪さも持ち合わせていそうだ。実にたのもしい。と、思考に少し厭味を混ぜつつ、ルシカンテは、乾いた喉から言葉をひりだした。


「こ……これで、終わったんだよね。あの人たち、もう満足して帰ぇったもの。ひでェ目に合ったんだし、もう懲りて、ここさ来ねぇよね?」


 グレーテルの兄の背中は、にべもない。ヤマアラシのように、不機嫌という針を逆立てている。それでも、黙っていると、彼はだっと駆け出して、ルシカンテを置い行ってしまいそうだ。それに何より、この深刻な懸念をはらしておきたい。ルシカンテはめげずに、同じ問いを繰り返した。三度目の途中で、グレーテルの兄は鋭く舌をうった。やっと応えた。


「彼らが懲りても、他の連中がまた来る。ヴァロワって国が、石の心臓を集めているんだ。銀蝋の護壁に囲まれた、大きな国だ。銀蝋をいくらでももっている。ヴァロワは、石の心臓を集める為に、収集兵を大勢雇い入れ、方々に派遣している。近場の人喰いは、大方やりつくしてしまったようでね。人喰いを求めて、この淵に遠征してきた」


 森の何処かで、法螺貝を鳴らすような声で鳥が鳴く。その鳴き声は、警鐘のように、いやに耳についた。グレーテルの兄は、いかにも嫌々と言った風に、しかし饒舌に語り続ける。


「ここの淵は、手つかずだ。ホボノノは人喰いと争わないから、人喰いがうじゃうじゃいる。彼らは国に帰り、ここのことを報告するだろう。収集兵は、前にも増して、じゃんじゃんくるようになる。ものすごい装備で身をかためて」


 グレーテルの兄は、項垂れて溜息をついた。振り返らなかったが、ルシカンテの視線を意識しているようだ。自分のわざとらしい振舞いが、ルシカンテの神経を逆なですることを、ちゃんと意識している。その上で、ルシカンテを挑発しているのだ。


「残念だよ。ここは、俺らの秘密の狩り場だった。けど、収集兵に見つかっちゃ、もうおしまいだ。この淵は銀火で焼き払われる。ここにはもう用なし。焦土に金はならないからな」


 グレーテルの兄は、軽々しくホボノノの破滅を予言した。対岸の火事を、物見高く見物し、鼻歌まじりで話して聞かせるみたいに。その無神経さが頭にくる。ルシカンテは、むきになって言い返した。


「ここには、影の民がおる! おめぇらが言うところの、人型のひとくいだ。影の民ば怒らしたら怖いってこと、逃げてったあのひとらは、お国さ帰って伝えるべ!」

「ところがどっこい」


 グレーテルの兄が、けれんみたっぷりに肩をすぼめた。


「人型の人喰いの心臓は、最高級品だ。命をかけてでも、とりにくるバカな収集兵が後をたたないさ」


 目の前が紅くやけつく。ルシカンテは、グレーテルの兄の整えられた項を焦げ付きそうなくらいに睨みつけた。グレーテルの兄の態度は、まるでホボノノの窮地を観覧し「ざまあみろ」と舌を突き出しているようだ。どう足掻いても、どうにもならないのだと、あざ笑っている。ホボノノは、内地の人間に恨まれる筋合いなんて、ないのに。

 不安に怒りが押し上げられる。兄妹の足跡を睨むようにして歩いていると、きゅうに、兄が歩みをとめた。


「ところで、君。君の爺さまの死体って、あれじゃない?」

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