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ヘンゼルと悪い魔女  作者: 銀ねも
第一章「留まってはいられない」
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グレーテルと再会

「きゃあああっ!」


 喉から耳を劈くような絶叫が迸り、空気がなだれ込んできた。細っていた気道が押し開かれ、ルシカンテは激しく咳き込んだ。背から倒れそうになったところを、手首をひっぱられて引きもどされる。


「もし、もし? しっかり、しっかり」


 小さな手が、ぺしぺしとルシカンテの頬を叩いている。ヒバリのような可憐な声の持ち主が、ルシカンテに呼びかけていた。

 声は聞こえるが姿は見えない。そう思ったところで、きつく目を瞑っていたことに、はたと思い至る。張り付いたように閉ざされた瞼をこじ開けると、銀の祓い火を含んだ双眸が、目睫の距離に迫っていた。銀色はカシママの色だ。


「おぉぉぉっ!」


 ルシカンテは獣のような雄叫びをあげて手足をふりまわし、寄り添っていた小さな体を撥ね退けた。小さな体は容易く吹き飛ぶ。ルシカンテは混乱しつつも、敵の出方を見極めようとした。そうしてはっとする。ルシカンテが突き飛ばしたのは、銀色の流体ではなく人間の少女だった。

 濃い木陰にとけ込む飾り気のない黒衣は、上着とスカートが一続きに仕立てられている。丸襟と折り返した袖だけが白く、そこから伸びた頸と手首より先は尚白い。

少女は膝をたてて踵を前に出している。革帯のついた黒い靴を履いたほそい足に、黒い布がぴったりと張り付いていた。黒い布は太ももで途切れており、布の端が柔肌に食い込んでいる。そんな処まで見えてしまった。ルシカンテは、慌てて目線をあげる。嫁入り前の女の子の生足だ。見てはいけないものを見てしまった。


 少女は俯き加減で動かない。腰まで伸びた髪は、先端に錘が括られているかのように素直に重力に引かれていて、帳の役割を果たしている。表情を窺い知ることは難しい。小さな頭を飾るかわいらしい造花のついた黒いバンドは、この場において異質だった。

 アイノネの本にあった、内地の屋敷の深い窓の奥でレースを編む、綿毛のように柔らかい少女が、こんなところにいるなんておかしい。


「あのぅ……もし?」


 ルシカンテはおどおどと少女に呼びかけた。少女はもじもじしている。人見知した幼女の仕草のようだ。背格好と立ち振る舞いを考慮すると、彼女の年齢は十代前半、といったところだろうか。肉が柔らかく甘そうで、殻の獣はよだれを垂らしてむしゃぶりつくだろう。どうして、こんな危ないところにひとりでいるのか。

 ルシカンテは四つん這いになり、少女の顔を下から覗きこもうとした。一直線に切り揃えた前髪が、目許に頑なな影をさしている。ルシカンテは恐る恐る、少女の華奢な肩に触れた。柔らかい肉に指が沈む。少女がぱっと顔を上げた。

 ふっくらとした薔薇色の頬が、空気を含み膨れている。長い睫に縁取られた、茫洋とした銀の海原に夢見る瞳が、大きく丸い。暗がりで燃え上がる双眸を不機嫌そうに細くしている。淡く色づいた唇が蕾が綻ぶように開いた。


「ひどい! どうして乱暴するの? わたし、あなたには、何もひどいことをしてないのに」


 少女は拗ねていた。ルシカンテがあわあわしていると、つんとそっぽをむいてしまう。状況が呑みこめないが、目の前の少女の機嫌をとることが、最優先課題だと思われた。ルシカンテは立ち上がり、少女に手をさしのべた。


「ごめんな。見間違っちまっただ。立てっか?」


 見間違ったと言って、ルシカンテはさっきまで死に瀕していたことを思い出した。

 ルシカンテに襲いかかった、殻のクマは、カシママは何処だろう。

 ルシカンテは小鳥のように辺りを見回した。ちかくの何処にも、白く輝く殻も、銀色の流体も見あたらない。

 きょろきょろしていると、少女がルシカンテの肱をとって、抱きついてきた。切り立った崖を指さしている。


「あなた、あそこから落ちて来たのよ」


 ルシカンテは絶句した。崖はとんでもない高さがあった。物見櫓を二つ積んだくらい高い。あそこから落ちたなら、木端微塵になっている筈だ。

 ルシカンテは泡を食って、体を細大漏らさず点検した。編み上げ長靴は問題無い。ズボンも問題無い。ちゃんと裾が長靴に入っている。上半身を点検しているところで、ルシカンテは息を呑んだ。左の肩に触れたとき、ぬちゃりと粘った液が指についたのだ。慌てて手を引き確認する。カシママがまだ肩に張り付いているかと思った。

 粘液の正体はカシママではなくて、血だった。引き裂かれた肩当と、肌をぐっしょりと濡らす血。ひどい怪我をしている。眩暈がしそうだ。

 ルシカンテは怖々、左肩に触れた。血に滑る皮膚をすっとなぞってみる。

 服は破れているのに、皮膚は破れていないようだった。破れた毛皮を引っ張って、確認してみる。血塗れだ。でも怪我はない。


(あれ? したらば、この血は誰の? ウダリのおっかぁの?)


 殻のクマに咥えられたとき、涎と一緒にウダリの女房の血が染みたのだろうか。しかしべったりとついた血のりはそんなに薄くない。

 釈然としない気持ちで首を傾げていると、少女もまた、水面にうつった姿のように、こてんと首を傾げた。華奢な肩を滝のようにさらさらと流れる長い髪。命を育む大地の深い色を宿した髪だ。不毛な焦土とは違い、うるおいがある。ルシカンテの鏡像にしては、かたちが整い過ぎている。髪はあっちこっちに跳ねていないし、ごわごわしてもいない。それに、ルシカンテより背丈が高い。ルシカンテの目の高さは、少女の瑞々しい唇の高さだった。

 まじまじと少女を眺めまわしていると、少女もじっとルシカンテを見つめ返した。ルシカンテは少女の熱視線を、己の不躾に対する非難と受け取り目を逸らす。ところが、少女はなおもルシカンテを見つめている。居心地が悪くなって体を揺すっていると、少女が突然、高い声を上げた。


「やっぱり! あの臭う合羽をくれたホボノノさんだ!」


 少女は満面の笑みを浮かべて、ルシカンテの手をとりくるくると回る。


「ホボノノさん、危ないところだったね。でも、わたしが傍についててあげるから、もう大丈夫! お財布を取り返してくれたお礼だよ」


 銀色の瞳の少女が、ヒバリのような可愛らしい声で笑って話している。少女と、話の中に出て来た合羽、財布という単語。縺れた記憶を手繰り寄せて、ルシカンテはようやく合点がいった。


「氷苺ばくれた、旅のお方か! 確か、名前は……グレーテル」


 少女は顔いっぱいに、可愛い笑顔をひろげる。ルシカンテの両手をぶんぶんとふった。少女の肌は、凍り絹の肌だ。しっとりと脂気がり、すいつく。そこだけ日が差し込んだように、少女の姿はほの白く浮かび上がっている。


「あたり! 覚えてくれてたのね、嬉しいわ」


 まろやかな甘い声で、やや舌っ足らずに話す語調は、記憶のなかの「グレーテル」と、完全に一致した。柵越しに出会った日がつい昨日のことのように、彼女は何もかわっていない。

 幼い少女の、のほほんとした笑みを見ていると、ここが危険な淵だということを忘れてしまいそうになる。


「なして、こんなところさ?」


 ルシカンテが尋ねると、グレーテルはぱっと手をはなした。腰に手をあてて得意そうに鼻高々に言う。


「お仕事で来てるのよ」

「兄さんは? 一緒なんだべ?」


 あの時も、グレーテルは一人では無かった。柵の隙間から声だけで、決して顔を見せなかった、もうひとりの旅人がいた。

 グレーテルはこっくりと頷いた。崖と反対側の、暗緑の茂みを指さす。


「お兄ちゃんは、あっち。ヴァロワの収集者さんたちに、よってたかって苛められてるとこ」

「ええっ!?」


 グレーテルはとりたてて騒ぎ立てることではない、という言い方をしたが、ルシカンテは無論、目を皿にした。グレーテルはルシカンテの腕を引っ張って、生い茂る草木を掻き分ける。深い緑の渓谷だ。川のせせらぎと、情けなく裏返った男の声が聞こえて来た。


「荷ならば、そっくりすべて差し上げます! どうか命ばかりはお助けを!」

「やってる、やってる。お兄ちゃんだよ。元気そうでしょ?」


 グレーテルの兄の声らしい。グレーテルの言う通り、取り合えず今はまだ、喚き声をあげられる元気があるようだ。

 グレーテルの茂みの影に屈みこみ、きょどきょどしているルシカンテを手招いた。枝葉の目隠しをそっとずらして、川辺の様子を覗き見る。グレーテルの背中がわくわくしていた。


「大丈夫。収集兵さんたちは、石の心臓にしか興味がないから。それにお兄ちゃん、命乞いするのは得意なのよ」


 そう言って、グレーテルが席を譲ってくれる。ルシカンテは戸惑いつつ、草と葉の覗き穴をそうっと覗きこんだ。

 大きな川に、木と雪で築き上げた氷橋が渡されている。氷橋が結ぶ此方の岸と対岸に、馬車が一台ずつとまっている。氷橋の上には十三人の男たちが並んでいた。一番手前の、草臥れた外套を着た白髪頭の男だけがこちらに背を向けていて、あとの男たちは此方に体の前面を向いている。彼らは揃いの防寒着に身を包み、耳あてのついたつばのある帽子を被っている。

 どれがグレーテルの兄なのかは、すぐにわかった。体格の良い男たちの中でひとりだけ、痩せた男がこちらに背を向けて、氷橋に跪き、額を低く地面に擦りつけているのである。


 ルシカンテは口をあんぐりと開けた。ホボノノでは、あんな情けない醜態を特技とは言わない。やっぱり、ホボノノと内地では価値観が違うらしい。無鉄砲なくらい溌剌としているべき若者が、こんなていたらくで良いのだろうか。

 十二人の男たちは、少女の言うところの収集兵、なのだろう。先頭に立っている、クマのような大男が、白けきった表情で、グレーテルの兄を見下ろしている。


「ちっ、呆れたへなちょこ野郎だぜ。くねくねして、小骨の一本もありゃしねぇ」


 大男に肩を蹴られて、グレーテルの兄はひえぇ、と悲鳴を上げて横転した。無様な有様を見て、収集兵たちの失笑には憐れみすらこめられている。

 クマのような大男は、此方の岸にとまっている家馬車に目をやった。天蓋を赤く塗った、可愛らしい馬車をひく小柄な馬が、グレーテルの兄を真似るように、情けない声で嘶き落ちつきなく前脚で土をひっかいている。

 大男はグレーテルの兄を見下して、面白くもなさそうに言った。


「心臓に価値があるだけ、人喰いどもの方がマシだな。おい、兄ちゃん。馬車は置いて、走って失せな。身ぐるみは剥がないでおいてやるからよ」


 グレーテルの兄はわたわたと顔を上げた。


「そんな、ご無体な! 淵で馬車と銀蝋を失えば、人喰いに喰い殺されてしまいます! どうぞ、一片のご慈悲をくださいませ……!」

「てめぇは淵を渡る冒険者だろうが。泣きごと言ってねぇで、てめぇでどうにかしろ」

「兵士様! 私はただの、非力な商人です! 銀蝋がなければ、人喰いどもに頭から喰われても、抗う術が御座いません!」

「うじうじすんな! 俺らぁ、さっさとずらかりてぇんだよ! てめぇもそうだろ。聞きわけよくしろよ、なぁ?」


 グレーテルの兄がとうとう男の足に取り縋り、顔面を蹴られている。ルシカンテは、うわぁと呻いた。物凄く気の毒な場面だ。しかし不思議なことに、グレーテルの兄にたいする同情や、収集兵たちへの憤りが芽生えない。ただただ、鼻白む気持ちだ。

 収集兵たちは、グレーテルの兄を足蹴にしながら、嗜虐心を満足させるでもなく、苛立っているように見える。曖昧模糊とした不安さえにおってくる。

 グレーテルの兄は、それはもう、へいこらしている。今にも、大男の靴を舐めそうだ。彼がへりくだればへりくだる程、眉を潜めてしまう。


(やり過ぎだ、嘘っぽいぞ。そこまでやったら、なんだか、相手をばかにしてるみたい)


 そんな風に感じる。

 大男は、グレーテルの兄を蹴散らして、吐き捨てた。


「もう、やめろ! くっそ、いらつくぜ。死に損ないのジジイの方が、よっぽど骨があった」


 何気ない一言で、ルシカンテの心臓に糸がかけられて、一気に引き絞られた。こんな淵で、収集兵が出くわす老人なんて、ウメヲしかいない。

 ルシカンテは衝動的に身を乗り出した。勢いがつき過ぎて、体制を崩す。前に手をつこうとしたが間に合わず、そのままごろんと前転して、草木の叢から転がり出てしまった。

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