彼の悪夢1
残酷描写が御座いますので、苦手な方はご注意を!
序章 こんなの、悪い夢だ
国から遠く離れた「淵」に迷子のようにぽつねんと、小さな屋敷が建っている。潮の香りと独特の生臭い空気を少女の悲鳴が引き裂いた。
「やだ、やだやだ、こわい! たすけて、お兄ちゃん!」
肌に張り付くように空気が重い。狭い部屋を照らすのは、石壁のくぼみに置かれたカンテラの小さな灯だけ。タイル張りの床には、青く透き通る輝殻の破片と、赤黒い血が点々と斑模様を落としている。
二人の大きな大人が、怯える少女の小さな体を押さえて縄を打ち、天井の滑車から伸びる鉤に吊るした。宙づりにされた少女は、火がついたように泣いている。
少女と同様に縄を打たれた彼は砕けそうな程に歯を食いしばり、成す術もなく泣き叫ぶ少女を見ていた。彼が強く握りしめていた父の形見である銀蝋の剣は、彼の背に乗り上げた亡霊のように陰気な赤毛の男の手で、いとも容易く取り上げられてしまった。噛みついたり引っ掻いたりして必死に抵抗して得られたのは無情にも、圧倒的な大人の力の暴力だった。
彼は氷のように冷たいタイルに頬を押し付けられ、うつ伏せで押さえこまれている。少女の泣き声は断続的に耳を劈く。彼は縛りあげられた手足を突っ張り、のたうった。
押さえつけていた赤毛の男は大きく固い手で、彼の深い色の髪をわしづかみにした。弾みをつけて床に打ちつける。頭蓋を突き抜ける痛みが、彼の脳を震わせる。ちかちかと明減する目は、三度瞬きしてようやく色彩を取り戻した。嗜虐に高揚した赤毛の男の顔が反転する。
口腔から垂れているのは真っ赤な血で、小島のようにぽっかり浮かんでいるのは歯の破片らしい。
彼は朦朧としながら思った。
(同じ赤だ。さっきまでおれが甚振っていた「あれ」と同じ赤い血だ)
昏倒しかける彼の前髪を、別の大人が鷲掴みにした。頭を無理やり擡げさせられる。目玉は擦り硝子のようで、視界がぼやけた。彼は目を細くして、ピントを調節する。
彼と顔を突き合わせているのは、王様だった。この国で一番偉い大人だ。王様は、奴隷商人に捕まり売りに出された彼と、その妹の少女を買った。
彼は王様を突き上げるような視線で睨んだ。口内に溢れる血を吐き散らかしながら、糾弾する。
「言われた通りにしたのに! 約束したのに! 言う通りにしたら、ぼくらを自由にしてくれるって約束したじゃないか! それなのに、どうして!」
王様は五月蠅そうに顔を顰めると、彼の前髪を放した。支えを失った彼は顔面をしたたかに床に打ちつけたが、ばね仕掛けのようにすぐ顔を上げた。王様は彼から取り上げた銀蝋の小刀を弄んでいる。端をひん曲げた唇を、ほとんど動かさないで言った。
「あの娘は罪人である。親殺しの重罪人だ。この重なる罪は、死をもって償わなければならぬ」
少女が大きくしゃくりあげる。言動は幼いが、もう十二才になるのだ。恐れを知っている。
彼は縋りつかんばかりに泣訴した。
「母さんじゃありません! あれは、母さんのふりをした魔女でした。こどもを喰い物にする悪い魔女でした。妹はぼくが騙されてふたりとも危うくなったから、やむなく、魔女を竈に突き飛ばしたんです。妹がしたことは、地衛兵の人喰い狩りと同じことです。地衛兵が尊敬されるなら、妹も罪に問われないはずでしょう」
彼の言葉は、王様の右の耳から左の耳に素通りしていった。王様ののっぺりとした顔には、何の感慨のひっかかりもない。笑顔の仮面をかぶっているようだ。
王様はやおら立ち上がると、彼を押さえつける赤毛の男に目で合図をした。赤毛の男は魔法仕掛けの泥人形のように感情を消して、王様の命令に忠実に動く。拍子抜けするほどあっさりと、彼の背から退いた。
当惑する彼に、王様は冷ややかに告げた。
「約束通り、お前は自由にしてやろう。いたいけな妹の魂の安息を祈りながら余生を過ごすが良い」
「お兄ちゃん!」
少女の足元の床にぽっかりと穴が空いている。大人が手足を伸ばしても縁にひっかからない大きさの円い穴だ。黒々とした、灯し油のような水がたっぷりとたたえられている。
少女を抱える二人の大人のうち、ひとりが、おもむろに小刀を取り出した。ふつうの鉄の小刀である。大人たちは少女の足を押さえ、刃をあてて浅く傷をつけた。
「いやっ、いたい、いたい! お兄ちゃん、たすけて!」
少女の見開いた目から大粒の涙がこぼれおちる。苦痛に溢れた悲鳴は、彼の痩身を引き絞った。
大人はそれ以上、少女を刃で痛めつけようとはせずに小刀を納めた。血は少女の膝を伝い、ふくらはぎを伝い、つま先から滴り落ちて水面に波紋を広げる。
すると水面に、風に吹かれたように不気味な漣がさわさわと広がった。彼の位置からは見えないものが、少女には見えたらしい。少女は大きな目がこぼれんばかりに瞠って、身を捩って泣き叫んだ。
「やだ、なにかいる。こわい、こわいよ!」
ゆっくりと吊り上げられていく少女の姿が水面に映り込む。少女を吊るすフックから伸びる鎖は、天井の滑車にかかり、部屋の隅にある装置に巻き取られていた。抉れた床に嵌めこまれた歯車の上に、もうひとつの歯車がかみ合わせた装置である。歯車が回転すれば、上の歯車の回転軸に鎖が巻き取られたり、送り出されたりする仕組みになっているようだ。
歯車の傍に控えた大人がレバーを引くと、歯車が回転し、鎖を巻き取り始める。少女の体が天井へ吊り上げられていく。
彼は亀のように伸ばしていた首を逸らした。不潔な部屋に不釣り合いに立派な肱掛け椅子に悠然と座る王様を睥睨する。王様はくすりと笑うと、内緒話をするように声を潜めた。
「地下水槽には飢えた人喰いが遊泳している。汝の妹は命の糧となるのだ。天の理によれば、最も慈悲深い処刑に違いない」
彼は言葉を失った。じたばたと足掻く吊るされた少女の足から、血が玉になって滴り落ちている。水面が揺れ、波が大きく育っていく。得体のしれない大きなものが、血の臭いにつられて近づいて来る。ランプの灯りを、人喰いの輝殻がきらりと跳ね返したような気がした。
彼は王様を仰ぎ見た。卑屈なつくり笑いが無意識から浮かびあがる。
「お願い……助けて。こんなむごいことはやめてください……どうか」
哀れっぽい声で縋っても、王様の心には漣のひとつもたたない。お妃様の近衛師団所属の地衛兵だった父によれば、この王様は大変慈悲深い心の持ち主であった筈なのに。その心のありか自体、今はようとして知れなかった。
彼は人喰いを前にした時のように、焦った。目線がきょどきょどと辺りをさまよう。ふと、視界の端で動くものに意識がむいた。彼に痛めつけられた人喰いの仔が、床を這いずっている。
銀蝋の刃で手足を焼き切られた人喰いは、人間の子供と背恰好がほとんど変わらない。輝殻を焼き剥がしてしまうと、無惨な人間の亡骸に見えないこともなかった。
もぞもぞと蠢く手足の切断面から、血に濡れた塩の肉がこぼれ、赤い血が淋漓と流れ出ている。
人喰いの輝殻の中身はみんなこうなのか、どうなのか。彼は知らない。地衛兵でもない無力な人間の子供に、あの恐ろしい人喰いの中身などわかるはずもない。頼もしい地衛兵ですら、護国壁内へ人喰いの侵攻を許した二年前の惨事では、銀蝋の蓄えが底をつく前に追い返すのがやっとだった。
彼は人喰いの仔と王様を交互に見た。それから、喘ぐように息を吸い込み、一言一言、噛みしめて言った。
「ぼくは、もっとやれます。お望みなら、もっとむごい真似もできます」
人喰いの仔がびくりと震えた。王様は柱のように動かないが、目だけは彼に向けている。手ごたえを覚えた彼は、意気込んで続けた。
「王様が憎いのは人喰いで、ぼくらじゃないでしょう? お妃様を喰ったのは人喰いです。この人喰いには、血も肉もあります。妹じゃなくて、あいつを、水槽の人喰いに喰わせてやればいい」
王様は眩んだように目を細めた。唇の端は相変わらず、笑みのように持ち上がっている。笑顔だ。彼は不安にかられた。王様の微笑み方は、あまり良い微笑み方ではなかった。憐憫と嘲弄が等分に含まれた憫笑だった。
「如何にも。余はあれが、殺しても殺し足りぬ程に憎い。然らば、あれに生を疎んじる程の苦痛を与えてやるのだ。あれを殺すのは、もう幾度目になるか。余はあれを嬲り、殺し、救い、生かし続ける。汝を買ったのは、あれの新しい器とする為なのだぞ」
王様の言葉が、がつんと、彼の頭を殴った。頭が割れそうに痛い。出口を求めて逃げ惑っていた迷宮に、そもそも出口なんてなかったのだと告げられた。それは死の宣告に等しい。「新しい器」がなにをさすのかはわからないが、過程はともかく、人喰いの命を永らえさせる為の供物として使う目的で、兄妹は買われてきた。彼は打ちひしがれた。
(また、だまされた。魔女の母親面にだまされたのに、また性懲りもなくだまされたんだ。おれはバカだ。兄さんなのに。兄さんだから、おれが守ってあげなきゃいけないのに!)
目の奥が焼けるように熱くなる。腹の底が煮えたぎり、喉を駆け上って噴出した。彼は体をのたうたせ、怒号した。
「だましたな、下衆野郎! 許さねぇ! 殺してやる、絶対に殺してやるからな! その罪深い舌をちょん切って、喉に詰めて殺してやる!」
逸らせた喉元に、ひんやりと冷たいものが触れて、咽頭が押しつぶされたように声がつかえる。竦み上がる彼の耳元で鈴をふるような女の声が囁いた。
「まぁ、いけない子。なんて悪い口の利き方をするのかしら」
彼の背にいつの間にか、女が覆いかぶさっていた。女の繊手が彼の喉元をねぶるように撫でている。女の黒髪は夜のヴェールのように、ほの青い燐光を帯びて、彼の視界を閉ざした。視覚を制限された彼の耳朶を、女が食む。女の唇はぞっとするくらい冷たい。鋭い牙をつきたてられているような錯覚に襲われた。耳孔に潜り込んだ舌は細く長く、彼は、鋭敏に働く触覚と聴覚を女に翻弄された。
背後で、大人たちが戦いている。湧きだしたように唐突に部屋に現われた女を恐れたのは、彼だけではなかった。彼の身動きを封じていたあの赤毛の男だけが、固く冷たい石のように動じない。
捕食するように彼を玩弄する女に、王様だけが落ちつき払って尋ねた。
「首尾は如何か」
女は彼の耳元で、思わせぶりに含み笑う。彼の、ほんのりと色づいた耳を覆ううっすらとした産毛が逆立った。女は長い足を彼の足にからめると、彼を弄ぶ手は休めずに、いらうような口ぶりで言った。
「比類なき巨躯を誇っていても、所詮は知性の閃きを有さない下等な生き物。我が『人智』が、独活の大木ごときに負けるとでも? 『うみ』はとっくに、下僕たちに焼き払わせまして御座います」
王様が、いささか訝しんで言った。
「『ははなるうみ』を銀蝋と化したか。あれ程のものであると、『淵』より運び出すのも骨が折れる。かといって、もたついていれば冒険者どもに知れ、彼奴らの口伝で瞬く間に近隣諸国に知れ渡ることになろう。ともすれば、争いの火種になりかねん」
「『はは』の遺産は、私が継承させて頂きましょう」
女は彼の顎をとり、ぐっと上向かせた。のけ反った喉の線を指でなぞりあげる。女が空手で髪をかきあげると、彼の視界がひらけた。
女は月のように青白かった。まるで肌の下には血のかわりに、銀蝋が流れているかのようで、丸顔で瞳の大きい愛きょうのある顔立ちを、何やら得体のしれないものにしている。女はけぶるような睫毛に囲まれた銀色の双眸で、王様を見据えている。
「ここをふたりの牧場にしましょう。我が身で囲いこみ、家畜どもに安寧を与え、かわりに糧をとってこさせるのです」
眉ひとつ動かさない王様に悪戯っぽく微笑みかけて、女は小さく歌い出した。彼の耳に馴染まない、旋律である。おごそかで、どこか物悲しい。たった一人で護国壁の外の美しい景色に佇んでいるような気持ちにさせられる。
歌を聞いた王様が目の色を変えた。