ありふれた堕落
死んだら、彼女の為に彼女の居場所の地縛霊になろうと思った。
くりくりした双眸に、触り心地の良さそうなふわふわの髪の毛。まるでうさぎのように可愛い彼女は、まるでうさぎのように寂しがり屋だった。
幾度となく過ごした彼女との時間は、僕に幸せと不安を寄せては返す波のように去来させた。
教室の隅にぼんやりとしている彼女は儚げで、友達と過ごしている時の明るさと奔放さが嘘なのではないかと思うくらいに空気に溶けてしまいそうだった。でも、どんなに疑ってみても、消え入りそうな彼女も華やかな彼女も、確かに彼女なのだ。僕が泣きそうになる程愛しいと思う彼女の欠片たちなのだ。僕は彼女のすべてを拾いたい。
「水香」
「何?」
「何?じゃないよ。今はもうすぐ次の授業が始まる時間で、次の授業はこの教室じゃなくて、この教室はもう君と僕しかいない。……ここまで言えばわかる?」
「……おっと、」
ゆっくりと体を起こしのんびりと机の上に散らかっていた教材やノート、文房具の類を大雑把に片付け始める。机に突っ伏して寝ていた所為でまるいおでこやぷっくりした頬に赤くあとがついている。片付け終えてこちらを向いたら、口のはしによだれの跡もあった。よっぽどの熟睡加減だったらしい。
「昨日寝てないの?」
「なんで?」
「授業中よく寝ていたようだったから」
「見てたの?」
責めるように言われた。よくわからないけど、女性の寝姿は不用意に見てはいけないらしい。
「見る前に、僕の席までいびき聞こえてたよ」
今日僕が座った席と、今日水香が座った席は、そこまでではないにしろそれなりに離れていた。
水香は僕が話し掛ける前の体制へと巻き戻しをするように勢いよく戻ってしまった。
「どうしたの?」
「どうしたの?じゃないよ。君の今日の席と私の席との距離、それから私の席と教壇との距離。……ここまで言えばわかる?」
僕はさっきまで自分が座っていた椅子と水香が今座っている席と教壇とを、順番にゆっくり見た。少人数の講義だったから教室は狭く、全部で40人くらいだろうか。否、もう少し入れるだろう。不明瞭なのは、僕の小学校の頃の先生に免じて許してあげて欲しい。僕の所為じゃない。
それで、教壇から左斜め五つ分離れた席に座って居て、僕は右斜めちょうど五つ分離れた席からやってきた。
二つの距離は同じくらいの距離で、簡単に言えば僕にいびきが聞こえたということは教授にも聞こえていた、と言いたいのだろう。僕に聞こえていたからといって教授にまで聞こえていたかなんていうのは別にイコールで繋がったりしないだろうと思ったけど、彼女がそれなりに落ち込んでいたので励まそうと思って口を動かした。
「寝てたのが悪いよ」
「そこは励ますとこだと思うけど?」
「間違えた。訂正。僕に聞こえていたからといって教授に聞こえてたとは限らないよ」
「58点。訂正しただけあってなかなかの励ましだけど、なんの根拠もない。落第」
「つい最近単位を二個も落とした僕に対する発言とは思えないね。もうちょっと優しさが欲しいな」
「お互い様」
机の上に散らばっていた私物を全てカバンの中に詰め込んだ水花は椅子から立ち上がった。
「行こ」
同時にチャイムが鳴った。
当然のように次の講義には遅刻。講義の始まった授業に途中入場する時の注目を考えると憂鬱になるから……と僕たちは次の(次の、といってももう始まっているが)講義をサボることにした。サボりも学生の特権だ。今のうちに甘んじておこう。
そんな感じに僕らは今大学構内のコーヒーショップに来ていた。有名なチェーン店らしい。なんでそんな『……らしい』だなんて曖昧な言い方なのかというと、僕の地元では聞いたことない名前だったから個人経営だと思ってそう言ったら水花に信じられないような顔で見られたのでたぶんそうなんだと思って。勝手に思っている。
講義中の、昼休みでもなんでもない時間だから人は少ないと思っていたら案外いた。よくよく考えてみたら当たり前のことだ。講義の空きを探さない学生なんてそうそう多くはないだろう。
ちなみに。水花はあんな状態(先の講義爆睡)でも授業をさぼろうとしなかったけど僕の甘言で陥落させた。僕は目立ちたがらずやなかつちょうどいい具合に悪い感じになっちゃってるチキンなのだ。道連れ欲しい。
僕の前にはアイスコーヒー。水花の前には抹茶オレ。水花を眺めながら甘そうだなーと思いつつストローを咥えるけど、たぶん水花も僕を見ながら逆反対の似たようなことを考えているだろう。
「ところで……講義を休んだけど、もしかしてずっとここで無為に時間を潰すつもりじゃないでしょうね」
「そんなわけないじゃないか」
なんて肩を竦めて見せたものの、当然の如く僕にはここで時間を潰す以外の案はなかった。
中学の頃や高校の頃よりは長いとは言っても大学の授業時間はたったの1時間半だ。講義を受けていれば長く感じるが、案外90分は短い。ここで飲み物一杯でだべっているだけできっとあっという間に流れて行ってしまうだろう。
「そういえば最近笹原さん春ちゃん仲よろしくないっぽいね」
どうしようかと思っていたら向こうから話題が飛んできた。
「そーなの?聞くに、春さんは笹原のこと大好きだって話だったけど……残念ながら片思いだったのかあはは」
と言いつつ僕はこれっぽっちも同情していなかった。だって彼女は、春さんは、気持ち悪いくらいに綺麗で吐き気がするくらい純粋で、裏切りが恐ろしく自然にできる人だから。そんな人だから、自分の発言を裏切る気なんて毛頭なく裏切っただろうし、その発言を受けた人のことも彼女のどこにもかすりもしなかっただろう。
清々しいくらいに、無自覚に、自分しか居ない世界に住んでいるのだ。