第94話 妖精王の森
視界を覆う植物の群れを掻き分け、奥へ。
気温は穏やかで周囲は明るく、緑の空気が清々しい。
自由な形の蔓植物に、見たこともないような大きな花、見上げても先の見えない大木の向こうから、木漏れ日とは違う光が瞬いて落ちてくる。
その合間を縫って伸びる小道を行く、リコリスの足取りは軽い。
足取りだけではない。体も、歩を進めるごとに軽くなっていく。まるで羽でも生えたように。
「…………っ」
後ろから息を飲むような気配がしたが、それも気にならなかった。
やがて小道は拓け、周囲が一層明るくなる。
どこをどう通ったのか、普通に地面を歩いていたはずが、辿り着いたのは巨大な切り株の上だった。
周りは相変わらず巨木に囲まれているが、その切り株の広場も高さは相当だ。
豊かな葉に縁取られてはいるが、視界を遮るほどではなく、あまりにも幻想的な森が遥か彼方まで続いているのがどこまでも見渡せる。
空の青に、陽の黄色を溶かしたような色合いの空間に、たくさんの虹が緩やかにたなびいていた。
切り株の上には幾重にも落ち葉が折り重なり、更にその上を転々と白い花が彩る。
緑の絨毯を悠々と歩み、切り株の中央に立ったリコリスは、ようやく後ろを振り返った。
いつもよりもずっと静謐な表情のライカリスがすぐ近くにいて、ジェンシャンとウィードがその向こうに、所在なさげに立っている。
リコリスの動きに合わせて、周囲に虹色の燐光を撒き散らすのは、森を進むうちにいつの間にやら解放された妖精の羽だった。
この世界に生きるうち、いかなる巡り合わせにか受け継いでしまった、異形の力の、その証。
それと同じ輝きを纏ったライカリスが、リコリスの傍らに膝をつく。
「妖精王の御前です」
顔は俯けられたまま、静かに。それでもその声はよく通った。
驚いたことに、その言葉に真っ先に反応を見せたのはウィードの方だった。
目も口も開きっぱなしだった間抜けな表情から一転。
見たこともないほど素早く身を伏せ、頭を両前足の間に収めてしまった。
それを見たジェンシャンもまた、一拍遅れてその場に跪いた。
「別に、そこまで畏まらなくていいんだけど……」
予想外の過剰反応に、実はリコリスの方が驚いてしまった。
まさか相棒までこんな態度に出るとは思っていなくて、何も言えないでいる間に、ウィードとジェンシャンまでである。
内心でものすごく困惑しながらも、リコリスはどうにか苦笑するに留めたのだけれど。
引き気味のリコリスの言葉に、最初に対応したのは、またしてもウィードだった。
ぴしっと顔を伏せていた犬は、リコリスの声を聞いて顔を上げ、ぶるぶるぶるぶるっと激しく首を振って振って振ってから、再び顔を床につけた。
(あ、あれー?)
諸々の事情で、ちょっとボスとしての立場を見せるだけのつもりだったのに、こんなに大仰にされてしまうとは。
確かゲーム中のクエストでは、この『妖精の森』を支配し、これから生まれる妖精師とその妖精たちのために、森の力を護るのが王だと聞いた。
長らく力のある妖精師が誕生せず、不在のままだった玉座。それを埋めてほしいと、この森に古くから住まう原種の妖精たちに請われたのだ。
当時、ようやく妖精師のレベルを上げきったところだったリコリスは、また職業関連のクエストが始まったのだと簡単に考えていたところを思いもよらない立場に据えられて、愕然とした覚えがある。
おそらく、現実のこの世界でも、同じような展開を辿ったのだろうと思うが、まさか森と無関係の者にまでこんな影響力があるなんて、聞いてない。
一緒にクエストを進めたはずのライカリスの反応はどうだったか。
(えー、えー、何だっけ? 確か「リコさんが妖精王……」とか、そんなことを……あれ、確かに結構驚いてたような)
リコリスがその役目に抜擢されたことに、ライカリスが驚きを示す。それはつまり、妖精王の存在を元々知っているだけでなく、その重要性を認識していたということではないか。
プレイヤーでも、森の住人でもないライカリスがそうであるなら、他の者が同じでもおかしくはない。
ボスとしての妖精王と肩を並べる魔女王や聖女ならば、ゲーム中何度もその名は出てきたし、この世界においても重要な役割であることは聞かされている。有名なのも知っていたが、まさか妖精王も同程度の知名度なのか。
思い至ったそれを後押しするように、隣からかけられる声。
「そういうわけにはいきません。妖精王は世界を支える要の一人。軽んじられては困ります。あなたもご存知でしょう?」
ご存知なかったです。
……とは、とても言えぬ空気に、
「う、うん……」
リコリスは曖昧に頷くしかない。
(っていうか、世界を支える要ってなーにー……)
リコリス自身のことなのに、この場で一番リコリスが詳しくないわけである。困ったことに。
ご存知でしょう、とか言われてしまったので、聞き返す選択肢も早々にご退場……どころか、何も知らないことを隠さなくてはならなくなった。
この、無理に演じる感じは久しぶりだ。
帰還直後はいつもこんな状態で、色々なことを必死で隠してここまできた。記憶が戻り始めてからは、あまりないことではあったけれど。
培われた「習うより慣れろ」の精神は、今もリコリスの中に生きている。つまるところ、順応が早い。
(うーん? とりあえず、明日にでもデイジーに訊いてみよ)
リコリスは疑問の解消をさっさと諦めることにした。
今、無理につつくことではない。知ったかぶり上等。
隠し事は心苦しいが、リコリスが下手を打てば友人たちにも累が及ぶし、周囲を不安にもさせる。隠す他ない。
それよりも、とリコリスは意識を切り替える。
今日ここに来たのは、やるべきことがあったからなのだ。
「えーと。それはまあ、それとして……夜も遅くなっちゃうし、とりあえず話進めちゃおうか。ジェンシャン」
この森は時間の概念が皆無で、常にふわふわと明るいが、外は夜。
ここであまり関係のないことに時間をかけすぎると、明日に差し障るし、他の弟子たちも心配する。
強引に話を変えてしまえば、相棒がため息を吐く気配がしたが、幸いそれ以上は何も言われなかった。
「は、はい」
声をかけられた弟子が顔を上げる。
その、いつもより緊張した目を見返して、リコリスはいつも通りに笑って見せた。
「ここに連れてきた理由はもう分かる?」
「……はい」
問えば、神妙な頷きが返された。
「秋になったら、考えが変わらなかったら、って言ったよね。……今でも妖精師になりたいと思う? 気持ちは変わってない?」
もう答えは分かってはいるけれど、これは必要な確認だ。最後の。
この質問を最後に、リコリスも覚悟を決める。
ジェンシャンは膝をついたまま背を伸ばし、真摯な表情でリコリスを見上げた。
「変わっておりません。私は、妖精師になりたいと思いますわ」
何一つ、欠片の嘘もない眼差し。そこには一切の揺らぎもない。
ならば、リコリスは全力でそれに応える。
師として、弟子の決断を後悔で終わらせたりは、絶対にしない。
リコリスは目を伏せ、静かに息を吐き、意識して口元に笑みを刷く。なけなしの自信を掻き集めて、形にするように。
「では、蛍真珠を」
手を差し出せば、ジェンシャンはそのくっきり豊かな谷間から、見覚えのある小袋を取り出した。
(何てところにしまってんの?!)
確かに、もともと露出の多いジェンシャンの服は、収納が少ない。以前、色々しまえて便利だとも言っていた。でもだからって、本当にソコを収納代わりにしなくても。
よく聞くネタではあるが、実際目の前でやられるとインパクトがすごい。
今は非常に真面目な場面のはずで、それを重々承知しているリコリスは無理やり喉にツッコミを引っかけて留めたが、飲み込むのは辛かった。けしからん、とはきっとこういう時に使うのだ。
それはともかく、リコリスお手製の小さな袋は、ジェンシャンの手の平の上に返され、淡く発光する真珠が転がり落ちた。
ジェンシャンの長く綺麗な指につままれて、その微かな灯火はリコリスの手の上へ。
正当な持ち主以外は触れられないはずのそれは、今は何事もなくリコリスの手の平に移動した。
これは、今が新たな妖精師誕生の儀式の只中であることを意味している。
職業を得るのなら王都の職業選択所。
一般常識だが、あくまでも一般的にはの話だ。例外はある。
その、牧場主以外には、あまり知られていない方法が、今リコリスが行っている儀式だった。
儀式といっても難しいことは何もない。
9人の王がそれぞれ対応する職の希望者に、意思を問い、相手がそれに応える。
それだけ……とはいえ、リコリスも初めての経験だ。現実に、だけでなく、ゲームでもやったことがない。
何せ、妖精師は圧倒的不人気職。そうそうなろうという者もいないわけで。
まあ、ゲーム中は友人の行う儀式を、大変羨ましく覗き見させてもらっていたし、順序は分かっている。
必要なのは一般の方法でも求められる、職業取得の資格を示すアイテムだけとなり、いくつかのクエストは省略される。
今、リコリスはジェンシャンから蛍真珠を受け取り、その意思を確認した。では、この後は。
リコリスは真珠を握り、ジェンシャンに反対の手を差し出した。
「あなたを我が同胞と認めます。――よろしく、ジェンシャン」
これからは、師と弟子というだけでなく、同じ妖精師として。
「はい……!」
その美貌を、花が咲くように綻ばせたジェンシャンが、リコリスの手に自身のそれを重ねる。
その瞬間、弟子の足元に白く輝く魔法陣が現れた。
「これは……」
「職業取得しましたよってこと。おめでと」
リコリスが妖精師になった時も、ライカリスが暗殺者になった時も、同じような魔法陣が足元に現れていた。
懐かしく思いながら、リコリスは弟子を言祝ぐ。
「まあ、ありがとうございます」
「よし、それじゃあ」
「早速召喚ですかしらぁ?」
緊張が解れたのか、口調も緩んだジェンシャンが、わくわくと弾む心を隠そうともせずに訊いてくる。
まあ、リコリスもその気持ちはよく分かった。
ようやく念願の職業を取得して、そして妖精師なら、何を置いてもまずは初召喚を試してみたいに決まっている。
頷いたリコリスに、ジェンシャンはますます嬉しそうに笑って立ち上がった。
「えーと、今までと何か変わった感じはする?」
「ええ、自分の中に流れている魔力に、別の力が混ざったように感じます。上手く言えませんが……この森の空気に似ているような」
「ああ、うん、そうだね。そんな感じ」
この世界の生き物には、魔力と呼ばれる種類の力がある。
目に見えるものではないので、明確にこれ、とは言えないが、リコリスにもそれは感じられた。
地球にいた頃にはなかった、漠然とした何か。その時の精神状態に左右され、スキルを使うと体から流れ出していくように感じるもの。
多分だが、その魔力を可視化したものがMPバーなのだろう。
ジェンシャンは元々こちらの生まれだから、魔力のことも、そこに加わった力についても、リコリスより認識がしやすいはずだ。
「じゃあ、その別の力に集中してみて」
「はい。…………あ」
言われた通りにしてすぐ、小さく声を上げたジェンシャンが、次いで何事かを呟き始めた。
聞き慣れない、単語のようなものの羅列。しかし、リコリスには何と言っているのかが理解できる。
それは古き妖精の言葉だった。
妖精師は、妖精の森から力を受けて妖精を召喚し、力を揮う。
ジェンシャンが今唱えているのは、妖精師の内に流れ込んでくる森の力の形を変えて、顕現を願う呪文だ。
ジェンシャンの言う、自身の魔力に混ざった森の空気のようなもの。それを強く意識した時、頭に流れ込んでくる。
リコリスに分かる職は2つだが、神官も妖精師と大差なく、力の出所が変わるだけだ。もしかしたら、前衛と後衛では何かしら違いがあるかもしれないが、特に誰かに尋ねたことはなかった。
プレイヤーならメニューから選んで発動することもできるが、こちらの住人はこの感覚的なやり方でしかスキルを使えない。
とはいえ、慣れてしまうとその方が楽なので、帰還直後はメニューを意識していたリコリスも、今ではこの方法を好んでいた。
過去、こちらに慣れた頃のリコリスも、いちいちメニューを開いたりはしていなかったから、勘を取り戻しただけとも言えるが。
やがて長くはない呪文を唱え終わり、ジェンシャンが一度言葉を切って。
「【戦闘妖精ポーン召喚】」
発動の最後のピース、聞き慣れたスキル名が厳かに、誇らしげに響いた。
声に応えて吹いた風が、ふわりとジェンシャンの髪を揺らす。間を置かず、ジェンシャンの隣にぽんっと半透明の花が咲き、くるくるくるくる。
その上に、弟子の待ち望んだ存在が立った。
「成功、でしょうか?」
「成功だね」
ジェンシャンの隣に寄り添うように立ったのは、どこからどう見ても立派なポーンだった。レベル50の、喚ばれたてほやほやだ。
師の肯定に、ジェンシャンがそれはもう嬉しそうに微笑んで、ようやく手に入れた、自身の分身たる妖精を見つめる。
「よろしくお願いしますわぁ、ポーン」
主の挨拶に、言葉を持たぬ妖精は深々と頭を下げた。
(おぉ~、やったぁ)
間近にその光景を見ていたリコリスも感無量だ。
弟子の成長の大きな一歩を、目の前で見られた。
至らぬところの多い半人前の師でも、やはり嬉しいものは嬉しい。
(こっちに連れてきてよかった、かな。うん)
実は、職業取得の儀式だけなら、リコリスの家でもできた。
それをこちらに移動してきたのは、この森の空気を知ってもらうためと、儀式の場が貧相な家ではどうにも格好がつかない気がしたからだ。
どちらの意味でも、正解だったようでよかった。
特に後者。一生の思い出にもなるのだから、背景も大切に決まっている。
ともかくこれで、一番大切な用が無事終了した。
(……で、後は)
ジェンシャンたちの向こう側、切り株のもう少し縁に近い方を見れば、先程から僅かも動いていないウィードがいた。
リコリスがこれからやろうとしていることは、このめでたい空気を壊してしまいそうで、喜びに水を差す前にジェンシャンだけでも帰した方がいいかと考える。
「あぁ、リコリス様」
「……ジェンシャン?」
リコリスが一瞬目を離す、その直前まで自分の妖精ときゃっきゃと喜び合っていたはずのジェンシャンが、意味深にリコリスを見つめている。
「ウィードちゃんとお話があるのでしょう? 私のことは、どうぞお気になさらず」
いつでも周囲の観察を怠らない、本当にできた弟子だ。
リコリスは苦笑しつつも軽く頷いて、ウィードの元へと歩みを進める。背中に、ジェンシャンの見守る視線と、ライカリスの冷たい警戒を感じながら。
伏せた犬の鼻先に立ち止まると、足元から向けられる怯えた上目遣い。
きょろきょろと落ち着きのないそれは、もうまるっきり犬そのものだ。
最初の頃のような反抗的な目をしなくなって、どれくらい経っただろう。人間からすれば大した時間ではないが、酷い目を見ていた側からすれば性格が変わる程度には長かったのか。実を言うと、もっと何年も反抗されると思っていたのだけれど。
まあ、今怯えられているのは、リコリスの(本人すら)予想外の正体を知ってしまったからかもしれない。
人間に戻す前にほんのちょっとだけ、駄目押しで脅しておこうくらいのつもりだったのに、思いのほか効きすぎてしまった。困ったことだ。
まじまじと見つめても、眼球以外は動きもしない。
どうやら反抗の意思はないようで、これなら早々に相棒の短剣の餌食になることもないだろう。
【状態異常回復】
リコリスの発動したスキルが、光の渦を作り出し、ウィードに絡むようにくるくると回る。
緑の光の粒子が散らされ、犬の毛の上に舞い降りては消えて。
瞬き一つ二つの間に光は薄らいで、重なるように目の前の毛皮の輪郭が滲む。
ふわふわと移ろいだラインは、やがて落ち着きを取り戻し、見覚えのある姿を構築していった。
「……っ」
ローブを広げて座り込んだ男が、地につけられた自身の両手を見下ろした後、その片方をゆっくりと持ち上げる。
人の形に戻った手の平を見、返して甲を確認し、震える吐息を零したのを、リコリスはしばし見守り、
「久しぶりの人間はどう? ……ダックウィード」
できるだけ静かに声をかける。
驚かさないように気を遣ったつもりで、何だか思ったより冷たく含みのある声になってしまったが、別に悪気はなかった。いや、本当に。
男はそれで大きく肩を揺らし、恐る恐るといった風情でリコリスを見上げた。懐かしく思うのも忌々しいその顔は、今は記憶にあるよりも随分と窶れ、力がない。
一度そうしてリコリスを見た男は、すぐにまた顔を伏せ、その場でもそもそと体勢を変えた。
先程ライカリスがしたように片膝をつき、深く頭を垂れる。
「神聖なる御身へのこれまでの御無礼、幾重にもお詫び申し上げます。――リコリス聖下」
さすが腐っても組織人というべきか、沈痛な声音ながらも丁寧で、身の程を弁えた、神に仕える神官に相応しい態度と言葉遣い。
そして、心の底から絞り出すがごとく、疑いようもない悔恨からの謝罪だった……が、謝罪されたリコリスの方はといえば。
(わあ、聞き慣れない単語出てきたー……)
耳慣れない言葉の連続に、ちょっとした現実逃避が始まっていた。