第9話 一応存在する乙女心とやら
「じゃあ、すみませんけどマスター。朝まであの人たち、お願いします」
静かになった酒場の入り口で、リコリスが頭を下げる相手は、この酒場のマスター兼宿屋の店主エフススだ。
宴会はお開きになって、ある者は陽気に笑いながら、またある者は「リコちゃん怒らせるのはやめよう」などと呟きながら、皆それぞれ家路についていた。
町長夫妻からは、ひとりの怪我人も出なかったことを感謝されたが、リコリスはにっこりと笑って、「躾はまだこれからです」と答えたのである。
皆を見送って、リコリスはお仕置き真っ最中の7人を預かってもらえないかと、マスターに頼んだのだった。
連れて帰ってもよかったが、家は狭くて入れられないし、かといって家畜小屋や外に放置もあんまりだろう。
いくら静かだとはいえ、あの不気味な集団を預かってほしいと頼まれたエフススは、豪快に笑って頷いてくれた。日々酔っ払いの面倒を見ている彼は、これくらいでは動じない。
「おう。今日はもう店仕舞いで、泊り客なんかそもそもいないしな。酒場の隅に置いておけばいいんだろ?」
「はい。朝一で引き取りにきます」
「任しときな」
鷹揚に頷くマスターに再度軽く頭を下げて、リコリスはそろそろ、と踵を返しかけ。
「リコリス!」
「はい?」
「これからまた、よろしくな!」
「――はいっ」
建物に入っていくエフススの背に、リコリスはもう一度、今度は深く頭を下げた。
扉の閉まる音を聞いてから頭を上げると、彼女から一歩引いたところに立っていたライカリスを振り返る。
「帰ろ」
「はい」
行きと同じようにライカリスと並んで歩く、既に深夜に近い町。昼よりもずっと涼しいが、それでも暑いことは暑い。
隣を歩く横顔には、穏やかな表情が戻り……と言うかむしろ晴れやかだ。そんなに帰れるのが嬉しいか。
(ん? 帰る?)
はて。リコリスが帰るのはもちろん彼女の牧場だが、ライカリスはどうするのだろう。
(って、当然自分の家に戻るでしょ)
ライカリスの家はリコリスの牧場の目と鼻の先だ。
あの日常生活にも支障ある家に普通に一緒に帰ることを、欠片も疑問に思っていなかったとか、少し笑える。
「リコさん。また足が止まってますけど」
「え、ああ」
昼もこうして色々考えては、足を止めていた。
またしても立ち止まっていたことに気づいたリコリスに、ライカリスが手を差し出してきた。
「どうぞ」
「…………ありがとう」
瞳に悪戯っぽく輝く光を見たが、それには知らんぷりで、彼の手に自分の手を乗せた。
指が絡んで、歩みが再開する。
「疲れたでしょう。今日はゆっくり休んでください」
「そうだね。あ、でも」
思い出した。
「何か?」
「いや……あの家、お風呂がない、から。温泉……行かないと」
「……」
微妙に咎める視線が刺さった。言葉はないが、目線が語る語る。
リコリスは俯いた。
「もう夜中ですよ?」
「うーん。そうなんだけど、でも」
ごにょごにょ言いながら腕を持ち上げて匂いを嗅ぐリコリスに、ライカリスが顔を寄せてきた。
そのまますんすんと肩口を嗅がれて、彼女は硬直する。
「?!」
「別に臭わないですし。明日の朝、町に行く前でもいいじゃないですか」
「ぎゃああああっ!」
オイコラ。ふざけんな。
なんてデリカシーのないマネをしてくれるのか。
咄嗟に繋いでいた手を振り解いて、ライカリスの顔面を手の平で押し退ける。勢いがありすぎたのか、べち、と音がした。
「ぶ。な、何するんですか」
「うるさーいっ! あんたこそ、なんてことすんの!」
「ええっ?」
「お風呂前の女の匂い嗅ぐとかどうなの?!」
リコリスはつーんと顔を背けて、おろおろしているライカリスを置いて歩き出す。怒りに任せて、随分と早足だった。
慌てて後ろから追ってくる気配があった。
「リコさん、ごめんなさい。そんなに嫌がられるとは思ってなくて」
昼は野菜を収穫したし(ほとんど妖精がやってくれたけど)、夜は酒場で宴会で(飲んでないけど)、しかも夏だ。空調もなかった。
この条件で匂いを嗅がれたい女がどこにいる。
「別に嗅がれたことが嫌だったんじゃないのよ? いや、嫌だったんだけど……これがお風呂上りだったら好きにすればって感じだけど!」
今はダメだ! ないわ!
足の長さが違うからか、かなり早足のリコリスに悠々とついてくるライカリスは、しきりと首を捻っている。
「そんなに気にしなくてもいいじゃないですか。全然汗臭いとかもなかったですし、リコさん普通にいい匂いですよ?」
いい匂いってなんだ、いい匂いって。
「だからそういう問題じゃないってば。ふんだ。いいもんね。ライカもう家に帰りなよ。私1人で温泉行ってくるから」
「え、い、嫌です。ダメですそれだけはっ」
「知ったことかーっ」
帰れと言われてもついてくるライカリスは、宴会の時とは正反対に表情豊かだ。あの時の無表情や不機嫌な顔が嘘のように。
そのことにこっそり安堵しているリコリスだったが、教えるつもりは全くない。
「じゃあ、脱衣所の前で待ってますから!」
その提案に、リコリスは思わずライカリスを見上げた。
少し冷静になって、顔を顰める。
「……そこまでしてくれなくていい」
牧場近くの天然温泉には、誰が造ったのか、小さな脱衣所が設けられていた。他は囲いも何もなく、周囲は森だ。
しかし、きっとリコリス以上に疲れているだろうライカリスは、苦笑して首を振る。
「ダメですよ。こんな時間にあなたを、あんな森の中でひとりにするなんて」
「……」
女心は理解してくれないくせに、こういうことは心配するのか。
心配は素直に嬉しいけど、できたら逆がよかった。
だって夜の森くらい、リコリスにはなんでもない。妖精を呼べばいいのだから。
怒りがだんだん諦めに姿を変えていく。
「――分かった。そしたら、温泉やめるから、ライカの家のお風呂貸して」
「え?」
進入可能なNPCの自宅には、ここまで細かくやる必要あるのかというくらい、オブジェクトが付属していた。
キッチンはあったし、もちろんお風呂も。
ライカリスの家は小さいが、例外ではない。
これから温泉に向かってそこで待たせるより、彼の家に直接向かった方が負担が少なそうだ。ついでに言えば、温泉に行くよりそちらに行く方が近い。
「それはかまいませんが……」
「もう直接行っていい? そんで、石鹸とかタオルとか貸してください」
お宅訪問だ。しかもかなり図々しい系の。
ごめんね、妖精ちゃんたち。帰るの少し遅くなります。
「分かりました。じゃあ、ちょっと道を逸れますよ」
町の外れから、ライカリスに案内されて森に入る。彼の家までは道なき道だ。
だが覚悟して足を踏み入れた森は意外と暗くなかった。否、暗いことは暗いのだが、うっすらと見通しがきくのだ。少なくともどこに木があるのか判別できる。
もっと真っ暗で何も見えなくなるかと思っていたが、どうやらゲームと同じ程度には見えるようだった。
少し見えていたら楽に移動できるだろうが、それは贅沢というものだろう。
職業に魔術師を選んでいたら周囲を照らす魔法も使えたが、もちろんリコリスにそんな魔法はない。
確か、【松明】がポーチの中に入っていた。出すべきか、とリコリスが考えた時。
「失礼」
「え――わわっ」
振り返ったライカリスが、リコリスを両腕に抱え上げた。
「ちょっ」
「暗いですから、この方が安全ですよ。掴まっててくださいね」
そう言って、リコリスの返事も聞かずに動き出すので、彼女は慌てて目の前の首にしがみついた。
長年森で暮らしてきただけあって、リコリスの目にはうっすらと見えるだけの木の根や枝をひょいひょい避けて、軽々と進んでいく。リコリスが普通に歩くよりも速いくらいだった。
「顔、伏せておいてください。葉が当たるといけませんから」
そんな忠告もされたが、結局そんなことは一度もないまま、ライカリスは彼の家に辿り着いた。
といっても明かりがないので、リコリスの目には何となく小屋らしきものがある気がする程度にしか見えないが。
迷いない足取りのライカリスが家に入ると、突然視界が明るくなった。
「う」
眩しい。リコリスはしぱしぱする目を擦る。
「大丈夫ですか?」
「うん……」
待つことしばし、ライカリスはリコリスの目が慣れてから、彼女を降ろした。
自動点灯したランプに照らされた室内は……不穏で怪しげだった。
ライカリスの仕事は他称薬師だ。
妙な薬を調合したり実験したりが好きで、森の中に引き篭もって色々好きにやっていたら、どこからか聞きつけた人間がその薬目当てにやってくるようになったらしい。
いつの間にか薬師として認識されるに至ったが、本人曰く「いい迷惑」だという。
そもそも滅多に人に会わないから仕事として成り立っているのか微妙なところだが。
そんなわけで、家の中は実に怪しい。
変な形だったり干乾びたりしている謎の植物が、天井から吊り下がり、壁に貼り付けられ、机の上に鎮座している。毒でも付いていそうな大量の本は、本棚に入りきらずに部屋の隅に積みあがっているし、実験用のビーカーもいたるところに置いてある。しかも紫や水色の液体つきで。
ゲームで見慣れたと思っていたが、いざ目の前にあると相当のインパクトである。
「相変わらず、アレな家だよね」
もっと綺麗にしてそうな印象があるライカリスだが、家の中はどう控えめに見ても乱雑。
昨日の洗い物が残っているとかいう汚さではないが、これもどうだろう。
当の本人は特に気にしていないようだ。
「リコさんは見慣れているでしょう? 2年前から、特に変わってないですよ」
「そうだねぇ」
怖くて掃除したいけどできない家のままだ。
立ち尽くすリコリスを、ライカリスが促した。
「必要なものは全部浴室にありますから、好きに使ってください」
「うん、ありがと」
変な草を避けながら進んで、リコリスは浴室の扉をくぐった。
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「はふ~」
温かいお湯に包まれて、リコリスは満足げな吐息を零した。
置いてあった石鹸をありがたく使わせてもらって、全身磨き済みだ。
これでいくら嗅がれても大丈夫。ドンと来い。
浴室は普通に綺麗にされていた。むしろさっきの部屋が異界だったのだが。
入ってすぐのところに小さな脱衣所があって、その隣が今リコリスが入っている浴槽だ。
横の壁には彼女が知るものと同じ形の水道があるが、ひとつだけ違うのが、壁に繋がっている箇所に、赤い石でできた輪が付いているところ。
リコリスの家のキッチンの水道には、これはなかった。
どうやらこれがお湯を出すのに重要であるらしいと思い至ったのは、どうしたらお湯が出るのか素裸で散々悩んだ後だ。
見慣れない物がついていたので触ってみたら、その赤い石は微かに輝きを発して、結果お湯が出たのである。
「魔法かなぁ。明かりも火じゃないんだよねこれ」
頭上で輝くランプを見上げる。もちろん電気でもない。
宿屋で宴会の準備が整うのを待っていた時も、暗くなったら明かりは自動で点いた。
そういえば、ゲーム中でも日が暮れると勝手に部屋が明るくなっていたが……。
「訊くに訊けないしなぁ。後でこっそり調べてみないと。――さて」
あまり長湯しても迷惑だろう。
お湯から上がって、脱衣所の棚に置いてあったタオルを取る。
わしゃわしゃと頭を拭きながら、何気なく彼女が先ほど脱いだ服に視線を落とした。
(……ん?)
あることに気がついて、温まったはずの体がすーっと冷えていく。
リコリスは意味もなく下を見て、上を見て、それから虚しく首を傾げた。
「……着替え、ないじゃん?」
迂闊。というか。
(こんなとこばっかりリアルなお約束とかいらんわーっ!)
……声に出さなかった叫びは、どう考えても自業自得だった。