第65話 更なる高みへ
「もう海に入っててもいいッスか!」
滝のような汗を流したばかりで、髪をぐっしょりと濡らしたファーが、目を瞑ったまま訊ねてくる。その右手には、彼の髪と同じくらいか、それ以上にびっしょりと濡れたウィードが抱えられていた。
だらりと垂れた尻尾の先から水滴が落ちる。あれはウィードのものなのか、それともファーの汗を吸ったのだろうか。
「い、いいよ」
「ありがとうございます!!」
大量の飲み物は与えたが、それでもやはり蒸し風呂が後を引いているのだろう。
真っ赤な顔のファーは叫ぶように礼を述べ、目の前の海へと突入していった。足に波がかかり、涼しさに歓喜する声がタープのある位置まで届いた。犬の遠吠えも。
「――それでね」
リコリスは残りの弟子たちを振り返る。
「ここからさっそく自由時間にしようと思うんだけど……その前に2人とも目、開けたら?」
パーカーの前はできるだけ開かないように気をつけているし、足は膝近くまで隠れているし、ワンピースのようなものと思えば特に気にするほどのこともないはずなのだが。
しかし男2人は頑なに首を振るのだ。
『いや、俺らはこのままで!』
「そ、そう……」
(なんかこれはこれで修行みたいだな)
まあ、本人たちがこう言うのだし、海に近づいてからはさすがに目も開けるだろう。溺れるようなことがなければいい。
そう考え直して、リコリスは苦笑した。
「んー、それじゃあ改めて、自由時間にしよっか」
そう告げた途端、糸目のままの2人の顔が、それでも分かりやすく輝いた。
それは女たちにも同じはずなのだが、むしろ彼女たちは皆男たちの様子に苦笑している。
「ハイ! 師匠!」
「ん?」
ばっと大きくチェスナットが手を挙げた。
「浮き輪ください!」
「えっ、浮き輪?」
「チェスナット……泳げないのか……」
予想外の言葉に全員がきょとんとし、アイリスが何ともいえない声を出す。
それに応えて、浮き輪を求めた弟子はカラカラと笑った。
「いやぁ、そうなんだよ。何でか、沈んじまうんだよなぁ」
「ん~、でも……」
この、なかなかいかつい筋肉男が入る浮き輪が、果たして所持品の中にあっただろうか。
窺うように蝙蝠ポーチを見れば、何やら考え込むように片方の羽を頭に置いている。
「ないッスかねぇ、やっぱ」
しかし、微妙な空気に結果を察したチェスナットが幾分残念そうに呟いた時、悩むポーズを取っていた蝙蝠が大きく羽を広げた。その顔には常と変わらぬ自信ありげな笑み。
次いで、開いた口から吐き出され、砂の上に着地した物。
「浮き輪?」
リコリスは首を傾げた。
それは白地に水玉模様の可愛らしい浮き輪だった。まだ膨らんでおらず縮まっていて正確なサイズは不明だが、それでも一目でチェスナットには小さすぎると分かる。
だがその疑問を口にする前に、また蝙蝠が口を開け、更に浮き輪が落とされ乾いた音を立てた。
(んん?)
果たして、模様こそ違うが同じような大きさの浮き輪が5つ、蝙蝠の前に置かれることになった。
それでこれをどうするつもりなのかと、固唾を呑んで見守る視線を堂々と受け止め、蝙蝠は笑った。
自信たっぷりな笑みから、牙の並んだ口が一際大きく開かれる。
けれど先ほどと違い、今度は吐き出すのではなかった。
吸引に伴う風が巻き起こり、うねる。同時に、並べられていた浮き輪が輪郭をなくし、元あった場所へと吸い込まれていく――と、
「わっ?!」
リコリスは思わず蝙蝠ポーチを取り落としそうになった。
最後の浮き輪を吸い込み終えた蝙蝠が、激しく振動し始めたからだ。
ガクンガクンと、リコリスの腕ごと振り回す縦揺れに、ペオニアが悲鳴を上げて一歩を下がる。
その声に驚いたチェスナットたちが何事かと目を見開くと、慌てたライカリスがリコリスを支えようと手を伸ばしたところだった。
「きゃあっ」
「あわわわわわ」
「リ、リコさん!」
「師匠っ?!」
頼もしい腕に支えられ、しかしそれでも揺れは止まらず。
いっそ手を離せばいいのかもしれないが、落としたらそれはそれで後が怖いような。
そんな微妙な心境で、リコリスは結局自分ごとシャッフルされ続け、ようやく開放された時には若干目を目を回していた。
「ふひぃ」
「……大丈夫ですか?」
「内臓が……混ざっ、た……?」
「しっかりしてくださいっ」
まだ体が上下に揺れている気がする。
ライカリスの腕がなければ、ひっくり返っていただろう。
体の中身を混ぜ合わされたような衝撃に頭が浮遊感と頭痛を訴える。抱き寄せられて照れる余裕すらない。
――しかし、混ざったのはリコリスの中身だけではなかった。
何事もなかったかのように落ち着いた蝙蝠の口から、何やらカラフルな物がするすると滑り出る。
それが何物なのか、人間たちが気がついたのは、蝙蝠がその端を咥えて一振りしてからだった。
「これ……」
広げられたドーナツ型のビニール製品……間違いなく浮き輪だった。
しかも、チェスナットが余裕で使えるであろう大きさのそれは、部分部分で模様や色が異なっていて、その柄は5種類。先ほど蝙蝠が吐き出して並べたた小さな浮き輪の柄を、そのまま順に繋いだツギハギな見た目をしていた。
その意味を理解して、リコリスは愕然とする。
(アイテム合成……?!)
作成ではない。
素材に分類される物同士を使って行われるのが生産、つまり『アイテム作成』なら、今蝙蝠がやってのけたのは『アイテム合成』だ。
素材ではない、完成品同士を混ぜ合わせて違うアイテムを作り出す。
それは、かつてMMO『アクティブファーム』内で、いずれ実装されるだろうとプレイヤーたちの期待を集めていた――未実装機能だった。
この世界に来る直前の記憶が欠落しているリコリスだが、覚えている範囲ではこの機能は実装されてはいなかった。
未実装である以上、かつてのゲーム内はもちろん、今現在のリコリスも、そういった操作はできない。そもそもそんな項目が、メニューの中にないのだ。
確かにこの蝙蝠ポーチが自立した意思をもっているのはもう分かっていることなのだが、それでも驚きを隠せなかった。
だがリコリスのショックなど知りもしない周囲、特に希望が通ったチェスナットは、出来上がった巨大浮き輪を見て素直に喜びの声を上げている。
「うおおぉ! 蝙蝠様すげぇッス! 最高ッス! ありがとうございますっ」
純粋に喜びと賞賛を口にするチェスナットに気を良くしたのか。
蝙蝠が咥える浮き輪に、空気が入り始めた。人力よりも遥かに早く、浮き輪が膨れていく。
どうやらサービスしてくれるらしい。
巨大浮き輪を受け取り、小躍りするチェスナットを満足げに眺める蝙蝠ポーチは、実際のところ何を思って、そして如何にして新機能搭載まで至ったのだろうか。
聞いてみたい。
それだけでなく、他にも色々と訊ねたいことがある。
異変のこと、リコリスの過去のこと。何か知ってはいないだろうか。
叶わないことだとは知っているが、やはりもどかしい。
(話せたらいいのになぁ。……あれ? そういえば、前ライカが食べられた時、顔がどうとか……)
そして何か言われたと、言ってはいなかっただろうか。
あの時のことは、リコリスも精神的に追い詰められていてよくは覚えておらず、また当時の相棒の様子から、今も詳しく問うことが躊躇われる。
だからこそ想像するしかないのだけれど。
(もしかして中に何かいて、会話できたり……?)
例えば、このポーチをそのまま大きくしたような巨大蝙蝠が浮いているとか。
丸々とした巨大な蝙蝠に下敷きにされているライカリスを思い浮かべ、リコリスは慌てて「そんな、まさか」とその映像を振り払った。