第56話 暴走特急と夫婦の絆?
「え、あ、あー……こっちにはないんだ」
迂闊だったかもしれない。ヒースの怯えようを見て、じわりと浮かぶ後悔。
というか、この怯えよう。悲しくなる。
さて、どうするか、と頬を掻きつつリコリスが呟いた時、
「リコリスの故郷の風習ですか? その、『ユビキリ』というのは。約束の時にそのユビキリをするのですか?」
サフランがずずずずいっと、後ろから身を乗り出してきた。若干勢い余るその動作にリコリスとヒースが思わず身を竦めるが、彼は全くお構いなしで。
口調はいつも通り落ち着いているのに、そのはずなのに、そこにはぎょっとするほどの熱が籠もっていた。
リコリスはどうにか、小さく頷く。
「え、ええ。小さい子とかが、たまに」
「ふむ。では、そのまま我々の『石結び』と同じようなもの、と。やはり牧場主の人たちには独特の文化があるのですね。興味深いです。非常に興味深い……」
「……」
石結び。どうやら、こちらはこちらで、それらしい約束手順があるようだ。
だが、せっかくだからそちらをヒースと、と提案できる空気ではなかった。
根っからの学者肌であるサフランの知識欲を、見事に刺激してしまったのか。
特に、彼らにとっては謎の多い牧場主の文化についてだからだろうか。その目は爛々と輝いて。
(え、何。サフランさん二重人格か何かなの?)
――それほどに、人が違って見えた。
そういえば以前ゲーム中で、サフランの研究に関するクエストを受けた時に、一瞬こんな彼を見た気がするのだが、はっきりとは覚えていない。その時には、興味の対象は研究内容であって、リコリスに向いていたわけではなかったからか、とても研究熱心、という程度の印象で終わっていた。
その後関わったクエストやイベントでは、普段通りの穏やかなサフランだったから、今まで気にも留めていなかったのだ。
それが今は、これ。
誰のことも見えなくなってしまったかのように、独りで何事か呟いている。
咄嗟にヒースを見れば、それまでの怯えを、諦めと呆れの混ざった微妙な何かに変えて、小さくため息をついていた。それだけで、今目の前にしているサフランが、どれだけ微妙な状態か、容易に理解できようというものだ。
(えぇぇ~……。ラ、ライカ……)
更に、それまで黙りこくっていた相棒に目を向ける。と、分かりやすく「関わりたくない」と語った瞳が、気まずそうに左右へ行ったり来たり。
まるで、星河祭の、あの陽気な幽霊に絡まれている時のような、そんな顔をして。好きか嫌いかというより、単純に苦手という感情を伝えてくる。
……それなのに。
数瞬の迷いの後、ライカリスは意を決したようにサフランに向き合ってくれた。
「…………サフランさ」
「ライカ君」
しかし、ライカリスの口から、ため息と共に制止の呼びかけが吐き出される、その寸前。
ぶつぶつと独り言を言っていたサフランが、突然ライカリスを振り返り、ぴしりとその言葉を遮った。
「ライカ君も気になるでしょう? どれだけ深く関わろうと、そのほとんどが謎に包まれていた牧場主の人たちの文化ですよ」
「いえ、私は別に……」
「気にならないと?」
否定しかけたライカリスに、サフランが意外そうに目を見張る。演技でもなんでもなく、本気で不思議そうに。
「何故です。リコリスのことでもあるのに」
「えっ?」
「牧場主についてなのですから、それはつまりリコリスのことでもあるでしょう。知りたくないのですか?」
「あの、ちょっと、サフランさん?」
「無理をして取り繕うことはありませんよ。君は少し素直になったほうがいい」
「いや、ですから」
「――というわけで、リコリス。説明の続きをお願いします」
「…………」
(うわぁ……)
ぐいぐいぐいぐい。
引けば引いただけ、むしろ引いた以上に押す勢いに、ライカリスの眉が寄り始めた。
若干不穏に光った目が「部屋から引きずり出すか」と問うてくる。あるいは「一旦絞め落とすか」と。
とりあえず後者はまずい。
頑張ってくれた相棒に、視線で礼と、そして落ち着いてくれるように頼みつつ、リコリスは再びサフランに向き直る。
「説明と言われても」
「名前の由来は? 子どもの遊びにしては物騒ですよね? いつ頃、どのようにして生まれた文化かは分かりますか? 分かるようでしたら、その時代背景なども詳しく。あなた方の歴史にもとても興味があります」
「えーと、えーっと……」
「ああ、一番重要なことを忘れていました。今ここで、その『ユビキリ』をやって見せてもらわないと」
「うぅ……」
その、よく使い古された手帳とペンは、いつの間に。
ちょっと待って、の一言すら躊躇わせる気迫に、いよいよ対応に困った時、不意にリコリスの後ろで大きく息を吸い込む音が聞こえた。
「……ヒース?」
視界の端で、ヒースが両手を口に添え――、一拍。
「母ちゃーん! 父ちゃんが暴走したーっ!!」
まだまだ高い声はよく響いた。
その場の大人たちが大声に目を丸くし、そうしているうちにバタバタと慌しい足音が部屋に近づいてくる。真っ直ぐにヒースの部屋に向かってきた足音は、そのまま荒々しく扉を開く音へと繋がった。
ふわりと、場違いに甘い香りが漂った。
「サフラン~?」
扉を開けた荒々しさに反して、甘い香りと優しげな声と共に、カトレアが部屋に入ってくる。
口元には柔らかい微笑。しかし目がちっとも笑っていないのだ。
「何です、カトレア。今リコリスから貴重な情報を頂いているところなのです。邪魔をしないでほしいのですが」
「あら、そう? ……ふふふ」
(カ、カトレアさん……)
ただでさえ笑っていない瞳が、鋭く光る。
まさかの夫婦喧嘩かとリコリスは身構えたが、カトレアは笑みを崩さぬまま、振り向きもしない夫に歩み寄ると、静かに手を差し伸べた。サフランの後ろから伸ばされた手は、そのまま彼の顔の横を通り、なおもリコリスを問い詰めようとしている口へと辿り着いて。
――次の瞬間、くぐもった悲鳴が上がった。
「もう、いけない人ね。お客様に迷惑かけて。――本当にごめんなさいね、リコリス。この人、研究とか絡むと見境なくなるのよ」
「い、いえ……」
頬に手を当て、申し訳なさそうにカトレアがため息をつく。
しかし謝罪を受けながら、リコリスの視線はカトレアの足元……正確には、リコリスとカトレアの間で蹲っているサフランへと向いていた。
「あの…………大丈夫ですか……?」
「だ、だいじょ……ゲホッ、すみませ」
口を開こうとするたびに咽るサフランの唇が、真っ赤に腫れあがっていた。
ペンと手帳の代わりにその手に握り締められているのは、空のコップ。中身はとうに飲み干され、できればおかわりがほしいと彼の目が訴えている。
「あー……、カトレアさん。それ、は」
カトレアの手の中を、リコリスが覗き込む。
カトレアが先ほど、サフランの口に放り込んだ、何か。その余りらしきものがいくつか、まだ彼女の手の上で転がされていた。
目にも鮮やかな赤。頭に小さな緑の帽子。元々細い身の、先端は更に細く尖っている。――唐辛子だ。
ただひとつ、リコリスの知る一般的な唐辛子と違うのが、
(カトレア特製改良型水溶性唐辛子……。水溶性……?)
確認したアイテム名は、唐辛子の前が妙に長い。そしてその長い名前が、それが人の口の中に投げ込まれた場合の惨事を容易に想像させてくれた。
まあ、わざわざ想像するまでもなく、その結果は目の前に存在しているのだけれども。
無残な夫の様子にも特に表情を変えないカトレアが、リコリスの問いに少し嬉しそうに微笑んだ。
「これ? これはねぇ、この人の困った性癖を止めるためにクローグさんと考えて作ってみたものなのよ」
町の牧場経営者、クローグ爺さんの名を挙げ、カトレアはこの作物の誕生秘話を語る。
どうやらサフランの暴走は若い頃からのことらしく、人間では第一にして最大の被害者がカトレアなのだというが。
「ちなみに被害ってどういう……?」
「ん~、それは……それは…………うん、内緒にしておきましょう」
「そ、そうですか」
お茶目な誤魔化しだが、目は遠く。
懐かしむようでいて、しかし妙に乾いた笑みに、リコリスはそれ以上聞くことを諦めた。
「でも、実を言うと偶然できたものなのよ。ほら、私たちは何かを育てるのが不得意でしょう? だからクローグさんに相談したのだけど……私も何か手伝いたくて手を出したら、こうなってしまったの。ある意味、結果良ければ、ってことよね」
それからずっと、サフランが暴走するたびにこの特製唐辛子は愛用されてきた夫婦の歴史。カトレアはそれを、リコリスに差し出してきた。
「え?」
「またこの人が私のいないところで暴走したら、これで止めてほしいのよ。ヒースはまだ子どもだし、危ないから渡していないけど。それに、リコリスなら育てて、増やすこともできるでしょう? あ、もちろんお料理にも使えるわ。自分で言うのもなんだけど、使い勝手はいいのよ、これ」
「あ、ありがとうございます」
未だ口を押さえているサフランには申し訳ないが、正直ありがたい。サフラン対策としても、調味料としても。
ころころ、と見た目は普通の唐辛子が3つ、リコリスの手に落ちる。その途端、長い名前の後ろに品質が追加された。
(……私の持ち物になった、ってことか)
ゲームで幾度となく経験してきた、NPCからのアイテム、特に作物関連の譲渡。クエスト報酬やイベント景品など様々な形で受けてきた行為が、今こうして実際に行われたのだ。リコリスの目にしか映らない変化を伴って。
早速育ててみたいところだが、今は真夏。一般的な唐辛子の植え付け時期には少々遅い。
さて、この特製唐辛子はどうなのだろう。
もう少し詳しく調べてみようかとリコリスが考えたところで、それを遮る声が上がった。
「み、水…………」
悶えていたサフランが、限界を迎えたようだった。
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「なんだかすみません。お菓子まで頂いちゃって」
「あら、いいのよ。お礼と歓迎のつもりだったから。迷惑料も兼ねてしまったけど」
そう言って笑ったカトレアの視線が隣に立つサフランに流れる。
まだ唇を腫らしているサフランは、その場の全員の視線を受けて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……本当に申し訳ないです」
「いえ、まぁ……お気になさらず。驚きはしましたけどね」
「いや、お恥ずかしい限りで……」
正気に戻れば、やはりいつもの温和なサフランだ。
何となく安心して表情を緩め、リコリスはもう一度「気にしないでください」と重ねた。
「さて、じゃあ、私たちはこれで。お菓子と唐辛子、ありがとうございました。――それと。ヒース、元気になったら、一緒に修行のこと考えようね」
「うん!」
リコリスは幾分元気を取り戻したように見えるヒースの頭を一撫でし、軽く頭を下げてから、疲れた表情の相棒を引き連れて歩き出した。
牧場を出た時にはまだ涼しい時間帯だったのが、今は既に昼食の時間を1時間ほど過ぎようとしている。
あの後、自分たちは軽くお茶を頂いてしまったが、弟子たちはお腹を空かせているだろう。
食後のデザートも入手できたし、とリコリスは僅かに足を速めた。