第54話 心の行方
「はぁ~……」
温かな湯に身を沈め、リコリスは盛大にため息を落とした。安堵とも苦悩ともつかないそれが、白い湯気を揺らす。
しっとりとした木の浴槽の縁に顎を預けると、脱力感が大きくなった。
今、リコリスは広すぎる浴室に1人きり。
本当は、ペオニアたちを捕まえて、色々と相談に乗ってもらいたかったのだ。
だが、ペオニアとアイリスは先ほどのライカリスショックが大きかったらしく、顔を赤くしてフラフラと逃げていってしまったし、ジニアには「物陰から覗かせてください」と意味不明なお願いをされ、やはり逃げられてしまった。
顔を赤くして逃げるのは、気持ちが分かるだけに責められないが、ジニアはいかがなものだろうか。
無表情の中で目だけが生き生きと輝いていたのが、ちょっと怖かった。
そして頼みの綱のジェンシャン……彼女もまた、この場にはいない。
ジェンシャンは他の3人と違い、すぐに逃げずに話を聞いてくれた。半笑いではあったけれども。
だからともかく、リコリスは出稼ぎの間にあったことをできる限り話した。
特に蝙蝠様の大暴走から、その後のライカリスの奇怪な行動に至るまでを、念入りに。
思えば、色々と溜め込んでいたのだろう。
きっと誰かに話を聞いてほしかったのだとリコリスが気がついたのは、これでもかと語り倒した後だった。
一段落ついて息を吐いたリコリスに、ジェンシャンは「すっきりしましたか」と笑って。それから、次はリコリス自身の気持ちをゆっくり考えるよう言い置いて、浴室を後にした。
そしてリコリスは、ゆらゆらと頭を左右に揺らしながら、ジェンシャンの言葉を考えている。
「私がどう思っているか。どうしたいか。どうなりたいか……」
正直考えても考えても……である。
誰かポンと答えを投げてくれないものだろうか、と逃避したくなるが、残念ながらリコリスにしか答えは出せないのだと、理解もしていた。
「どう思うって……そりゃ嬉しかったよ……」
ライカリスに触れられて。
戸惑ったし、恥ずかしく居たたまれなくて……それ以上に。
――自分でも驚くほど、嬉しかった。
だから……彼のため息に気がついた時、ひどく悲しかったのだ。
「ライカのバカ……」
望まぬ行為を強いられている相棒を責めるつもりはない。気の毒だとも思う。
だがせめて、こうして1人でちょっと呟くくらいは許してほしい。
「はぁ。ホント、どうしたいのかなぁ、私」
ライカリスの行動が嫌なわけではない。
気恥ずかしくてかなわないので、もっと、と思えるほど、素直にも積極的にもなれないが、全くなくなってしまえば、きっと寂しい。
「でも……ライカが嫌なのは、嫌だなぁ……」
ライカリスが辛いのが一番嫌だ。憂鬱そうなのを見ていると苦しくなる、から。
……やはりどうにかしてやめさせるしかない。
だが、どうやって?
「……直接言うしかないんだよね、やっぱり」
ただやめてほしいと言うわけにはいかない。
嫌だから拒絶するのではないと、伝えなければ。
ライカリスに触れてもらえるのは嬉しいと――……、
「って、それもう告白じゃんっ!」
高い声で叫んで、リコリスは浴室の縁に額を叩きつけた。ごん、と鈍い音がした。
「いたい……」
額を押さえながら、ずるずると湯に沈み込む。顔半分が浸かり、ため息が、ぷくぷくと小さな泡を作った。
膝を抱え、小さく丸くなって、今浮かんだ選択肢を考える、けれど。
「告白……告白……?」
だって、そんなの。
リコリスはきゅっと唇を噛む。
蝙蝠様乱心事件で、ライカリスの身に何が起きたのか、未だに分からない。
だが、リコリスに手を出すことを強制されているのは確かだ。ライカリスが、本当はそれを望んでいないことも。
これでその上、そんな相手から想いを告げられたら。
「……ライカ、嫌がりそうだな」
今まで何度となく、一緒にいてほしいと言われた。必死な、縋る瞳で。
ただライカリスにとっては、リコリスが隣にいることが重要で、それ以上、少なくとも男女の仲を求めてはいないように見えたから。
もし、下手なことをして、嫌われたら。あるいは、彼を追いつめてしまったら。
「……っ」
――ライカリスに厭われる。
それは単純に振られるよりも、ずっとずっと辛くて。
想像だけで泣きそうになって、リコリスは慌てて首を振った。
どちらかというと、追いつめられているのはこちらの方かもしれない。悪い方にしか考えられなくなっている。
無性にライカリスの顔を見たくなって、リコリスは勢いよく立ち上がった。
つい先ほどまで一緒にいたはずなのに……それでも。
湯船から上がり、滑って転ばない程度に早足で、脱衣所に駆け込む。
蝙蝠ポーチを目にした時には何となく複雑な気持ちになりながらも、手早く衣服を身につけ、リコリスは脱衣所を飛び出した。
そして、そのまま目の前の扉から外へ――……、
「い、痛っ、痛っ! ぎゃああああ!!」
「ヒィイイッ! すんません! すんません!」
「死ね」
「………………」
リコリスはそっと扉を閉めた。
張り詰めていた空気が抜ける。針で穴を開けられた風船の気分だ。
乾いた笑い声を漏らし、リコリスはもう一度、今度はそっと扉を開く。
緑の葉が揺れる畑の手前で、謝罪の合間に「お約束が!」「様式美が!」と叫びながら走り回るチェスナットとファーが見えた。
それを無表情で追いかけ、ナイフを投げる彼女の大切な相棒の姿も。
面白いことに、逃げているのは2人だけで、ウィロウはペオニアたちと並んでその光景を眺めていた。
(ホントに覗こうとしたのか……)
立場は被害者のはずのリコリスだが、目の前の光景に込み上げてくるのは怒りよりも笑いだった。
よくよく観察してみると、ライカリスが投げるナイフも、ギリギリ当たるか当たらないか、必死で頑張れば、辛うじて避けられる程度に加減されているのが分かる。
それにしても、いくら手加減されているとはいえ、これだけライカリスの攻撃から逃げ回れるのだから、身体能力もかなり上がっているようだ。
(……ふむ)
リコリスは顎に手を当て、値踏みする視線を覗き犯たちに向けた。
そうこうしているうちに、ファーが何かに蹴躓いてバランスを崩し、咄嗟に前を走っていたチェスナットのズボンを掴む。
「うぉあっ?!」
「ちょ、おまっ」
「きゃああっ!!」
野太かったり、甲高かったりする悲鳴が飛び交い、次いで、チェスナットとファーが地面に重なった。
ああ、ピンクの水玉パンツが目に痛い。
倒れた2人を汚いものでも見るような、呆れ果てたような目で見下ろしたライカリスだったが、やがて手を下げ、得物をどこかへしまい込んだ。そしてため息をひとつ。
「サボってはいなかったようですね。……まぁ、いいでしょう」
心底面倒そうな口調だったが、それでも地面の2人には救いになったらしい。
揃って安堵の吐息を零した……が。
「……ですが。覗きの件はまた別ですからね」
「え――ぅぐっ」
「ぐえぇっ」
ライカリスは冷たく言い放ち、ファーの背を踏みつけた。
呻き声が響き、更にライカリスの足がぐりぐりと踏みにじる動きをするたびに、蛙の鳴き声のような悲鳴が上がった。
先ほどしまわれたナイフとは違う、黒光りする短剣が姿を見せ、ペオニアたちが息を呑む。
――これはまずい。
「そ、そこまで、そこまで! もういいから!」
慌てて扉の影から走り出て、叫ぶ。
「し、師匠~……」
半泣きのチェスナットがリコリスを見、「助かった」と呟き。同時に、1人の例外を除く全員が、詰めていた息を吐き出した。
その例外だけは、短剣をしまいながら舌打ちしていたけれども。
リコリスは騒ぎの中心に走り寄り、ライカリスと転がる2人の間に割って入った。
「こ、この2人には後でお仕置きするから!」
その瞬間、後ろから悲痛な嘆きの呻きが聞こえたが、それはそれだ。
「えっと、それで、その……ライカ」
かける言葉を探しながら、リコリスは不機嫌そうな顔をしたライカリスを見上げる。
今の騒ぎで緊張はほぐれたと思っていた。
だが、いざライカリスを前にすると、先ほどの葛藤やその他諸々が思い出されて、どうにも言葉が出てこない。更に、相棒の機嫌がよくないのも、それに一役買っていた。
それでも何か言わなければ。
何とか言葉を繋げようとした時、ライカリスが小さくため息をついてリコリスに手を伸ばし、つん、と顔の横の髪を軽く引っ張った。
「え?」
「髪。全然乾いてないですよ。……慌てて出てきたんでしょう」
見透かしたように言われ、リコリスの体が強張る。
まさか……まさか、ライカリスに会いたくなったなどという、恥ずかしいことこの上ない理由がバレている?
この場合は青くなればいいのか、赤くなればいいのか。どっちだ。
だがリコリスの心配を余所に、ライカリスの視線はリコリスの後方へ。
ずりずりと這って逃げようとしていたチェスナットとファーを、相棒は冷たく睨む。
「この人たちがうるさくしたから……」
「ひっ」
「す、すんません、すんません!」
「え、違……」
咄嗟に否定しかけ、リコリスはふと口を噤んだ。
ライカリスの勘違いは、状況的に十分納得できる。
どうせなら、そのまま勘違いしてもらったままで、本来の理由を隠し通してしまえば。
(あぁ、でも……)
逃げずに向き合うという選択肢も、あるのだ。
思えば、都合の悪いことは言わずに逃げてばかり。
ライカリスも同じような傾向があって、例えば今回の暴走もそうだ。何を思っているのか、彼の本当の気持ちは分からないまま、今に至っている。
……その心の内を知りたい。
何を憂えているのか、教えてほしい。
もっと……もっと。
でも、それを相手に望むなら、まずは自分からだ。あの夜、ライカリスに指摘され、反省したはずのこと。
(素直に、素直に……)
恋愛感情を抜きにしても、考えを表に出すこと、伝えることは、ライカリスも望んでくれたから。
だから、少しだけ頑張って。
状況を変えるための一歩を。
「リコさん?」
「えぇと、その。ちょっと色々考え事してたら……」
やっぱり言いにくい。
決意はしたものの、なかなか。
リコリスは視線を左右に彷徨わせ、一度唇を引き結んでから、ライカリスに手招きをした。
耳を貸してほしい、と。
「?」
やや不審そうにしながらも、相棒は顔を近づけてくれた。
その耳元に口を寄せ、どうしても控えめになってしまう声を絞り出す。
「……あのね、急にライカに会いたくなっちゃって」
居ても立っても居られず飛び出してしまったのだと。
「……っ」
ぱっとライカリスがリコリスから体を離す。
その瞬間早くも後悔しかけたが、そんな己を叱咤して見上げた先に、想像していたような嫌悪の表情はなかった。
「……ライカ?」
「え、いや、あの」
今度はライカリスの方が言葉に詰まる番だった。
頬を染め、眉を寄せて、口元を手で隠す。
今までに何度も見たことのある、リコリスが心底可愛いと、あるいは可愛すぎて羨ましいとすら思う表情で。
(あぁ、やっぱり本気で可愛い)
束の間、直前までの様々な葛藤を忘れ、うっとりする。
困った悪戯心が僅かばかり首をもたげたが、それはどうにか気合いでねじ伏せた。
やがてリコリスの大好きなその表情が緩み、喜びと優しさと、微かな艶を滲ませた微笑に移り変わる。
こうなると途端に勝てる気がしなくなって、ライカリスが再び手を伸ばしてくるのを、リコリスは黙って受け入れるしかできなかった。
「……家に入りましょう。髪、拭いてあげますよ」
ピリピリした空気など、もう欠片も残していないライカリスが、リコリスの手を取り、柔らかな笑みを浮かべた。
「わたくし、やはりリコリス様を尊敬してしまいますわ」
「本当に……あのライカリス様の機嫌を一瞬で直してしまえるのですから」
仲睦まじく歩いていく2人を見送って、ペオニアが呟き、アイリスが同調する。
だが、チェスナットたちを助け起こしていたウィロウは、疲れた顔で首を振った。
「俺はライカリスさんを尊敬するぜ。…………つーか、むしろ同情……」
それを聞いたジェンシャンが、楽しげな笑い声を上げ、
「尊敬の対象も同情の対象も、蝙蝠様以外にはおられませんわぁ」
そう宣言した。