第51話 まるで恋煩いのような罰ゲーム
朝日の明るさに目が覚めてすぐ、ライカリスと目が合った。
「おはよ」
珍しくはっきり起きている相棒に笑いかければ、相棒は何か逡巡する様子を見せる。
朝っぱらから何を思い詰めているのか。やはり昨日の蝙蝠様の一件で何か、と心配を込めて見つめる中、ライカリスはチラリと枕元の蝙蝠ポーチに視線を投げた。
それから更に迷った末、彼はおもむろにリコリスに顔を近づけて。
「え」
「……おはよう、ございます」
静かな声は耳元で。
その直前、頬の、限りなく唇に近い辺りに温もりが掠めたような。
「え、え? えぇ?」
「起きましょう」
頬を押さえ、間抜けに口を開閉するリコリスから、戸惑い顔をさっと背けたライカリスはベッドを降りてしまった。
(な、何、今の……?!)
むしろ戸惑っているのはこちらの方だ、と本気で思った。
蝙蝠様暴走事件の翌朝のことだった。
■□■□■□■□
真夏の熱された空気が、蔓の森から吹く風で揺らぎ、その度に感じられる涼しさにリコリスは目を細めた。
いくら暑いのが得意とはいえ、今日も朝から肉体労働に追われていた身としては、やはりこの風はありがたい。
「随分広がりましたね」
「……うん」
今では無事、元の白さを取り戻した例のシャツを着ているライカリスが、いつも通りリコリスの隣に立って、しみじみと呟いた。
ヴィフの町に来た当初、食べられそうな草という草を刈られ荒野となっていた町周辺は今、一面の緑で覆われている。そこに夏野菜の彩りが加わって、豊かな生命力を感じさせた。
畑の手前側、リコリスの前に植わっているのはトマトの苗だ。
そういえば実りを確認する時にはいつもトマトだと何となく思いながら、リコリスは苗の前に膝をついた。葉の緑の隙間を埋めるような目にも鮮やかな赤は、彼女の手に余るほどの大きさがある。
視線を当てて出てくる表示でも、間違いなく、リコリスの作物だった。
「これだけあれば大丈夫かなぁ」
立ち上がって膝を払い、リコリスは再度畑を見渡してちょっと首を傾げる。
ヴィフの町に来て畑を作り始めてから、30日を数えたのが既に1週間と少し前。ひと月の3分の1以上を費やしたことになる。
来る日も来る日も大地に鍬を入れ続けて、その結果と言うべきか成果と言うべきか、今目の前に広がる緑は、リコリスの出身地で言うところの、小学校のグラウンド大体2つ分ほどになっている。
ヴィフの町の人口は、異変前と比較するとかなり減ってしまって、100人ほどだという。
元々冒険者の町でもあったヴィフだが、異変の際に滞在していた冒険者たちのほとんどが去っていった。更に異変後の狩りやトラブルの中で命を落とした者が少なからず存在すると、サイカッドが悲痛な面持ちで語っていた。
少し考えたライカリスが、畑を見渡し、それから町に視線を投げる。
「十分だと思いますよ。無駄な贅沢をする人たちでもないですし」
「そっか」
零れ落ちた安堵の吐息に、ライカリスがリコリスを見下ろしてきた。
最初の頃ほど筋肉痛は酷くないが、それでも使いすぎて小刻みに震えているリコリスの右手を掬い上げて、彼はふわりと微笑んだ。
「お疲れ様です。――それと、力になれなくてすみませんでした」
優しい労いと、その後の謝罪からは心からの申し訳なさが伝わってきて、リコリスは首を振った。
「謝らないでよ」
狩りや、畑の整備にと、町の人々に混ざって動き回っていたのを知っている。この人間嫌いが、だ。
そして夜には精神的に疲弊しながら、それでもリコリスを気遣ってくれた。それがどれだけありがたかったか。
「色々手伝ってくれたでしょ? 嬉しかったし……」
しかし、続けようとした「ライカもお疲れ」の一言は、声にならなかった。
「え」
ライカリスが持ち上げたリコリスの手に軽く唇を触れていたから。
温もりは指の先、本当に先の部分に一瞬だけ。
驚きと、あまりにも一瞬過ぎたのとで、うっかり反応をし損ねている間に、ライカリスが伏せていた視線を上げる。
それでバッチリ目が合って、リコリスは心の中で悲鳴を上げた。
(またかっ! ゆ、油断したっ)
今日は、今まで大丈夫だったのに!
なんとか声には出さずにいられた。しかし、顔が赤くなってはいないだろうか。少なくとも引き攣ってはいる気がする。
あの朝から、蝙蝠ポーチから吐き出され、酷く落ち込んで眠った翌日から始まったライカリスの奇妙な行動は、その場限定かと思っていたのが甘かった。
最初の頬にキスから今日に至るまで、隙を見てはこうして気まぐれに触れてくる。今のように、リコリスが忘れた頃に繰り返し、繰り返し。
(……どうしていきなり、って、蝙蝠様のせいに決まってるけど)
今もリコリスの腰でニヤニヤと笑っている蝙蝠ポーチの中で、一体何があったのか。問い詰めようにも相手は話せないわけで。
悔し紛れに睨みつければ、例によって死んだフリで誤魔化されること数回。これに関してはもう諦めるしかなかったが。
(でも、でも……)
ライカリスの行動に内心でパニックを起こしながら、それでも、それ以上に気になることが――……。
「――リコさん?」
「えっ」
行き場のない感情を持て余しているリコリスを、ライカリスが不思議そうに見つめていた。
「疲れましたか? サイカッドさんに報告に行く前に、少し休憩していきましょう」
そんなことを言う相棒は、もういつも通りの彼だった。
あんなことをしておいて、リコリスに反応を求めていないように見えるから、何を考えているのか本当に分からない。
思わず掴まれていた手を引けば、簡単に開放されたことに安堵しながら、リコリスはライカリスから目を逸らした。
「ううん。平気だから」
「駄目です。ほら、そこの木陰で何か飲むだけでもいいですから」
今取り戻したばかりの手を再び掴まれて、誘導される。
こういう時の相棒は一歩も引かないのを知っているから、リコリスは抵抗を諦めてそれに従って。そして、半歩先を歩く彼が、こっそりとため息をついたことに気がついた。
(……あぁ、まただ)
リコリスは眉を寄せて、その背を見つめた。
気が緩んだ隙を突くように与えられる戯れな手は、今までにあった抱きついたり抱きつかれたりといったスキンシップとは空気が全く違って、とてもとても気恥ずかしい。
当たり前になっていたライカリスの幸せそうな微笑に、鮮やかに色がついたようで、それはリコリスを酷く落ち着かない気分にさせた。
いくらなんでも、その意味に気がつかないほど鈍くもなければ、子どもでもない。そしてもちろん嫌なはずもない。ないのだが。
しかし、ライカリスがため息をつくのだ。 あるいは、怯え混じりに、不安そうにリコリスを窺う。態度が素っ気なくなる。それは決まって、リコリスに触れた後に。
戸惑うリコリスを優しい目をして眺めているくせに、その後で必ず暗い顔をしていて。
……正直言って嫌々やっているようにしか見えないから、困っているのだ。
(アレだ。罰ゲームみたい)
それに気がついたのはわりとすぐだったが、その瞬間うっかり浮ついていた気分を地に落とされた。
というか、自分で考えて悲しくなった。
畑と町の間に位置する並木の陰に引き込まれ、座るよう促されて、言うと通りにする。
すかさず蝙蝠がコップに入ったジュースを2人分吐き出して、隣に腰を下ろしたライカリスに手渡した。
「ありがとうございます」
「……ん」
ふんわりと微笑んで礼を口にした相棒に、先ほどの憂鬱そうな気配は見つけられない。
少しだけほっとしたが、気分は晴れず。
「どうかしましたか?」
こっそり窺い見ていたつもりだったが、すぐにバレてしまったのか、顔を覗き込まれた。
表情に出しているつもりはないが、この相棒は察しがいいから。
顔を隠すように伏せるついでに、腕にしがみついてみる。肩に近いところに左頬を預け、首を振った。
「何でもなーい」
「本当に?」
「んー……あえて言うならライカの観察?」
「えぇ。何ですか、それ」
くすくすと笑ったライカリスがリコリスの額を小突く。
ああ、こういうやり取りはぜんぜん平気なのに。もどかしい。
せっかくこうしてライカリスと一緒に笑っているのに、心の中がもやもやしているのが嫌だった。
(……無理しないでって、言った方がいいのかなぁ)
しかし、どうすれば上手く伝えられるか、リコリスには分からなかった。
そもそも、それは言っていいことなのか、それすらも。
どうしたものかと悩みに悩んで、結局解決はしないまま、リコリスは目の前の畑を眺めていた。コップの中身が減り、底が見え始めた頃、「おーい」とリコリスたちを呼ぶ、サイカッドの太い声が届くまで。