第39話 1歩進んで1歩下がる
昼食をチラつかされた馬は、目の前にニンジンを吊るされたかのように意気揚々と走り出した。
そして、あっという間に景色は変わり、だだっ広い草原から深い森へ。
ここから先、いくつかの山や川を挟んで続くこの広大な森を抜けるのには、馬で走り続けて5日ほどかかる。
それを考えるとスィエルの町はやはりなかなかの辺境だ。ゲームでも、チュートリアルを終えれば、ほとんどのプレイヤーは戻ってはこなかった。
転移装置が動かない今、こうして走るしかないわけで、それでより一層距離を感じる。
ライカリスとエベーヌが楽しそうにしているのが救いといえば救いであるが。
周囲は、スィエルの森とは色が違った。
頭上を覆う葉の色は濃く、決して暗いわけではないのだが、今までいたところと比べるとやはり若干薄暗い。
というより、どちらかといえば、スィエルの森の方が珍しいタイプかもしれない。こちらの方が、一般的に森と言われて思い浮かべるものに近いだろう。
そんな、ごく普通の森を走ることしばし。前方に道を横切る形で流れる川が見えてきた。
「エベーヌ、止まって」
「ちょうど昼食時ですかね」
川沿いの木々の途切れた空を仰ぎ見て、ライカリスが言う。
それに反応したのはリコリスよりもエベーヌだった。ピクリと跳ねるように動いた黒い耳が、昼食への期待を分かりやすく伝えてくる。
ライカリスに倣って空を見たリコリスは、期待に耳を動かしている馬の頭に視線を移して頷いた。
「そうだね。用意しようか。ライカ、火をお願いしていい?」
「ええ」
川に架かる木製の橋の手前でエベーヌが立ち止まり、その横に岸辺にライカリスが飛び降りた。
手際よく火の準備をするライカリスと、機嫌よく大量のアイビーグラスを貪るエベーヌの隣で、リコリスは腕を組んでため息をついた。
(さて、どうやって調理しよう)
目の前に横たわるアイビーグラスの葉を指先で摘まんで、ひらひらと裏表を確認する。いまいち、調理方法が分からない。
とりあえず一番大きな葉を、ホウレン草と同じように軽く湯がいてみればいいのか。それとも水にさらして生で……?
何か特殊な処理がいるということはないだろうか。
リコリスはそこまで考えて、そこでふと、スィエルの町の人々はこれをどう処理していたのだろうかと思った。
それで視線が自然と、ライカリスの方へ向かう。
これを食べていたと教えてくれたのは相棒だから、調理法も――、
(……いや、知らないかもなぁ)
町の人々とすら距離を置いている上に、あんなにも痩せていたライカリスが、食材の調理方法に頓着していたとは思えない。
料理ができないわけでも、もちろん食べることを厭うわけでもないのだが、どうにも興味が薄いというのか、方向が間違っているというべきか。この困った相棒にとって、料理をするということは実験に等しいようで、『美味しく楽しく』ではなく、自分の知識欲を満たすことに尽力してしまうようだった。
リコリスの作るものに対しては、普段の無頓着さは鳴りを潜め、素直に喜びを見せてくれるのだけれども。
目の前の草から逸れた意識が、ライカリスに視線を向けさせる。
最近は3食しっかり食べさせている甲斐もあって、こけていた頬は適度なラインを取り戻し、顔色もいい。
そのことに満足しながら、リコリスはいつの間にかしげしげとライカリスを眺めていたらしい。
しばらくして、次第に大きくなっている火から視線が上げられた。
「――何でしょう?」
問いかけは苦笑混じりに。
ライカリスが立ち上がって、川べりに座っていたリコリスの隣に腰を下ろした。
相棒は手のつけられていないアイビーグラスをチラリと見てから、伺うようにリコリスの顔を覗き込む。
ガン見していた理由を促されて、リコリスははて何と答えたものかと考えた。
「ん、んー……ライカ、丸くなったよねぇ」
「……。……それは性格のことですか、見た目のことですか」
何やら微妙な、複雑な表情でライカリスが視線を伏せる。考え込むように口元に手が当てられ、声も若干暗い。
だがリコリスは、この相棒が何を気にしているのかを理解した上で、あえて言葉を紡いだ。
「そうだね。両方」
「…………」
「優しくなったし。でも、別に太ったって言ってるわけじゃないからね?」
そう続ければ、目の前の瞳が幾分安堵に和らいだ。
「ならいいんですが……」
「ライカ、そういうの結構気にするよね」
ほう、と息をついているライカリスの頬に、リコリスは手を伸ばす。
元々細身で大きく肉を摘まめるわけではないが、それでもあの異常なほどやつれていた時よりずっと肉付きが良くなっている。
リコリスとしてはそのことは喜ばしいのだが、当のライカリスはそうではないらしい。
常日頃、ぴったりとリコリスにくっついているライカリスだが、それでも毎日の鍛錬は欠かさない。
頬を撫で、それからその胸元に軽く手の甲を当てる。
薄いシャツ越しに返ってくる感触は硬く、それでこの男がどれだけ鍛えているのか知れるというものだ。
「見た目だけだとかなり細いよね、鍛えてるからなんだろうけど。もう少し太っても問題ないと思うんだけどな」
「大問題ですよ。それでもし動きが鈍るようなことがあったら、あなたを守れないかもしれない。そんなのは嫌です」
全く予想していなかった回答にリコリスがきょとんと目を瞬かせた。
その間にライカリスは自分の胸元にある彼女の手をとり、引き寄せた指先にそっと唇を触れる。
「リコを守るのは私です。これだけは、絶対に譲りませんから」
視線が絡んで、リコリスは顔を引き攣らせた。
嫌だったからではない。嫌なわけがない。……が、とても照れくさい。
言ってしまえば、いつもリコリスがやっていることと大差ないのかもしれない。普段あれだけのスキンシップをとっておいて何を、とも思う。
だが、やるのとやられるのとでは、やはり大違いだ。
それに、ライカリスがよく見せる縋るような気配もなく、もちろんからかいもない、ただただ真摯な表情が、予想外にリコリスを揺さぶった。
ああ、顔が赤くなってはいないだろうか。
「わ、分かったから。とりあえず手を放そうかっ」
「あれ……、もしかして照れてます?」
ライカリスの口元が嬉しそうに緩む。
その花が咲くような微笑みを直視できず、リコリスはうろうろと視線を彷徨わせ、それからがっくりと項垂れるように頷いた。
もういい。開き直ってしまえ。
「……うん。照れる」
「えっ?」
喜びを伝えていた声が、微妙に揺れる。
「え、えぇと……そんな素直に認められると……」
手を掴まれたまま、リコリスがこっそりと視線を上げれば、ライカリスはそわそわと落ち着かなげに上を見たり、横を見たり。目元もほんのりと赤く染まっていた。
握られた手が熱い。顔も熱い。
(うわ。うわ。もう、何だこれ)
どちらかがからかい、どちらかが恥ずかしがるという構図は今までにもあったが、こんな風に、お互い照れて言葉をなくすというのは初めてかもしれない。
川のせせらぎと、木々が風に揺れる音が場を満たす。
目が合っては逸らしを何度か繰り返して、互いに言葉を探していると、ふと、視界の端でエベーヌが動いた。
夢中でアイビーグラスを食べていたと思ったが、どうやら違ったらしい。
いつの間にやら草の山に鼻面を突っ込んで、ぶるぶると大きく震えている。
その異様な光景にリコリスが思わず目を奪われれば、ライカリスもそれに気がついて彼女の視線を追い――その瞬間。
ばさっと盛大に草を跳ね上げて顔を上げたエベーヌが、強く地面を蹴った。
「?!」
止める暇はもちろん、声をかける暇もない。
蹄の音と、そしてまるで笑っているかのように奇妙に歪んだ嘶きがあっという間に遠のいて、エベーヌは木々の向こうへと姿を消した。
呆然とそれを見送ったリコリスたちは、しばらくしてどちらからともなく顔を見合わせる。
『…………』
何だアレ、とは双方とも口にはしなかった。奇行の原因など想像に難くない。
主人たちの雰囲気に配慮し、ギリギリまで笑いを堪えたが故の、アレだったのだろう。そして、それを容易に理解できるから、より一層微妙な沈黙。
(や、ある意味ありがたい……?)
先ほどの居た堪れないような、擽ったいような空気はもうどこにも残っておらず、綺麗に払拭してくれたエベーヌには感謝すべきなのかもしれない。
リコリスは馬の走り去った方をもう一度見た。
森は静けさを取り戻して、エベーヌの奇声ももう聞こえない。どこまで行ったのだろうか。
幸いこの付近のモンスターは攻撃的でなく、弱かったはずだし、その他危険なものもなかったと記憶しているけれども。
「――落ち着いたら戻ってくると思いますが……ポーンに迎えに行ってもらったらどうでしょう」
「そうだね」
リコリスの心配を読んで、ライカリスが提案する。
それに頷いて、リコリスは20人ほどポーンを喚び出した。
ポーンたちをエベーヌが消えた方向に散らして、無事見つかればいいとそれを見送ってから、同じようにしていた相棒を振り返る。
返される視線の穏やかさと、それを普通に受け止められることに密かに安堵しながら、リコリスは「さて」と声を上げた。
「とりあえず、お昼の用意しようか」
「そうですね。……ああ、火が」
放っておいたために勢いをなくしている焚き火に、ライカリスが慌てて駆け寄っていく。
そちらは任せつつ、リコリスは再びアイビーグラスと向き合った。
よくよく考えてみれば何も進展していないことにため息をつきつつ、彼女はアイビーグラスの大きな葉を一枚引き千切った。