第38話 最弱モンスターが現れた!
スィエルの町周辺を囲む森を早足に抜けたエベーヌは、視界が開け、障害物も何もなく風の吹き抜ける草原に入ったあたりから、その速さを更に増した。
軽快に走る馬の背で、汗を吹き飛ばしてくれる風が気持ちいい。リコリスは僅かに目を細める。
それにしても、この見渡す限りの草原は、マップとしては知っていたが、実際目にすると圧巻だった。
ゲームでは初期も初期、スィエルの町の戦闘チュートリアルでレベル5程度までお世話になったこの草原。遥か彼方に山が霞んで見えるが、進行方向には目立つものは何もない。草や、所々咲いている小さな花が、柔らかく風に揺れるだけだ。
このままもう少し走ればまた森に入るはずなのだが、まだ見えてはこない。
(そういえば、ここのモンスターってどこ行ったかな)
目立つものがない。つまりモンスターもいない。
ここには、にょろっとした見た目の植物系モンスターが生息していたはずなのに。ライカリスはこの草原までモンスターを駆除していたのだろうか。
しかし最近この相棒はいつもリコリスと一緒にいるし、それ以前の駆除が今日まで影響しているとも思えない。
はて? と内心首を傾げたリコリスが特に意味もなく視線を彷徨わせると、不意に視界の端で何かが動いた。
「あ」
草に覆われた地面から、ぴょこんと飛び出したソレが揺れ――否、蠢いているのを見て、リコリスは思わず声を漏らした。
その声に反応したエベーヌが速度を緩め、やがて立ち止まる。
ライカリスが彼女の視線を追うと、そこには人の顔より一回り大きいという周囲の草と比べてあまりにも不自然な葉が2枚、地面から直に生えていた。
「ああ、アイビーグラスですね」
ライカリスの声に、緊張感はない。確かに高くてもレベル3の、しかも自分から襲ってこない草相手に緊張などしようもないのだが。
その奇妙に揺れる葉は、今まさにリコリスが思い浮かべていたモンスターの、人間で言う手に当たる。
2人と1頭が見つめる先で、その葉は地面に先っちょを突き、何やら踏ん張る動作をしていた。
「食べ物が減ってから、この辺りのアイビーグラスはほとんどスィエルの町の人が食べてしまったんですよ。野菜代わりに。それからあまり見なくなっていたんですが……また生えてきましたね」
「生え……」
(ああ、あれって生えてきてるんだ……)
奇妙な生え方もあったものである。
踏ん張っている葉を眺めていると、しばらくしてずぼっと地面から風船大の丸いものが引っこ抜かれた。
最初に生えてきた2枚の葉と、その真ん中から伸びる細く長い茎、その先についている丸い……顔。目も耳も鼻もないが、球体を半分に割ったような形の口がある。その縁にはギザギザとした歯らしきもの。
勢い余ってフラフラしていた頭が安定すると、最後に葉の下から2本、短い根が持ち上がった。ちょこちょこと小刻みに動く、あの根は足。
リコリスの記憶にある弱小モンスター、アイビーグラスそのものが出来上がった。
(お、面白可愛い)
しかし、そうか。あんな風に生えてくるのか。
本来は討伐対象のはずのモンスターの誕生を、リコリスはいつの間にか和み半分感動半分で眺めてしまっていた。まぁ、動きが無駄にコミカルだから仕方ないと思うことにして。
しばし夢中になっていたリコリスだったが、そこでふと先ほどのライカリスの言葉が思い返された。
「……あれ、食べられるものなの?」
「そうですねぇ。味はホウレン草に似ていましたよ」
「へぇ……意外」
生きて動き回っている草が、よく知った野菜と近いとは。
(ってことは、おひたし、胡麻和え、バターソテー、キッシュ……乳製品とも相性いいしなぁ)
ホウレン草として扱えるなら……。
アイビーグラスをじっと見つめながら、リコリスの頭の中をレシピがよぎっていく。
と、視線の先のアイビーグラスがびくりと体を揺らして、そろ~……っとリコリスを振り返った。
見すぎただろうかと首を捻った彼女に、ライカリスが苦笑する。
「……リコさん、殺気。捕食者の目になってますよ」
「えっ?!」
いつの間にそんなものが漏れていたのだろう。
「何というか……食べる気満々、みたいな」
「……」
うっかり草の調理方法に熱中してしまったリコリスは、それは殺気というよりむしろ食い気ではないかと、微妙な気分で頬を掻いた。
そして、そんな殺気なのか食欲なのか判断の難しい空気にさらされたアイビーグラスは、身を隠す場所などない草原で、それでもこそこそと逃亡を謀っている。
しかしどうにも遅いので、多少逃げられてもすぐに捕獲できそうだった。
「あれってさ、日当たりのいい場所を柵で囲って、いい土といい水といい肥料で育てたら、質良くなったりしないかな」
ひょっこひょっこと頭を左右に振りながら、短い足で遠退いていく草を目で追いながら、リコリスがポツリと零した。
唐突な言葉に、ライカリスが眉を上げる。
「育てる気ですか?」
「うーん、どうだろう」
色々と難しいだろうが、不可能ではない、かもしれない。
戦闘チュートリアルで、無害だがとにかく増えすぎるモンスターであるアイビーグラスを狩るクエストがあった。そしてその狩りの証拠として、種を持ち帰り報告したのだ。
つまりアイビーグラスは種が採れて、増やしやすく、栄養価は謎だが、味はホウレン草。
この草原だけでなくどの土地でも育成可能なら、いない牧場主の作物に期待するよりよほど建設的ではないだろうか。
この見た目で、しかもモンスターなので嫌がる人間は当然いるとしても、気にしない者にはいい食材になる……かもしれない。
「ヴィフの町周辺にはいなかったよね」
「そうですね。あの周囲もここと同じような草原でしたが……間に森を挟んでいますから。アイビーグラスは日当たりのいい場所を好みますし、森を越えることはないですね。種も重くて風では飛びません」
「向こうでも育つと思う?」
意外と詳しそうなライカリスに、リコリスは更に問いを重ねた。
もう大分遠くまで逃げた草は順調に食材に近づいている。
「森さえなければ、向こうにも繁殖していたでしょう。――で、育てるんですか?」
「んー……」
なかなかいい食材にはなりそうだが、飼育するならその都市での許可が要る。
たとえばスィエルの町の人々なら、リコリスが提案すれば受け入れてくれる可能性は高い。だが、他の場所では……そのあたりはリコリスにも判断ができなかった。
――それに。
「今ちょっと、考えてることがあって」
ヴィフの町に着いたら、やってみたいことがあった。
例によって上手くいく可能性は低いが、それはもうこの世界の生活からして手探りなので仕方がないと諦めるとして。
「成功しなさそうだけど、試してみようと思ってることがあるのよね。だから、それ次第」
「へぇ?」
「別に何か特別なことするわけじゃないし、別行動とかもないんだけどね。でもちょっと確認を……とりあえずヴィフに着いたら詳しく説明するよ」
肩越しに振り返ってみれば、ライカリスは興味深そうに目を瞬かせている。
そんな期待に満ちた目で見られても……今回は特に失敗しそうで、成功したらしたで、地味な作業が待っているのだが。
リコリスの心情を知らない相棒は、楽しそうに首を傾げた。
「では、アイビーグラスの種はどうしましょうか?」
「ああ、うん。ちょっと採っていこっか」
(非常食だし)
緩やかな起伏の草原は、リコリスたちが足を止めている間に随分賑やかになりつつあった。そこかしこに、大きな2枚セットの葉が揺れて、あるいは踏ん張っている。
リコリスがこの世界にやって来る以前に狩られたアイビーグラスの落とした種が、今ちょうど芽吹くタイミングだったらしい。
単体だと何度見ても可愛いが、見渡す限りの光景になると若干不気味だった。
「じゃあ適当に……」
あまり狩りすぎても、また生えてくるのに時間がかかってしまうだろうから、適度に数匹狩るに留めよう。味を見るための本体と、念のための種と。
召喚したポーン数体が逃げ回れていないアイビーグラスを捕らえるのを、リコリスたちは馬上から眺めていた。
そうこうしているうちに、リコリスの前――正確にはエベーヌの前に、力尽きたアイビーグラスが積み上がる。
それを見下ろし、馬はおもむろに頭を下げた。
「あ」
もっしゃもっしゃと草を1匹頬張った馬は、首だけで動向を見守る主人を振り返り、ニヤリと笑った。口の端を上げて、確かに笑ったのだ。
「……美味しいのね」
返事は元気のいい嘶き。
この草が大層気に入った様子のエベーヌに、ライカリスが低く笑う。
「牧場で飼育してもいいんじゃないですか? 餌用にでも」
「そうだねぇ」
しかも自分たちが食べてもよし、と。
戻ったら是非検討してみよう。
「――ん?」
口元に手を当てて考えるリコリスを、エベーヌのつぶらな瞳が真っ直ぐに見つめてきた。気がついて見返せば、その真っ黒な目が分かりやすく輝いている。
これにはリコリスもライカリスも苦笑するしかない。
「もう少し進んだらお昼休憩するから、その時にしなさい。夕飯にもしていいから」
「ポーン、もう少し獲ってきてもらえませんか。エベーヌが食べるなら、足りないかもしれません」
妖精たちは基本的に、主人の意に背かない範囲ならば誰にでも素直である。特にライカリスに対しては、リコリスの感情を反映しているのか、とても従順だった。
ライカリスの依頼に、待機していたポーンたちが軽く頷いて踵を返す。
遠ざかる背に、リコリスは採れた種はできるだけ蒔いておくようにと念を飛ばし、それから獲れたてのアイビーグラスを蝙蝠の中に収めた。
「さ、進もう。水場まで行ったらお昼にするから」
前方に広がる森の中に流れている小川を思い浮かべながら、リコリスは心なしかがっかりしているエベーヌの首を軽く叩いた。