第35話 天に昇る迎えの炎と、彼の祈り
「――だって……、だって僕は……ユーフィに会いたくて、今まで……」
カリステモンの呟きは、穏やかな風の音にすら負けそうな、小さなものだった。
「ユーフィ……」
虚ろな視線が、サマンの家の、ユーフォルビアの部屋だった場所に向かう。
泣くことのできない幽霊が囁いた愛しい名には、深い深い悲しみがあった。涙として形は持たずとも、泣き叫ぶような慟哭ではなくても。
誰もいない森の中、朽ちようとする自分であったものの隣で、55年という歳月を1人。
孤独の中でゆっくりと、しかし再会を願い、焦る心には無情に過ぎていく年月を、ただただ会いたいという切望だけで数え過ごし、絶望することすら拒絶して待ち続けて。
そうしてリコリスたちが現れたのが、人の時間の範囲内であればこそ、彼は希望を見出し、歓喜した。これで帰れる。会えるに違いない、と。
その男に突きつけた真実は、胸を締め付けるような痛みを伴って、リコリスは息苦しささえ覚えた。だがそんな自分の痛みなど、この幽霊の絶望と比べればどれほど些細なことだろう。
カリステモンは小さく小さく恋人を呼んだきり、口を開かない。
意志だけで存在していた幽霊が悄然と恋人の名残を求める姿は、本当に消え入りそうに見えて、リコリスは拳を握り締めた。ぐっと腹に力を込め、呼吸を忘れさせた胸の痛みを捻じ伏せる。
ここで消えてもらっては、本当に意味がなくなってしまう。この男が過ごした55年を、無駄になどしたくない。
これ以上「待って」と言うのは心苦しいことこの上ないが――それでも、まだ。もう少しだけ。
「――カリステモン」
強く力を込めて呼ばれた名前に、カリステモンの瞳がようやく動く。
ほんの少し前の明るい表情がどこにもないその顔を、リコリスは見上げた。
「ごめんね。今まで言えなくて……本当にごめん」
「……ううん」
のろのろと首を振り、カリステモンは力なく微笑んだ。「こちらこそ」と。
「謝るのは僕の方だよ。無駄なことに付き合わせてしまったね」
もう、どうしたって間に合わなかったのに。
その微笑が切なくて、リコリスは慌てて首を横に振る。悲しいを言葉を否定するために。
「無駄じゃない。無駄だと思ったら、こんなことしなかったよ」
そう。本当に欠片の希望もないなら、カリステモンを傷つけてまで、こんなことはしなかった。
リコリスは必死で言い募る。
「カリステモン、私たちと会った時、運命だって言ったでしょ。私も同じことを考えたの。あのタイミングで、スィエルの町の牧場主である私が、あんたを見つけたから」
雪の華を咲かせる手段をもち、そしてユーフォルビアのことを知っているリコリスが、星河祭の目前にカリステモンと出会った。その、まるで必然のような出会いに、希望を見出したのはカリステモンだけではない。
だから、無理をしてでも、季節外れの花を咲かせた。必要だと思ったから。
「ねぇ。今夜から、星河祭が始まるんだよ」
リコリスの言わんとすることを悟って、サマンがはっと表情を動かした。
「リコリス……君はそれで」
「もう、これしか方法がなくて……。でも、どうしても諦めたくなかったんです」
「……そうか。姉さんを看取ってくれたのは、リコリスだったね」
リコリスは頷いて、カリステモンの瞳を真っ直ぐに見つめる。
記憶に残るユーフォルビアの最期。それを伝えられるのは、リコリスだけだ。
「あのね、カリステモン。ユーフィ婆様は最期……ずっとあんたのことばっかり話してたよ。何度も何度も謝って、泣いてた」
雪の華を採ってくると高らかに宣言し、そのまま戻ってこなかった恋人。どれだけ探しても、その行方はネージュ・エテルネルの山に向かったというところで途切れ、その先は終ぞ不明のまま――その意味するところは。
諦め、死んでしまいたいほどの後悔に苛まれながら、それでも、もし……と。そう思ってしまうが故に、どうしても自ら命を絶つことができずに生きたユーフォルビアだったが、老い衰えた体はやがて病に負けてしまった。その病もきっと、罪の意識の表れだったのだと、リコリスは思う。
そうして、ずっと恋人に謝りながら死んでいった。
「願えば叶うなんておめでたいことは言わないけど……でも、カリステモンはユーフィ婆様のために、その姿になって、55年も待ったんでしょう。なら、ユーフィ婆様だって」
彼女の想いが、カリステモンのそれに劣るとは思わない。想いの強さが今のカリステモンを作ったのなら、リコリスの考えていることも、可能性はゼロではないはずだ。
「ユーフィ婆様、戻ってきてくれると思うんだ。星河祭、だから」
確かに、起こるか分からない奇跡に縋るだけで、全て無駄になる可能性の方が高いのかもしれない。でも、それを嘆くのは、それこそ全て終わってからでいいではないか。奇跡に縋って何が悪い。
リコリスが懸命に言葉を重ねれば、今にも消えてしまうかと思わせた幽霊の虚ろな瞳に、少しだけ絶望以外の感情が灯った。
カリステモンはリコリスを見、ライカリスとサマンの表情を見てから、またリコリスに視線を戻す。そして、未だ残る絶望と、恐る恐るの希望が複雑に入り混じった顔で、ようよう口を開いた。
「――ユーフィ、本当に戻ってきてくれるかな。まだ、僕に会いたいと思ってくれてるかな……?」
「会いたいに決まってるでしょ! そこは信じなよ」
「姉さんが義兄さんに最期まで会いたがっていたのは、事情を知る町の人間なら皆知っていることですよ」
「幽霊というだけで辛気臭いのに、そんな暗い顔をして……本番までに、うっかり消えないでくださいよ?」
口々に励まされ、カリステモンはまた泣きそうな顔で口を引き結んだが、それは先ほどの悲しいだけの表情とは違う。俯き、それから上げられた視線は、普段の彼を取り戻しつつあった。
「うん。……そうだよね。僕が信じないと」
薄らいでいた気配が戻ってくる。
完全復活とはいかないまでも、これならば大丈夫だと、リコリスはほっと息をついた。
「じゃあ、これから広場にでも行こっか。カリステモンを皆に会わせたいし、迎え火の手伝いもあるしね」
迎え火は星河祭の始まりを示す巨大な焚き火で、日本で行っていたお盆の迎え火と同じ意味がある。つまり、先祖の霊をお迎えするための合図だ。今頃、広場で男たちが薪を組み上げて準備をしているはず。
だから、そこに乱入して、ルークを喚んでその手伝いをしよう。きっと誰も反対などしないから。
大きな大きな迎え火にするのだ。ユーフォルビアに、見えるように。
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この世界の各町、各都市には、必ず広場が存在する。何かのイベントの際にはそこがお祭会場となるからで、それはスィエルの町も例外ではない。
かなりの広さがあるその場所には今、例年の倍はあろうかという高さに薪が組まれていた。それを囲むように、しかし飛び火しないようかなりの距離をとって揺れる十数本の笹には、リコリスが提供した沢山の御霊石が静かに光を放っている。
既に日は傾いて、もうすぐ星の輝き始める時間となった。
町の住人たちが集まり、組まれた薪を囲んで点火の時を待っている。そのときが近づくにつれ、緊張が高まっているのは、彼らの頭上に浮いて空を見上げている幽霊のためだった。
縋るように夕刻の空を見上げる彼が、何故、そして何を望んでここにいるのか。住人たちは知っている。だから生前の彼を記憶している者も、そうでない者も、皆一様に祈るような表情で空を見ている。
リコリスの牧場の従業員たちも全員その中で、彼らの師が望んだ結果が訪れるよう、必死で願っていた。
その輪から少し外れた位置に、リコリスはライカリスと2人並んで立っている。
視線は真っ直ぐ広場の中央へ。緊張のあまり震えそうになる膝は、隣の相棒のシャツの袖を掴むことでどうにか支えられていた。
(ユーフィ婆様…)
散々自信たっぷりなことを言ったリコリスだが、決して嘘ではないその気持ちと同じくらいに不安がある。こればかりは、もうどうしようもない。
だが、そんな不安も、カリステモンの心情と比べたら。
袖を掴んで震える指先を、ライカリスがそっと外し、握り込む。見上げれば、彼の顔に浮かぶ表情も切なく、眉が顰められていた。言葉なくリコリスに頷いて、それからカリステモンへと移された視線は、緊張と苦しげな何かを孕んで。
リコリスも促されるように、宙に浮く彼へと視線を戻した。
日が落ち、今夜は灯されることのない街灯が薄闇に紛れると、御霊石の微かな光が周囲を薄く浮かび上がらせる。
人々が息を潜める中、サマンが薪の方へと進み出、そして。薪の一番下に火が灯ると、彼はまたもとの位置に戻っていった。
そうして最初は小さな火が、次第に大きく、橙がうねるように薪を飲み込みながら、高く昇っていく。誰ひとり言葉を発しないその場に、薪の爆ぜる音が響き、笹の葉の揺れ擦れる音がささやかに、しかし幾重にも添えられた。
力強く熱気を伝える炎に照らされながら、人々は祈る。いつもならば、各々の先祖に。今は、彼らの仲間の幽霊のために。
盛大に上がる炎が告げるのは祭の始まり。それは戻ってくる者たちへの合図。
やがて、笹に飾られた沢山の御霊石に変化が訪れた。仄かな光が、ひとつふたつと闇を照らす輝きへと移り、不思議な空気がその場を包む。
その光景は、ゲームで見たものよりもずっと、否、比べるのも愚かしいほどに美しいと、リコリスは思った。荘厳で、それなのにどこか胸を突くほどに懐かしい。
明るさを増した広場を見下ろし、それからもう一度星空を見上げたカリステモンが、そこで口を開いた。
「――ユーフィ」
決して大きな声ではないが、求め、縋る響きが場を支配する。
「ユーフィ、僕、帰ってきたよ。とても長いこと待たせてしまったけど……」
泣きそうな声で、泣きそうな顔をして、カリステモンは呼び続ける。
輝く御霊石を見回して、彼はそのいずれかに恋人の気配を探した。
「お願いだよ、ユーフィ。戻ってきて」
悲痛な響きを受けてか、不意にいくつかの石が微かに点滅を始める。常にはないことなのだろう。人々が驚き、ざわめいた。
まるでカリステモンを励ますかのようなそれは、次第に広がり、光の波を作り出して。その中で、青白く透き通った幽霊は首を巡らせ、必死に言い募る。
「会いたいよ……会いたいんだ……っ、ユーフィ……ッ」
その声に胸を締め付けられながら、それでもリコリスは考える。
「……」
不思議な光の波は、カリステモンの力によるものだろうか。それとも、もしかして本当に戻ってきた者たちが見せているものだとしたら?
彼女はそれぞれ色の違う光を見回し、確認に視線を彷徨わせる。
(……もしかして)
リコリスはユーフォルビアを思い出しながら、彼女を連想させる輝きを探す。厳しくも、優しかった人。張り詰めた空気の中に、弱さを隠していたあの人を。
1本1本の笹を辿り、5本目を見つめた時、彼女は思わず声を漏らした。
「……あ」
溢れる光が葉の下に影を作る。葉が風に揺れ、その下に見えた控えめで優しい……、
――銀色。
「カリステモン! あれ……!」
「!」
リコリスは声を上げ、今見つけたものを必死で指差す。
揺らぎかけていたカリステモンの視線が、リコリスの指の先を追って……それから彼は息を詰め、弾かれたように動いた。
その笹まで一飛びに身を寄せ、手を伸ばす。透ける手は笹を払うことができず、銀の光は葉の下に隠れたままだったが、それでも包むように手を沿わせた御霊石に、カリステモンはそっと顔を寄せた。
「……ユーフィ」
確信めいた響きをもって、愛しげに唇が掠めて。
固唾を呑んで見守る視線に晒され、銀色が恥らうように弱まると、カリステモンは更に重ねて名を呼んだ。それから、何度も何度も。切なさの中に、甘やかな響きを含んだ声で。
「……お願い」
最後の一押しに、銀色の光が明滅する。温度のない石が、まるで生きているかのように、諦めのため息をついたように感じた。
小さくなった光が、一瞬の後、カリステモンの手の中でその輝きを強くする。目を刺すような強さのそれは、数日前、カリステモンがリコリスたちの前に姿を現した時のものとよく似た、あたりを真っ白に照らす光だった。
人々が思わず目を庇い、そうして眩い白が治まったのを確認しつつ、そっと顔を上げると、彼らの前に人影が増えていた。
カリステモンの手を何故か避けるように立ったその女性。その厳格な雰囲気は、町の住人たちがよく見知って、そして今では懐かしいと感じる面差しだった。カリステモンと同じく青白く透けていることを除けば、3年前に亡くなる前の姿。
「――ユーフィ!」
老女を見て顔を輝かせたカリステモンが、視線の鋭さなど気にもしないで、感極まったように彼女の名を叫ぶ。老いてからの顔など知りもしないはずなのに、それでもその声に迷いはなかった。
「会いたかった! 僕の最愛の人!」
「……っ」
しかし、伸ばされた手から、ユーフォルビアは逃れるように距離をとった。
きつく寄せられた眉が表情を険しく見せ、何かを言おうと唇が震えては噛み締められる。
カリステモンはその距離を悲しげに見つめ、それからおもむろに片膝を落とした。
「こんなに遅くなってしまって、どれだけ責められても仕方がないと思っているよ」
ひたと恋人を見つめ、切々と訴える。
「許してほしいなんて、僕に言う資格はないのかもしれないけれど……」
無数の光に包まれながら、半透明の男が空中で片膝をつき、同じく宙に立つ女に真摯に許しを請う。この世のものとも思えない――むしろ半分以上あの世のものだが、それでも物語のように美しい光景だった。
苦しげに顔を歪めるユーフォルビアに、カリステモンは片手を差し出す。
「それでも、会いたかったんだ。ユーフィ――愛してる」
離れていた時間も、今再会してからも、変わらず。カリステモンは真っ直ぐに告げた。
対して、ユーフォルビアの表情は更に歪められ、何かを言いたげに、しかし言いにくそうに口を開閉し。そして結局出てきた言葉は、
「――べ、別に、来たくて来たわけではないわ! あなたが呼ぶから仕方なくよっ」
……だった。
住民たちが目を丸くする中、ただリコリスとサマンだけがこの言葉を予測していたらしく、密かに苦笑いを交わしあう。サマンは弟故に、リコリスは親しくしていたから知っている。誤解されやすい、損な性格だったことを。
厳しくも優しい婦人であったことは町の人間には周知だが、何かの折に追い詰められると、感情と台詞が一致しなくなるのだ。まさか、この場面でそれが発揮されるとは思わなかったが。
(……それにしても、私といた時はもう少し素直だったような)
そして、もう少し落ち着いていたような。
見た目はリコリスの知るユーフォルビアそのものなのに、言動がやや幼いように感じた。やはり、カリステモンの前で、そして彼が昔のままに接してくれるからか。
これが55年ぶりの再会の混乱によるものでなく、元々こんなやり取りであったのなら、2人がここまですれ違ったのも頷ける気がした。
(ユーフィ婆様頑張れ! 素直になるんだっ! 謝りたいって、言ってたでしょーっ)
思わずリコリスは心の中で応援する。
果たして、そんな声援を送られたユーフォルビアは腰に手を当て、ぽかんと口を開けているカリステモンを見下ろした。
「大体ね、どうしてあなたが謝るの? そうやって、いつもいつも……」
責める言葉と、泣きそうな表情が噛み合わない。
「……わ、私だって、謝り……たい、と思って」
次第に声が小さくなって、その場の全員が耳を澄ませる。
55年ぶりの再会という切なさと、不安とが過ぎ去って、今ここにいるのは町ひとつ分の野次馬だった。
驚いた顔でユーフォルビアの言葉を聞いていたカリステモンだったが、その声が途切れた瞬間立ち上がる。そして、必死で言葉を探していたユーフォルビアが身構える前に、一気に距離を詰めて、彼女の手を掴んだ。
なるほど、幽霊同士ならば触れ合えるらしい……と、どうでもいい発見が見物人の頭をよぎる……暇もなく。
――カリステモンが、恋人の唇を奪った。
「……っ!!」
ユーフォルビアの腰と頭とをしっかりと捕まえて、恋人の抵抗も、色めき立つ周囲の目も意に介さず、カリステモンのキスは――……。
……。
…………。
(な、長い、長い……っ)
驚きから容認へ、容認から呆れへ。更にそこから照れへと移行して、リコリスは耐えられなくなって顔を俯けた。顔が熱い。
そっと周囲に目を配れば、苦笑いしつつ、子どもの目を塞いでいる大人たちが見えた。
そうして好き放題に堪能して、やっと顔を上げたカリステモンは、死んでいるくせに妙に生き生きと笑って、ユーフォルビアを抱きしめた。
長いキスの余韻で硬直していたユーフォルビアだったが、ふとぼんやりとした瞳が動く。彷徨った視線は、2人よりも低い位置から、じっと見物している住人たちに向けられ、途端彼女の顔が盛大に引き攣った。どうやら豪快な見世物になっていたことに今更気がついたらしい。
「――ッ!!」
恋人の腕の中で声にならない悲鳴をあげると、その姿がふ……と宙に溶けて、掻き消えた。
「ユーフィ?!」
焦りを浮かべたカリステモンが、ユーフォルビアの依り代となった御霊石を見る。と、石は宿った魂の混乱を示すかのように瞬いており、この場から去ってしまったわけではない、と彼は表情を緩めた。
さて、ここからどうしようか。そんな空気が流れると同時に、ぱんぱんと手が打ち鳴らされた。注目を集めたサマンは住民たちの前に進み出て、それまでの展開など気にもしていないような、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。
「さて。お迎えも無事終わったことだし、何より喜ばしいことに、我々の仲間の幸福も見届けられた。ここから先は……2人の時間にしてあげたいと思うのだが、どうだろうね。皆」
微笑みと共に告げられ、町民たちが顔を見合わせる。それは不満の訴えでなく、相談ですらなく、単なる意思確認だった。頷きあった彼らは、彼らの町長の言葉に従ってすぐに動き出す。
「頑張れよ、カリス!」
「おめでとう! 仲直り、頑張ってねっ」
「優しくしてあげるのよ? いいわね?」
去り際、各々がカリステモンに声援や祝福を投げかける。目の前で繰り広げられたラブシーンに、名残惜しそうにしている子どもたちには、その親たちが星飴の存在を仄めかして気を引いていた。
祭り開始前の緊張と静寂から一転した大勢の明るい笑い声が、広場から四方へ散っていって、最後に残ったのは途方に暮れた顔のカリステモンと、リコリス、ライカリス、サマン、そしてエフススとなった。
エフススが残っているのは、彼が今年の迎え火の後始末当番だからだ。
「それじゃ、俺は隅の方にいるからな。終わったら一声かけてくれ」
「ああ、私も行こう」
苦笑いして頬を掻いたエフススは、言葉の通りに焚き火の向こう側へ歩いていく。サマンもそれに倣い、去り際、そっとリコリスに目配せをしていった。「よろしく頼むよ」と。
それを見送って、残った2人と1人半。
チラリとカリステモンを見遣ったリコリスが、ユーフォルビアの石の前に立った。
「ユーフィ婆様、お久しぶりです」
あるかどうか分からない返事は待たず、腰の蝙蝠に手をやれば、出てくる望みの物。リコリスの手の上に、雪の華と、カリステモンの御霊石が乗る。
柔らかい光を受けてキラキラと輝く雪の華を差し出して、リコリスは微笑んだ。
「見えますか? カリステモンが採ってきたものです」
「……咲かせてくれたのはこのレディなんだけどね。僕が採ってきたのは種だけ」
自己申告する正直者に、リコリスは首を振る。
「種だけでも、採ってきたのはカリステモンでしょ」
「……ネージュ・エテルネルは熟練の冒険者でも危険な場所です。結果としては死んだとはいえ、それでもこの人は確かにやり遂げましたよ。そうでなければ、今ここにこの花はありませんから」
ライカリスも言葉を添える。感情の篭らない声は不機嫌そうにも聞こえたが、内容は間違いなくカリステモンの擁護だった。
「――ユーフィ婆様」
リコリスはそっと呼びかける。ユーフォルビアの性格を考慮して、出てきてほしいとか、そんな要求は一切口にはしない。ただ言外に、お願いの気持ちを添えるだけ。
カリステモンに言われればまた反発もあったのだろうが、若い2人、特に親交のあったリコリスに頼み込まれると、一瞬迷うように石が光る。
「…………」
再び姿を現したユーフォルビアは、気まずそうな、居た堪れないような顔をしていた。リコリスと目が合うと、彼女は更に肩を落とす。
「大変なところを見せてしまったわね……」
「いえ……また会えて嬉しいです」
言葉を濁したのは、先ほどの光景がリコリスにとっても気恥ずかしいものだからだ。あえて突きたくはない。
気を取り直して、リコリスはユーフォルビアを見上げた。
「――ユーフィ婆様、今、幸せですか?」
直接、はっきりと答えてくれなくてもいい。ただ、亡くなる前の彼女の嘆きが消えていることを、確認したかった。あの悲しい姿が、なくなっていればいいと。
そんな真っ直ぐな視線に、問われた方は取り乱すこともできずに苦笑する。
「ずるい子ね、リコリス。でも……ありがとう」
その微笑に、リコリスは望んだものを見つけた。
胸の辺りが苦しくなって、しかしそれは少し前までの悲しい痛みとは違う。
「……よかった」
心から呟いた。泣きたいほどに嬉しい。そう思えて、それ以上の言葉は出なかった。
俯いていては涙が零れそうで、リコリスは慌てて首を振る。
ユーフォルビアの横を通り過ぎ、彼女の石の飾られている笹の前に立った。そして手元の御霊石と雪の華を見て、笹を見上げ……困ったように振り向く。
「……ライカ」
「はい」
返事はすぐ真後ろで聞こえ、間を空けずリコリスの体が浮き上がった。肩と水平にされたライカリスの腕に座らされて、彼女は求める高さを得、手を伸ばす。
笹に飾れるよう紐をつけておいたカリステモンの御霊石をユーフォルビアの石の隣に、雪の華をそのすぐ近くに括りつけて、満足げに笑った。
はらはらと散る真夏の雪が、御霊石の光を反射する。
リコリスの手元を離れた花は近く、枯れてしまうだろう。恐らく、星河祭の終わりの頃に。
だからこそ、この場所がふさわしい。
「ありがと、ライカ」
「いいえ。――とても綺麗です」
とん、と地面に降りて、リコリスは改めて2人の幽霊に向き合った。うっかりすると泣いてしまいそうな心を押し隠して、明るく笑う。
「では、私の役目はこれまでで。もういい時間だし、帰りますね?」
そこまでは普段通りの口調で、それからふと、ユーフォルビアに手招きをする。顔を寄せてきた彼女の耳元に、内緒の話をこそこそと。
「――……って、ことで」
「……それはちょっと……」
「少しだけですから」
渋い顔のユーフォルビアにくすくす笑って。リコリスは身を翻した。その時にカリステモンの顔を見て、口の動きだけで「ガンバレ」と伝えて。
「行こう、ライカ」
「ええ」
とりあえず焚き火の向こう側で待っているサマンたちに挨拶をしていこう。
そうして炎を大きく回りこんだあたりで、ユーフォルビアの高い声が聞こえてきた。
「あ、あなたのそういうところが大嫌いだわ! いつも……いつだって、私の言いたいことを全部先に……!」
「あはは。大丈夫だよ! それで全部伝わったから! ――あぁ、幸せだなぁ。僕もう死んでもいい」
「とっくに死んでいるでしょう?!」
……幸せそうで、何よりだ。
■□■□■□■□
牧場に帰ってきた時、当初決めていた通りに弟子たちは今日はもう帰宅していて、妖精たちはまだ家の外で走り回っている。作業でなく、鬼ごっこに興じているようだった。
ぱたん、と背後で静かに家の扉が閉まり、一瞬の静寂。
扉を閉めたライカリスを振り返って、リコリスはその顔を覗き込んだ。
「……何か?」
戸惑い気味な問いに構わず、リコリスはいつかやったように、ライカリスの腰にしがみつく。ぐりぐりと彼の胸元に頭を押し付けてから、そっと見上げて。
「……泣きそうな顔してる」
指摘に、一瞬だけ視線が逸らされ、しかしすぐに取り繕われた微笑が戻った。少しだけ意地の悪い微笑みで、ライカリスの指がリコリスの目元に触れる。
「リコさんが?」
「……そうだね」
否定はしない。
「人前で泣くの嫌いだから、我慢したよ。ライカの前でならいいんだけど。でも……」
リコリスも同じように手を伸ばして、ライカリスの頬を撫でた。そして首を傾げる。
「私が泣きそうなのと、ライカが泣きそうなのは、違う理由でしょ?」
カリステモンとユーフォルビアが再会しても、ライカリスの瞳の中の切ない色は消えない。
今、リコリスが泣くならばそれは嬉し泣きだが、ライカリスはそうではないのだ。
「――ごめん。いっつも不安にさせる」
「……っ」
仮面のような微笑みが崩れ、そして強く強く掻き抱かれた。柔らかな髪が首筋にさらさらと触れる。
その髪を梳いて、リコリスは吐息を漏らした。
「すみません……思い出して、しまって」
あなたがいなかった2年間を。
掠れた声が、そう告げた。
「私は、カリステモンさんのように強くないから。怖いです。怖い……」
リコリスは何も言わず、ただ震える背を撫でる。
「あなたと出会う前はもう思い出せないんです。どうやって生きていたのか、忘れてしまった。なのに……なのに、あなたは消えて」
「……ごめん」
それ以外に何が言えよう。
2年前のことをリコリスは知らない。何があったのか。それでも、こうしてこの男を絶望の縁に突き落としたことが辛かった。今回カリステモンに関わって、改めて痛感する。
「あんなのはもう嫌です。嫌なんです……っ。もう、どこにも行かないで、リコ……あなたがいないと、息もできない……っ」
(ああ、また……)
この縋る声に応えられない。
よくある物語のように、もう戻れないのだと誰かが宣言してくれればいいのに。
この男を安心させてあげられるなら、例えば勇者になって魔王と戦えと言われても、その通りにするのに。
実際はそんなことは欠片もなく、リコリスはただ途方に暮れる。
震えの止まらない背を撫で、強くしがみついて、唇を噛み締めた。
(私だって、怖い)
ライカリスを置いていくかもしれないことが。その後を考えることが。
離れたくないと思うのだ。また、あんなことは――。
(……? また、って何?)
自分の思考に、引っ掛かりを覚えた。
浮かんだ疑問を――否、忘れている何かを追いかけようとして、キリキリと頭が痛みを訴える。
「リコ……?」
ひどく不安そうな呼びかけがあって、リコリスはぎくりと体を揺らした。
気がつけばライカリスの腕が緩んでいて、眦に涙の粒を引っ掛けた、揺れる瞳が間近にある。
「――ライカ。あのね、私、何か忘れてると思う」
「えっ?」
唐突な発言にライカリスが目を丸くし、涙がほろりと零れて頬を伝う。その今では血色が良いい頬は、こちらに来て初めて会った時には痩せこけて青白かった。
まだ鮮明に思い出せるあの時のこと――あれがもし、最初でなかったとしたら?
涙を拭ってやりながら、リコリスは自らの不可解な考えを、必死に言葉にしようとする。
「こっちに戻ってきたあの日の、前後の記憶が私にはないんだ。気がついたら、普通にあそこに立ってたから。だから何か忘れてる気がするの。すごく大切なことを」
それはきっと、異変に関係する何か。この世界に、ライカリスの隣に残るために重要な情報。
所詮は勘でしかないのに、何故かこんなにも、確信がある。こちらに来てから度々経験した、意識のどこかからもたらされる不思議な思考。
「全然思い出せないけど……でも、これが分かったら」
「……ずっと、一緒にいてくれますか?」
ライカリスが、言葉を繋ぐ。それに、しっかりと頷く。
「――絶対に思い出すから。だから一緒にいさせて、ライカ」
首に腕を回し、ぎゅっと抱きついて、リコリスは言った。
対して、「はい」と言ったライカリスの返事は、耳元でなければ聞こえなかったほどの、小さく、微かな声だった。
星河祭編終幕です。
次回、通常運行に戻る前に後始末&補足&繋ぎ回が入ります。
カリス&ユーフィのその直後小話が日常の方に出現しました。(3/1)
書くかもしれない続きを含めて、興味を持っていただける方、たまに活動報告をご確認くださいませ。
小話その他、関連物の案内を行っております。
お付き合いありがとうございました……と書くと最終回のようですが、続きます。