第28話 素朴な疑問から……
夕食予定時間1時間前のこと。
茶色の毛皮にきゅっとロープを括りつけ、その端を持って美女が笑った。
「さぁ、お散歩に行きましょうねぇ。今日もず~っとじっとしていたし、運動不足になったら大変よぉ」
……じっとしてたのは吊るされてたからですが。
そう思えども、リコリスは言葉を生温い視線に代えて、その光景を眺めていた。
ジェンシャンがにっこりと笑顔を向けてくる。
「では、お夕飯までには戻りますわぁ」
「はーい。いってらっしゃ~い」
あの温泉の時以来口調が間延びしたジェンシャンに手を振ると、彼女はウィードを引き摺って家の外へ出ていった。
遠のいていく、犬の悲鳴……。
「さってと、ご飯の準備しよ」
「え、あ……あの、ジェンシャンは、ちょっとウィードちゃんに厳しくはありませんか?」
ペオニアが1人と1匹を見送って、不安そうにリコリスを振り返る。
無理もない。事情を知らぬ者にしてみれば、あれはただの犬なのだから。
しかし、だからといって優しくするつもりなど欠片もないリコリスは、一瞬皮肉な笑みを浮かべ、そしてそれを隠すように明るく笑った。
「あれは、躾だからね。だからその代わり、ペオニアたちは、思いっきり優しくしてやって?」
そう。本物の犬に対するように。
厳しくされた分だけ、優しさは心に染み入るものだ。どれだけ反発していても、それが犬扱いでも、他意のない優しさは大きい。
そうしてじわじわと浸透する、犬としての喜びが、あの男を変えてくれればいい。
もしそのまま犬になりきってしまったら……まぁ、それはそれで。
裏があり過ぎるリコリスの笑顔に、しかし上手いこと騙されたらしいペオニアが、安心したように微笑んだ。
「分かりましたわ。わたくし、生き物には不慣れですけれど、精一杯優しく接します」
「うん。よろしくね。――じゃあ、準備するよ」
「はい」
今日初の大工修行だった弟子たちも、もうすぐ帰ってくる。
恐らく暑さと、厳しさにへばっているだろうから、食べやすいものを作ってあげよう。
元気付けてやらなければ。
なんと言っても夕食の後は、いよいよ戦闘修行なのだから……。
■□■□■□■□
『ぎゃあああああっ!!』
野太い悲鳴が上がり、大柄な男たちがごろごろと地面を転がった。
抉れた大地を見て、牧草地でやらなくてよかったと心底思うリコリスである。
リコリスたちが今いるのは、牧場の南端。
本来は水車小屋が建つはずのこの場所は、リコリスの貧乏故に空き地であった。
広さでいうなら牧草地が圧倒的だが、それをすると動物たちのご飯が目も当てられないことになる。
「この程度で、何をそんな死にそうな声を出しているんです? 何でしたら、本当に死にそうな目に遭わせてあげますけど」
転がり呻く弟子たちを冷たく見下ろすライカリスの手には、近くで拾ってきた短い木の枝が握られている。
彼が軽く腕を振るだけで、ピッと風を切る音がして、男たちがごろごろと転がっていくのだ。
向かってこさせては枝でしばき、たまに蹴りを入れ、倒れ伏すその背を踏みつける。
(…………なんかSM的なプレイを見てる気分。こわー)
ライカリスの女王様っぷりが、堂に入っていて、怖い。
貧相な木の枝が、鞭に見えてくるこの不思議……とリコリスが眺めていたら、とても嫌そうな視線が返ってきた。
枝を指先で回しながら、ライカリスが彼女を睨む。
「失礼なことを考えているでしょう、リコさん」
「き、気のせーい」
認めない。認めたら身の破滅である。
空っとぼけるリコリスに、ライカリスは眉を寄せてため息をついた。
「……変なことを考えてないで、しっかり前を見てください。よそ見していて怪我なんてしたら、怒りますからね」
「はい、はい――っと」
「きゃっ」
暢気に返事をして、リコリスは持っていた木の棒を低めに払う。
ジニアが小さく悲鳴をあげ、尻餅をつき、練習用の木の片手剣が足元でカランと音を立てた。
ライカリスが3弟子をしばいているその隣で、リコリスはアイリスたちの相手をしているのだ。
先に息を切らせていたアイリスが、虚しい笑い声を零す。
「怪我どころか、掠りもしませんね……」
3人同時にかかっていって、相手にもならないのだから、ペオニアの護衛が本来の仕事である彼女たちは複雑な心境だろう。
アイリスのぼやきを聞いて、リコリスは苦笑するしかない。
この実力差は、リコリスがどう、ということではなく、ただのレベル差なのだ。
1000と20――980というどうにもならない差は、リコリスの目にアイリスたちの攻撃をとてもゆっくりに見せる。
それを何となくと勘で捌いて、見様見真似で木の棒を振り回しているに過ぎない。
「本職の前で揮えるような腕じゃないんだけどね、本当は。今は仕方ないってことで」
「リコリス様は妖精師でいらっしゃいますものね。ライカリス氏は、暗殺者、でしょうか」
「うん」
レベルを始めとする他者の簡易情報や、ステータスという概念が認識されていないらしいこの世界でも、職業はゲームと変わらず存在している。
元々ゲームでは、キャラクター作成時には職業は決定されず手習い状態で始まり、レベル50になってから初めてメイン職業選択クエストが受けられるようになる。
その際には、王都にひとつしか存在しない職業選択所に出向き、まず職業選択の資格を問う前提クエストがあり、次に前衛希望か後衛希望かで分かれるクエストをクリアし、その後で就きたい職業を選んでから、更にその職業に応じたクエストに臨むのだ。
NPCも職業を得るにはプレイヤーと同じ手順を踏むことになるので、その場合パートナーとなったプレイヤーが先導することになる。
(この世界だとレベルが見えてないみたいだから、目で見た強さか、職業選択所にあった魔法の水晶で判断するのかな)
そのあたりが、いまいち把握できていないのだが。
ともかく、リコリスは相当早い段階、それこそゲーム開始直後にライカリスと遭遇し、それから必死で口説き落としたため、レベルが20に届く頃にはパートナーとして連れて歩けていた。
ライカリスの初期レベルは15。そこからレベル1000に登りつめるまで、ずっと行動を共にしている。
レベル50になったライカリスを職業選択所に連れていったのもリコリスだった。
――その、思い返せば、長い時間。
プレイ時間だけで考えても長いのに、それならこの世界ではどれだけの時間だったのだろう。
何だか懐かしくもしんみりとしてライカリスを見ると、目が合う。
不思議そうに見つめ返され、何でもない、とリコリスはへらりと笑った。
気を取り直してアイリスたちに視線を戻す。
「まだ先のことになるけど、皆の職業の希望は?」
「え? えぇと……申し訳ありません。考えたこともありませんでした」
「あれ。そうなの?」
困った様子で首を捻るアイリスに、おや、と思う。
真面目で上昇志向の塊みたいなアイリスだから、目標くらいは定めているかと考えていた。
意外そうに眉を上げたリコリスに、ジェンシャンが地面に座り込んだまま苦笑する。
「職業持ちはエリートですのよぉ。リコリス様のような牧場主の方々か、相当経験を積んだ冒険者の方でないと、取得は難しいのです」
「……私どもでは、実力が足りません」
至極あっさりと、ジニアが結論を述べた。
(知らなかった……)
確かに、アイリスたちが職業を得るには、今のレベルの倍以上にならなければならないのだが。それでもいずれはそうなってもらうつもりだったのだ。
むしろ、そうするつもりでいるリコリスは、にっこりと弟子たちに微笑みかける。
「じゃあ、決めておいてね?」
『…………』
言外に、覚悟しろと念を込めて。
それを察した6人――リコリスの前にいるアイリスたちだけでなく、今は地に伏しているチェスナットたちも、見事に揃って顔を引き攣らせた。
この世界に存在する職業は全部で9。
騎士、戦士、暗殺者、狩人、神官、魔術師、吟遊詩人、呪術師、そして妖精師。
もうひとつオマケ的な隠し職業があるが、それは特徴からして恐らくプレイヤー専用のはずだから、数には含まれない。
この弟子たちは、どの職を選ぶだろう。他人事なのに、何やらワクワクしてしまう。
まぁ、圧倒的不人気職の妖精師が選ばれることはないだろうけれど。
「楽しそうですねぇ、リコさん」
いつの間にか隣に来ていたライカリスが、呆れ半分に笑っている。
ああ、他人に興味のないライカリスからすれば、よく理解できない感覚かもしれない。
この男が興味があるのは、いずれ増築される我が家のことだ。多分。
「うん。楽しみ。それに、ほら。それだけ強くなれば、体力も腕力もすごいついてるだろうから、リフォームも早くなると思わない?」
「ああ、なるほど」
技術のこともあるし、そう簡単ではないだろうと分かってはいるが、こう言っておけば、ライカリスのやる気も持続するだろう。
ただちょっと心配なのが、やり過ぎないかどうか。
「師匠……あんまり煽らないでください……」
同じ心配を抱いたらしいウィロウが、力なく呻くように言った。
ライカリスのやる気の被害を受けるのは彼らだから、尤もな言い分である。
だが、そこはまぁ、リコリスとしても目を離すつもりはないので、何とかなると楽観視しておく。機嫌よく保っておけば、そんなに酷いことにもならないだろう。
機嫌よく……と、リコリスは少し考えて、甘えてみればいいかと結論づけた。
ライカリスの腕にしがみつき、ぴたりと身を寄せて顔を覗き込む。
「心が折れない程度にしてあげてね?」
「仕方ないですね……善処しますよ」
苦笑されたが、成功したのだから良しとしよう。
これでどうだと弟子たちを見やれば、各々微妙な反応をしている。
特にファー。彼は、まじまじとリコリスとライカリスを見つめていた。
「あの、師匠」
「ん?」
弟子の中でも特に何も考えていない部類のつぶらな瞳が、リコリスとライカリスを行き来する。
「師匠とライカリスさんって、どっちが強いんスか?」
その無邪気な問いかけに、その場の全員が顔を見合わせた。
じっとりと重い夏の空気が、微かな緊張を帯びる。
だが、ライカリスは面倒くさそうに、考えもせずに言った。
「リコさんですよ。その気になったら世界征服だってできる人ですから」
「……」
すぱっと。迷いなく言い切ったライカリスに、リコリスは微かに眉を寄せた。
同意はしかねる。何だ、世界征服って。というか何より、この言い方は……。
リコリスは少し考え、そして。
「んー……。じゃあ、やって見せたげる」
にぱっと笑った。
「はっ?!」
『ええっ?!』
その場の全員がぎょっと目を見開く中、リコリスはするりとライカリスから体を離した。
止めようとしたライカリスの手が、宙を掻く。
「クイーン」
リコリスの意思に応えて、白い花と共に、白銀の女たちが姿を現す。
現れたクイーンは5人。皆、同じ顔に、同じ微笑みを浮かべているが――どこか困ったような雰囲気もあった。
その後ろに、リコリスはさっと身を隠す。
「ちょっと、リコさん?! 何を考えているんですかっ!」
「うん? 別に何も……あ、皆ちょっと下がってて」
いつになく慌てた様子のライカリスにはのんびりと返事をしつつ、地面に転がっていた弟子たちに指示を出す。
「あと、畑に被害出さないでね?」
クイーンに抱きかかえられ、淡々と注意事項を告げるリコリスは、焦りに顔を歪めているライカリスと、どこまでも対照的だった。
ライカリスも、普段あれだけリコリスの考えを読むくせに、どうしてこんな時にこそ発揮しないのだろう。
クイーンたちだけが彼女の意図を理解していて、困ったような顔をしているが、止めようとはしない。
「――リコッ!」
「申し訳ありません、ライカリス様」
「あの……できましたら、お早めに謝ってくださいましね?」
リコリスを守るように立った困り顔のクイーンたちが、音もなく銀色の槍を構えた。