第26話 手の届かないこと
――夢を見た。
夢だと分かる夢だ。
『私』の目線で進む、夢。
春の季節のスィエルの町の港に立って、周囲を見回すと『私』と同じように、船から降りてきた人々がいた。
不安げな視線が行き来し、それはやがて港から町の方へと向かう。
それでも動くことを戸惑う『私』たちに、穏やかな声がかかった。
「スィエルの町へようこそ。世界を支える、牧場主の皆さん」
振り返った先、小柄な初老の男性と、大柄な美女が立っていた。
(――サマン町長。マザー・グレース……)
軽い驚きに、意識が浮き上がった。
「…………」
小さな窓が1つあるだけの室内は薄暗く、その窓から入っている微かな光で、点在する白い羽毛の塊がぼんやりと浮かび上がっている。
羽毛の塊――蹲っている鶏だ。
そういえば昨日の夜、温泉から帰った後、諸事情により鶏小屋での就寝を余儀なくされたのだったか。
(4時45分……)
時間を確認し、まだ少し早いだろうかと考える。
起き出す選択肢は存在しない。
何せ、背後から回された手が腹の前で組まれていて、その両腕の間に収まっているリコリスは身動きが取れないのだ。
鶏小屋で寝ることになった原因が、彼女の肩口で穏やかな寝息を立てている。
(……あと15分はぼんやりできるかな)
温かな胸に背を預けたまま、リコリスは先ほどまで見ていた夢を思い出す。
いつか画面越しに見た風景。
ゲームで最初に降り立ったスィエルの町の港。穏やかな海。
ようこそと言って、微笑んだ町長夫妻。
目線が違って新鮮だと思った。しかし、それ以上に、――懐かしいと感じた。
それは、ライカリスを現実で初めて目にした時と似た感覚で。
(まぁ、ライカの時は、懐かしいっていうより……)
……表現しにくい。言葉にならない、そんな何か。リコリス自身、持て余す感情だった。
よく分からないことだらけだ。内心でため息をついて、視線を上げる。
時刻は、いつの間にやら4時58分になっていた。
「さて……ライカ、そろそろ起きよう。ライカ?」
肩の上に乗っている柔らかい髪に手を伸ばし、声をかける。
それまで規則正しかった呼吸が、微かに乱れた。
「――ん、んん……?」
ライカリスは寝起きがいいのか悪いのかよく分からない。
基本的には寝起きがあまりよろしくなくて、何かあった時だけ、妙に鋭いというのだろうか。
少なくとも今は、なかなか起きない方だ。
「起きろ~。起きろ~」
凭れかかっている上半身を、左右に揺らしてみる。……唸られた。
そもそも何故鶏小屋でここまで熟睡できる。
そして、肝心のライカリスは起きないのに、鶏たちの方がいつの間にやら目を覚ましてリコリスたちを見ていた。
これだけ騒げば当然かもしれない。何となく視線が生温いと感じるのは気のせいだろうか。
そのうち1羽と目が合って、その鶏が近づいてくるのに「おや」とリコリスは眉を上げた。
「どうしたの? お前」
何気なく問いかけたが、当然返事はないし、期待もしていなかった。
動きを目で追っていると、鶏は軽く羽ばたいてライカリスの肩に飛び上がる。
――嫌な予感がした。
「コケコッコーッ!!!」
「ひゃっ」
「――っ?!」
リコリスを囲む腕が、体ごと大きく揺れた。
そしてリコリスの脳みそも揺れた。
「~~~~っ」
耳元でやられたライカリスは、もっとダメージが大きかったのだろう。
低く呻く声が微かに聞こえた。
ライカリスにダメージを与えるという偉業を成し遂げた鶏は、床に飛び降りてから、ちらりとリコリスを見る。
「ああ……手伝ってくれてありがとう……」
言葉のない要求を察して声をかけると、鶏は満足げに先ほどの位置まで歩み去った。
頭がいいにもほどがあるだろう。
「あー、ライカ……大丈夫?」
「――ええ……なんとか」
今度はしっかりと返事があった。
体を捻ると、今度は容易に腕が外れて、振り返ったすぐ近くで、視線が合う。
「おはよう。……ホントに大丈夫?」
「おはようございます。大丈夫ですよ。少し驚きましたが……」
耳に手を当てながら苦笑するライカリスの顔を、リコリスは覗き込む。
薄暗くて分かりにくいが、顔色は悪くないようだった。
「どうかしましたか?」
「ううん、何でも。――そろそろ起きよう。虫が出ちゃうから」
例の憎いヤツを、始末するお仕事が始まるのだ。
げんなりとした表情を隠そうともしないリコリスに、ライカリスは少し意地悪く瞳を瞬かせた。
何も言わないが、明らかに面白がっている。
「……顔に投げつけてやろうか」
「触れないくせに」
ハイ、ごもっとも。
あの芋虫だけは本当に苦手で、それをよく理解されているので、このことに関しては、どうにも分が悪い。
咄嗟に言い返せず恨みがましい目つきになったリコリスに、ライカリスが柔らかく目を細める。
「可愛いです」
「……あぁ、そう」
昨日散々からかった仕返しか。そうか。
確かに、昨日のあれはやりすぎたと自分でも思うけれども……うぅむ。
複雑な気分で見つめ返すと、返ってきたのは苦笑いだった。
「仕返しじゃないですよ? ――さぁ、もうそろそろ行きましょう」
またしても心を読まれ、しかしそれに何かを言い返す前に、行動を促された。
反論したくはあるが、仕方がない。本当にそろそろ時間だ。
不承不承、戸口をくぐり抜けたあたりで、背中にそっと手が当てられ、ライカリスが背をかがめる気配がした。
「できたら、もう少し頼ってほしいです」
きょとんと見返せば、一瞬だけ視線が重なり、すぐに逸れた。
(……これ以上?)
何を頼れというのか。芋虫のことだろうか。それとも?
言いたいことを言って、さっさと畑の方に歩き去った背を、リコリスは困惑気味に見つめる。
早速短剣を投じているライカリスの足元で、収穫時期を迎えたトマトが揺れていた。
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昨夜、蛮勇の代償に簀巻きの刑になった弟子たちは、リコリスたちが鶏小屋で就寝した後にクイーンに開放してもらったらしい。
そのまま疲れ果て、リコリスの家の床に転がっているのを、家主が発見した。
その際、今度は何故かウィードがロープでぐるぐるに巻かれていたのだが、こちらは本当に謎である。
そして朝食後、当初の予定通り、弟子たちはサイプレスの作業場へ向かい、そしてリコリスたちは、畑の前に立っていた。
そろそろ気温が上がるだろうかという午前中の、まだそうきつくない日の光に照らされ、畑一面に実った作物が輝く。
「さーて、収穫するよーっ!」
リコリスが声を上げ、家妖精たちが歓声を上げた。
きゃあきゃあと騒ぎながら、ぱっと畑に散っていく。数日前に見た光景だ。
こうなると収穫作業そのものでは人間は妖精たちに敵わない。
高速移動を始めた妖精を、ペオニアたちが目を丸くして眺めていた。
……気持ちは分かる。
「蝙蝠様、カゴよろしく」
リコリスが軽く蝙蝠の頭に触れると、彼女が望んだ通りに、大きめの収穫カゴがいくつか吐き出された。
1メートル四方のそれは、本来ゲームでは景観アイテムだったが、触ってみたところしっかりとした作りをしている。これならば使えるだろう。
「収穫はあの子たちに任せて、人間組はこっちで野菜仕分けね」
前回の収穫ではとにかく蝙蝠の中に仕舞っていったが、今回は量を確認したい。
猛スピードで妖精たちが集めてくる野菜を、人間たちが種類ごとにカゴに分けていく。
リコリスも皆と同じように動きながら、たまに手を止め、カゴを確認していた。
全ての野菜の収穫時期が重なるわけではないから、まだ実りを迎えていない作物もある。
だがそれでも、相当な量が集まりつつあった。
牧場主の育てる作物には、元いた世界にはない利点がある。
それは安定性と、収穫までの早さだ。
世話をすれば確実に決まった量の実りがあるし、収穫までの期間が一定で相当早いのである。
このサイクルでいけば、スィエルの町を、リコリスの牧場だけで支えることも可能だろう。
スィエルの町は、人口50人程度の、小さな町だ。
しかも猟師、漁師の町でもあるので、リコリスの野菜が加われば相当安定するはずだ。
もちろん、無駄遣いはできないが。
(……でも)
スィエルの町以外の場所のことを、リコリスは考える。
王都を始めとする他の都市は、どのような状況になっているだろうか、と。
仕方がないのは理解している。
他の町の分の食糧まで賄うのは、不可能だ。
そしてスィエルの町の人々に不自由な思いをさせてまで、そちらを優先することもできない。
リコリスが生活の土台を、友情を築いたのはスィエルの町で、彼女は既に町の人間なのだから。
……ただ、
(やっぱ、嫌な感じだな)
他の町に仲のいいNPCなどほとんどいなかったが、友人でないからといって飢えているのを平気だとは思えない。
リコリスは自宅の入り口前、屋根からロープで吊るされているウィードに目を向ける。
犬にする前、あの男は王都の状況を口にしていた。
それは貴族目線の利己的なものだったが、嘘ではないだろう。
貴族ですら節制を――では、貴族でない人々は。
「……」
答えのない問題に、リコリスは難しい顔で手を止め、それから首を一振りする。
牧場を拡張することも考えたが、それは周囲の負担が増えるだけだ。
リコリスひとりが頑張るからといって済むことでもない。
(他の牧場主が戻ってきてくれればなぁ)
それもできれば、リコリスのように食材メインで牧場を回していたプレイヤーが帰ってきてくれたなら。
他力本願この上ないが、それでも願わずにいられなかった。
目の前に山と積まれた野菜を眺めて、リコリスはため息をつく。
そしてそんな彼女を、周囲の人間たちが心配そうに見つめていた。