第25話 キャッキャウフフの、その影に
「きゃあっ」
「おー、ペオニア肌キレー。胸も結構あるし」
「リ、リコリス様っ! どこを触って……あぁんっ、おやめくださいましっ」
ばしゃばしゃと水の跳ねる音に混ざって、ペオニアの悲鳴……嬌声が聞こえてくる。
対するリコリスの声は、別段普段と代わりない。それが逆に恐ろしい。
「そんな声出さないでよ。私がペオニアを襲ってるみたいじゃん」
「襲っているように見えますわぁ。……あらぁ。リコリス様も普通にお胸ございますのねぇ?」
のほほんとジェンシャンが参戦した。
何気に失礼なことをのたまいながら。
「悪かったね、ロリ顔で。これくらいはあってもいいじゃんか」
「大きすぎることはありませんから、バランスはいいですわねぇ。まぁ……形も綺麗……」
「んっ……ちょっと擽ったいよ、ジェンシャン」
くすくすと、女性らしい柔らかな笑い声。
「ジェンシャンは大きいよね。わ、ふわっふわだ。気持ちいい」
「うふふ、間に色々しまえますわよぉ」
何をしまうんだ、何を。
「……2人とも、は、はしたないですよ」
見かねて注意をしてしまったらしいアイリスだが、その声は上擦っている。
そして、この状況で存在を主張することは、ある意味身の破滅ではないだろうか。
「あらぁ。そんなこと言って、アイリスだって気になっているのでしょう?」
案の定、悪魔にロックオンされた。
「アイリス、顔真っ赤だよ。む、やっぱり鍛えてるなぁ」
「ひゃんっ?! ちょ、リコリス様っ」
「腹筋割れてる。こんなの初めて触ったよ」
「アイリスは真面目ですからぁ」
どうやら、アイリスの割れた腹筋が餌食になっているらしい。
水の跳ねる音は更に大きく、聞いたこともないようなアイリスの悲鳴が響いた。
ところで、3姉妹の末、ジニアはどうしているのだろう。
いつも大抵寡黙な彼女は今、矛先が己に向かないよう必死で影を薄くしているのかもしれない。
だが、それもいつまで……。
「ジ~ニア! どうしたの、そんな隅っこで」
「ひっ」
「まぁ。なぁに? そんな恐ろしいものを見る目をしてぇ」
「こんな時くらい、羽目外そうよ。女同士で温泉って、これが正しい楽しみ方でしょ?」
本当だろうか。
「い、一概にそうとも言えないと……きゃああっ」
一際高い悲鳴。ジニアのそんな大きな声は初めて聞いた。
「ジニアの弱点は、お耳ですのよぉ」
「へぇ。……えい」
「いやぁんっ! や、やめてくださいぃっ」
悲鳴と嬌声と、水音。そして、無邪気な2人分の笑い声。
白く煙る湯気の中、仄かな明かりに照らされ、戯れる5人の美しい女性たち。
華やかだ。とても華やかだ。
――だが。
『………………』
3人の男たちは今、1匹の鬼を目の前にして、滂沱の汗を垂らしている。
鬼が冷ややかに微笑んだ。
「いい度胸です。命はいらないということですね?」
あちらに聞こえないよう、密やかな声で静かに問うてくる。
その手には、彼が時折使っているのを見たことがある黒い短剣。
温泉までの小道に備え付けられた小さなランプの光を受けて、鈍く輝く。
「ラ、ライカリスさん、あれ聞いてて何とも思わないんスか?!」
こちらも必死ではあるが、小さな声でチェスナットが問い返す。
目の前に立つライカリスを境界にして、天国と地獄という表現がふさわしいあちら側とこちら側。
ここまで来たのはほんの出来心とはいえ、あんな声を聞かされて、平然としているのは如何なものか。男として。
特に、あそこにはリコリスがいるのだから。
だが、苦し紛れのチェスナットの言葉に、ライカリスは目を細め、殺気を強めた。
「ば、馬鹿チェスナット!」
「もう少し考えて物を言えっ」
「だ、だってよぉ。あそこには師匠だって」
「――殺します」
地雷を踏んだらしい。
影が揺らぎ、ライカリスが一歩踏み出す。
「――ところで、ひとつお聞きしたいのですけどぉ」
不意にジェンシャンの声が届いたのは、チェスナットたちの命が風前の灯という、まさにその時だった。
他の女たちの声は聞こえない。遊ばれすぎて気絶でもしたのだろうか。
「……何?」
好奇心の溢れる声に答えるリコリスは、些か不審げだ。
「お嬢様や私どもがリコリス様の身内でしたらぁ……ライカリス様はどうなんですの?」
「は?」
ぴた、と時間が止まった。
チェスナットたち3人も、そしてライカリスまでも、その会話に意識を奪われる。
やっぱり気になっているんじゃないか、とは、さすがに言えなかったが。
「私どもと同等なはずありませんわよねぇ。でしたら、ライカリス様は、リコリス様の、何?」
向こうはどんな空気なのだろうか。
さほどの距離もないこの場所は、今尋常でない緊迫感に包まれている。
「ああ、なんだ、そんなこと」
対して、リコリスはやけにあっさりと言い、考えているのか短い沈黙があった。
「んー。私にとってライカは、大事な相棒で、親友で……」
『……………………』
この、沈黙が、痛い。
ちょうどランプを背に立ち動きを止めたライカリスの表情は、チェスナットたちからは窺えない。
しかし、この、沈黙は、痛い。
そんな男たちには欠片も気がつくことなく、リコリスが暢気に続ける。
「あとは、そうだなぁ。……何をされてもいい、かな」
『っ?!』
とす、と短剣が地面に刺さった。
表情は相変わらず見えないが、硬直しているライカリスの手からは、構えられていた得物がなくなっている。
取り落としたようだった。
「……熱烈ですわねぇ」
「そう? でも本当に。ライカになら、何されてもいいし、どんなひどいことされても、許すよ」
さらりと続けるリコリス。
しかし、その声音には恋だの愛だのという、色がない。色事の熱、甘酸っぱさや、切なさとは無縁の声だ。
内容はとんでもないのに、ただそれを事実として伝えるだけの声だった。
(師匠、俺は師匠がよく分かりません……っ!)
そう心の中で叫んだのは、弟子たちの誰かか。あるいは全員か。
問いかけたジェンシャンを含め、彼らが知りたいことに答えているようで、実は答えになっていないという不思議。
逆に謎が深まってしまった。
そうして、全員が硬直すること、しばし。
それまで聞こえてきていた会話は、そこで急に内緒話になったようで、小さく、聞き取れなくなった。
今度は何を話しているのか、非常に不穏だが、いくらなんでもその場に乗り込んでいくことはできない。ライカリスも、それは同じだ。
では、どうするか。選択肢は1つだった。
――とりあえず、逃げよう。
ライカリスが固まっている、今がチャンスだ。
3人は、じり、と足を後ろに下げ、目を見交わした。
だが。
この3人が本気で逃げたとして、無事逃げおおせることは可能だろうか。
……果たして、脱兎の如く夜の森を駆け出したチェスナットたちだったが、ものの10秒も経たないうちに、地面に転がされていた。
チェスナットが左右を見れば、彼と同じように呻いているファーとウィロウがいる。
そして背後には……。振り返る勇気はなかった。
「逃がすわけがないでしょう。馬鹿ですか、あなたたちは」
背を踏みつけられ、チェスナットは低く呻く。
硬直してたくせに、とは絶対に言ってはいけない。今も、これから先も。
しかし、このままだと、これから先はなくなるかもしれない。
背後からの殺気は重く、いっそ折檻覚悟でリコリスに助けでも求めようか、と思っても、背中を踏まれているため声が出せなかった。
「ライカリス様、どうかそこまでに」
そこに、殺気の色濃い夜の森に不似合いなほど、穏やかな声が割って入った。
落ち着いた、女の声だ。
4人分の驚きの視線が向かう先、立っていたのは人間ではなかった。
緩くウェーブした銀色の長い髪に、青い瞳。白い肌。
白い清楚なドレス姿で、穏やかに微笑を浮かべる、たおやかな美女。
ただし、全身に纏った虹色の燐光が、普通ではないことを知らしめる。
「……クイーン」
当惑気味に、ライカリスが呟いた。
名を呼ばれた女は、にこりと微笑し進み出ると、ライカリスの隣に立って、その腕に触れる。
今にもチェスナットを仕留めそうだった刃を、抑えるように。
「何故ここに……とは、愚問ですね」
「ええ。お察しの通り、我が主からのご命令で。あなた様がこちらのお三方を殺めそうになったら、止めるようにと」
ぴりぴりと殺気を放つライカリスを相手にしても、クイーンは一歩も引かない。
それどころか、ふわり、と寄り添う光が増えて、男たちは目を見張る。
最初に出てきたクイーンと全く同じ見た目の女が更に2人、ライカリスの顔を覗き込んだのだ。
「ごきげんよう、ライカリス様」
「我が主のご命令ですので……お許しくださいまし」
奇妙な光景だ。不気味でもある。助けられておいてなんだが、怖い。
ライカリスとクイーンたちの視線が交差し、やがて舌打ちと共に短剣が収められるのを、3人は固唾を呑んで見守った。
はぁ、と安堵の吐息が3人分、地面に落ちる。
「命拾いされましたね。――では、ここからも我が主のご命令なので」
ふわ、と4人目のクイーンが、3人の前に立つ。
「あなた方に罰を与えます」
覗きはいけませんよ?
そう言って微笑んだ女の顔は、いつか見た、彼らの師の笑顔と重なった。
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「あーあ、やっぱりこうなったか」
呆れた声が、リコリスの口から零れた。
丸太の柱の隣に、喚んでおいた妖精たちが立って、苦笑している。
予想通りだ、何もかも。
「あの方たちは、リコリス様の?」
「うん。私の妖精の中で、一番強い……クイーンね。ライカ相手だと、どうしてもねぇ」
弟子たちが覗きにくれば、必ずライカリスが止めるだろうと思った。
むしろ殺そうとする気がして、あらかじめクイーンたちを召喚し、気づかれないように森に紛れ込ませておいたのだ。
結果、その通りになってしまった。
だからきっと、ライカリスの機嫌も、あまりよくないだろう。
「おかえりなさいませ」
クイーンのひとりが、優雅に頭を下げた。
「えっ? この妖精さんは話せるのですか?」
意外そうにジェンシャンが声を上げる。
今まで見た戦闘妖精たちは会話ができなかった。今、後ろにいるルークも同様に。
だからその疑問も驚きも当然だ。リコリスは頷く。
「クイーンは妖精たちの中でも特別だから」
本来、1人しか喚ぶことのできない、妖精師の奥の手的な存在がクイーンなのだ。
条件を揃えれば複数召喚も可能になるが、何にせよ、ゲーム中でも唯一専用ボイスを与えられた戦闘妖精だった。
「――ライカリス様は鶏小屋で拗ねておいでです」
進み出たクイーンが、リコリスの耳元に囁く。
細い指が指し示した建物を見て、ため息を禁じ得なかった。
しかし、何故鶏小屋。
「……ルーク。そのままペオニアたちを送っていって。クイーン、3馬鹿はほどほどで」
妖精たちに指示を飛ばし、リコリスはジェンシャンを振り返る。
視線のあった相手は苦笑することしきりだったが、瞳だけが悪戯っぽく瞬いていた。
「ペオニアに、話してくれてありがとうって、もう1回伝えておいて。あと、楽しかったって」
「かしこまりました。――リコリス様も頑張ってくださいねぇ?」
笑い含みの声には、肩を竦めるだけで済ませた。
(夕方、仲直りしたばっかりなのになぁ)
頬を掻きつつ、リコリスは篭城先の鶏小屋へ向かうのだった。