第24話 お嬢様の事情
「……温泉とは、気持ちがいいものなんですのね……」
夜の森を白く彩る湯気の中、小さな明かりに照らされながら、ペオニアが吐息を漏らした。
スィエルの町を南西に出て、森の中を進めば辿り着く温泉は、かつてたくさんの牧場主たちが利用していた。
ゲームでのステータスにはHP、MPの他に疲労度と空腹度があり、疲労度の方を回復させるのに、温泉はいいツールだったのだ。
疲労度と空腹度は牧場での作業はもちろんのこと、ステータスの数値や、スキルの威力、精度にも影響があったため、疎かにはできなかった。
現在その2つの情報は見ることができないが、例えば実際の疲労や空腹が反映されているのならば、今後どう影響するだろう。
明確な数値として見られない分、厄介かもしれない。
(――でも、今は……考えられない……)
温かい湯に肩まで浸かり、思考が溶ける。
はふ、と満足げに息をつきながら、リコリスは目を細めて周囲を眺めた。
小高い山の中腹にあるこの場所は夜の森に囲まれて、夏とはいえ僅かに涼しい。
温泉を覆うように張り出した枝に、小さなランプがかけられて、周囲をささやかに照らしている。
湯に浸かって、思い思いに体を伸ばしているのはリコリス、ペオニアと、アイリス姉妹の5人だ。
水着着用で、と提案しようかとも考えたが、ライカリスが反対するであろうことと、ペオニアにいきなり全員でというのも難易度が高いだろうということもあって、断念したリコリスである。
故に男たちは後半だ。
(……大人しく待ってるかなぁ。無茶しなきゃいいけど)
誰が、とは言わないが。
そんなことをぼんやり考えつつ岩に背を預け、何やら感動しているらしいペオニアを見つめる。
「やっぱ、初めてなんだ? 温泉」
「ええ。保養地に行く機会もなかったものですから……」
ほんのり肌を染めてペオニアは微笑んだ。
今、ちょうどいいかもしれない。少し考え、リコリスは首を傾げる。
「ふぅん。……ね、ここに来る前のこと、聞いてもいい?」
ペオニアたちのことも、チェスナットたちのことも、リコリスは詳しく知らない。
この世界に来てから、深く関わった人たちだから。
特にペオニアのような貴族のお嬢様が、この町に来た理由が気になっていた。
食糧難故に? ――何となく、違う気がする。
問いかけの途端、ペオニアは顔を曇らせ、アイリスたち3人も顔が強張って、リコリスは「ああ、やっぱり」と呟いた。
不安げに向けられた4対の視線に、軽く肩を竦める。
「やはり、とは……その」
「ん? 別に何も知らないよ。勘だから」
まだ若いお嬢様が、護衛を3人だけ連れて移住というのは、不自然だ。
サマンから聞いた話だと、連れてきたのは本当にアイリスたち3人だけで、他に身の回りの世話をする者もいないという。
そしてモンスターが増え、都市間の連絡が難しくなるより前にも、誰かと手紙のやり取りなどをしている様子もなかった、と。
まるで隠れ住んでいるようで、訳ありだろうと察していたのは、別にリコリスだけではない。
「町長たちも、気づいてたみたいだけど」
むしろ、そうして町の人々が察し、許容したからこそ、ペオニアたちはライカリスに追い出されることなくここにいるのだろう。
チェスナットたちも同じだ。
言葉遣いは乱暴で、怯える者はもちろんいたが、困っていた町民をたまに助けたりしていたらしい。ツンデレ的に。
追い出すほど悪人でもないが、近づきたいわけでもないという、実に微妙な立ち位置だったわけだ。
その均衡をリコリスがぶち壊した。
力技だったが、それでもこうして一緒に温泉に浸かっている今がある。
「言いたくないなら訊かないよ。でももしこの後で悪い方向に進展があったりしたら、身動き取れなくなる前に教えてね」
まぁ、身動き取れなくなっても力ずくで引っ掻き回すつもりだが。
リコリスにはそれだけの力がある。
「リコリス様、わたくしは――」
「巻き込むとか、そういうの心配しなくていいから」
大切なものは、全て守るつもりだ。
殺すのは今でもまだ少し抵抗があるが、そうしないために色々手を打てばいい。
それができるだけの力がリコリスにはあって、ならば躊躇うまいと思う。
大切なものに傷をつけられてする後悔ほど嫌なものはないと、学んだから。
「ペオニアもアイリスもジェンシャンもジニアも――チェスナットたちもね。もう身内でしょ」
不安など吹き飛ばすように、無駄に自信ありげに微笑んで見せる。
リコリスのその笑みをしばし見つめていたペオニアは、やがて吐息と共に目を伏せた。
「……申し訳ありません。その……それほど深刻な事情があるわけではないのです。どちらかというと、身内の恥と申しましょうか……」
言いにくそうに言葉を探すペオニアの瞳が泳ぐ。
促すでもなく、リコリスが黙って待つことしばし、見かねたのかアイリスが言葉を繋いだ。
「僭越ながら、私がご説明を。よろしいでしょうか」
リコリスとペオニアの両方に許可を求めた声に、2人とも、特にペオニアの方はほっとした様子で頷いた。
では、とお湯の中でも姿勢のいいアイリスが、居住まいを正す。
「お嬢様のご実家であるバークマン伯爵家には、ペオニアお嬢様の他に、いずれ家督をお継ぎになるご嫡男――つまりお嬢様の兄上様がいらっしゃいます。そしてこの兄上様が……」
微妙な表情で咳払いをひとつ。
「……お嬢様をそれはもう、大切に、大切に溺愛なさっておいでなのです」
重々しく告げられた内容に、ペオニアが恥じ入るように俯く。
……が、そんなに重く言うことだろうか。
まだ見えない事の全貌を、リコリスは視線だけで促した。
「ここで問題なのが、その兄上様が既にご結婚なさっているところにありまして。はっきり申し上げるのもどうかとは思いますが、その奥様のことよりもお嬢様を愛しておいでなのです」
「それがどれくらいかといいますとぉ。毎朝お嬢様のお召し物を嬉々としてお選びになり、毎食ごとに介添えをなさり、夜はお嬢様がお眠りになるまで付き添われて、下手をすると朝まで枕元で寝顔を眺めてらっしゃいますわぁ」
温泉に入って気が緩んだのか、口調が間延びしているジェンシャンが、苦笑しながら補完する。
「さすがに、お風呂の時はご遠慮いただけるよう、お願い致しましたけど……それも渋々でしたねぇ」
「………………」
(素直に気持ち悪いと思っていいかな……)
ペオニアの手前言葉にはしないが、思うだけならいいだろうか。
だが、何とも言いがたい心情はしっかり顔に出てしまったらしく、護衛3人はため息混じりに苦笑したし、ペオニアは両手で顔を覆った。
「……お義姉様は、とても素敵な方なのです。凛としていて、お優しくて、わたくしずっとあの方に憧れておりました」
「若奥様は、ご兄弟の幼馴染でいらっしゃいましたので」
ペオニアの告白に、ジニアがそっと補足する。
幼馴染ということはその兄のシスコンぶりを子どもの頃から見ていたということだろうか。
それでよく、嫁ごうと思えたものだ。優しいなんて言葉では片付けられないくらい心が広くないか?
あるいは貴族同士の婚姻なので、本人の意思は関係なかったか。……ああ、こちらの方がそれっぽい。
「お義姉様はわたくしに気に病むことはないと仰ってくださって……。でも、わたくし見てしまったのですわ。あの方が泣いておられるのを……」
いつも優しい義姉の涙は、ペオニアにショックを与えたという。
そのことに思い悩んでいた矢先、いつものように兄に構われそうになり、咄嗟に言い放ったのが。
『お義姉様を大切にしてくださらない、お兄様なんて大嫌いですわっ!』
その光景を見ていたらしい護衛3人が、揃ってペオニアの声真似をした。
ペオニアが恥ずかしそうに頬を押さえる。
こうして主人をからかうのだから、この4人は本当はあまり主従の垣根なく過ごしてきたのかもしれない。リコリスの前では丁寧で職務に忠実だったが、温泉に浸かり、事情を明かしたことで緩んできたのだろうか。
「それで、大嫌いと言われてお兄様が固まってしまわれたので、その隙にお父様に進言したのです。このままでは跡継ぎのご誕生が危ぶまれる。お義姉様も心を病んでしまわれるかもしれない、と」
「旦那様も若奥様のことを気にかけておられたようで、お嬢様のお言葉を真剣に考えておいででした」
「そして、そんな折に、2年前の異変が起きたのです」
世界中が大混乱に陥り、混乱の一端として、転移装置が動かなくなった。
それに乗じて、ペオニアは3人と共に家を出る。
「不謹慎だとは思いましたが、その混乱を利用させていただきました。転移装置が止まってしまえば、行方を追うのも容易ではありませんから」
「国王陛下のご命令の元、貴族たちもあなた方の捜索に動いていました。平常時であればいざ知らず、その状況でお嬢様を優先することは、いかに兄上様でもできなかったはずですわぁ」
「そうなさろうとしても、旦那様がお許しにならなかったでしょう」
嵩張らない一財産を持った4人は王都からできるだけ遠く、それでいてモンスターの危険の少ないスィエルの町に移り住んだ。
華やかな王都からすれば、スィエルの町も立派な辺境だ。
牧場主が最初に訪れる場所として全くの無名ではないが、それ故に真っ先に手がかりを求められる場所。
ひとしきり捜索を終え、なんの手がかりもないことが分かると、王都の人間は戻っていった。
それを見計らって移住し、人付き合いに不器用で、慣れていなかったが故の問題を起こし、そしてリコリスが現れ――今に至る。
「それは……何というか……大変だったのね」
命に関わるような、あるいは身に危険が及ぶような事情ではなかったものの、正直コメントしづらい。
4人もそれを理解しているのだろう。
苦笑したり、頬を掻いたり、俯いたり、様々に微妙な空気を演出している。
リコリスはため息をついて空を仰ぎ、少し考え、ペオニアに視線を戻した。
「――話してくれてありがとう」
「いえ……」
「とりあえず、ペオニアを連れ戻しにくるなら、そのお兄さんだろうから、もしそうなったらペオニアの意志に任せる」
そう、リコリスにとって重要なのは、ペオニアが戻りたいかどうか、だ。
その時に、彼女自身、そして兄の状況がどうなっているかで話は変わる。
「頼ってくれるならいくらでも助けるから、その代わり、どうするかはペオニアが決めて。あなたが、その時、どうしたいか。よく考えてね」
「……はい」
色々予想外……というか予想の斜め上だったが、話を聞けてよかった。
リラックスさせ、人と人を近くさせる。温泉の力は偉大だ。
だから、温泉に浸かって、いつまでも難しい顔をさせるのも申し訳ない。
真面目に頷きを返してきたペオニアの顔に、リコリスはぴっとお湯を飛ばした。子どもが親とお風呂に入って遊んだりする、あれだ。
「きゃっ」
「話してくれたお礼に、女同士での温泉の楽しみ方を教えてあげよう」
にやにや。わきわき。
うら若き乙女たちがこうして素肌を晒しているのだ。やらねばなるまい。
アイリスとジニアは止めるか迷っている様子で、ジェンシャンは楽しそうに目を輝かせている。同士だ。
「……? っ?!」
目を丸くしたペオニアは退こうとして、その背を背後の岩に当て――……。
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1時間後、つやつやしたリコリスとジェンシャンが並んで牧場に戻ってきた。
2人の後ろには、見事に茹で上がったペオニア、アイリス、ジニアが、リコリスのルークに背負われている。
このまま送らせようか、などと話しながら家の前まで来て、2人が目にしたのは。
「…………あー」
「……あらぁ」
いつの間に用意されたのやら、鉄棒型に組まれた丸太にぶら下がる蓑虫。
――もとい、荒縄でぐるぐる巻きにされた、3人の弟子たちだった。