第22話 少年よ、大志を抱け
「リコ姉ちゃん!!」
勢いよく飛び出してきた小さな体を、リコリスは受け止めた。
子ども特有の柔らかい金茶の髪がふわふわと流れ、空色の目が見上げてくる。
何事か頬を上気させ、キラキラと瞳を輝かせて、ヒースは興奮気味に口を開いた。
「リコ姉ちゃん、オレ強くなりたい!」
「へ?」
切羽詰っている様子はないものの、強い決意の篭った声だった。
強い意志と期待に満ちた顔に、ぽかんとしていたリコリスは慌てて表情を取り繕う。
「えーと、その前に教えてね。もう体は何ともない?」
「うん! オレ怪我とかしてないし、父ちゃんも妖精の姉ちゃんが治してくれたから」
サイプレスが言った「大丈夫」とはこういうことだったのか。
リコリスは注意深く観察するが、ヒースの表情には懸念していたような影はなく、むしろ人生の目標を定めたと言わんばかりの力強さがある。
年若い少年の心理としてはある意味正常な流れかもしれないが、果たして非戦闘扱いだった人間はどれだけ強くなれるのだろう。
プレイヤー、もしくは戦闘NPCでなければ、職業も選べなかったはずで――。
(ん? ……あれ?)
リコリスは不思議なことに気がついて、目を瞬かせた。
ヒースの簡易情報のマークが剣に変わっているのだ。レベルの表記も1とはいえ、しっかりとある。
そんなまさか、と何度確認しても、それは確かな情報としてそこに存在した。
ゲームでも、そしてあの襲撃事件の時までは、ペンのマークでレベル表記もなかったはずなのに。
「リコ姉ちゃん?」
「えっ? あ、うん。強く、……強く、ね」
あの事件がきっかけなのは間違いないが、具体的な原因が分からない。命の危機に晒されたからか、本人の意志の力か。
(そうか、こういうこともあるのか……)
確かに『アクティブファーム』と同じ設定であるのに、決定的に違うのだ。
この世界は常に生きて、動いている。決められた枠組みの中ではあり得ないことが、起こり得る。
「――なれると思うよ。ヒースが頑張ればね」
「本当?!」
ぱっと顔を輝かせるヒースに、リコリスは「ただし」と続ける。
「今は体を鍛えるくらいにしておこう。強くって言っても、色々あるし」
「オレ、ライカ兄ちゃんみたいになりたいっ。短剣ひゅんひゅんって!」
突然水を向けられたライカリスが僅かに眉を上げた。
この年頃なら片手剣や大剣を扱う騎士に興味を抱いてもよさそうなものだが、ヒースの憧れはライカリスに向いたらしい。襲撃者が大剣使いだったことも大きいかもしれない。
(暗殺者は別にいいとして……でもライカみたいになるのは……ちょっとどうだろう……)
お世辞にも性格がいいとは言えない上に、戦闘にもそれが如実に表れているライカリスである。目的のためなら、リコリスすら騙し、利用するのだから。
この無邪気な少年がそうなるのは、いかがなものだ。いいのか、それは。
「……リコさん。失礼なこと考えてるでしょう」
ライカリスが目を細めて見下ろしてくる。
そこに微かに意地の悪い光が宿っていることに気がついて、リコリスは肩を竦めた。
――よし、相手になろう、と即座に受けて立つことを決める。
「失礼かなぁ。ホントのことしか考えてないんだけど。だってライカ、性格悪いって言われない?」
「言われたことはありません。というか、そんなこと面と向かって言う人あまりいませんよ、普通」
「あはは、そんなの今更だからだし。言わなくても分かるもんね」
すっ呆け、何でもないことのように笑うリコリスに、ライカリスが顔を引き攣らせた。
ヒースがこのやり取りを目を輝かせて眺めていることには、2人とも気づかない。
「さては、部屋のこと、まだ根に持っているでしょう」
同室にする、しないで、一悶着あった時のことを、ライカリスも思い浮かべたのだろう。
自覚はあるのか、と思いつつ、リコリスはそれを笑い飛ばした。
「まさか。私そんなに執念深くないよ。ライカじゃあるまいし」
「嘘つき。実は結構怒ってるでしょう」
難しい顔のライカリスと、飄々と笑っているリコリスの表情は面白いくらいに正反対だ。
そろそろ潮時だろうかと、一際いい笑顔を見せる。
「ううん、全然。からかってるだけ」
「…………………………」
「怒るわけないでしょ、今更。あの時きっちりやり返したし、そもそも別に本気で腹立ててたわけでもないし」
目の前の男が、意外とからかい甲斐があることを知っているのはリコリスと、後は多分変態双子くらいだろう。
普段のライカリスはそんなことはないのだが、たまにリコリス相手にでも意地悪な面を覗かせることがある。
抑えている本性がうっかり表に出た状態とでも言えばいいのか。そうなるとリコリスは彼を無性にいじって遊びたくなるのである。
猫の前でネコジャラシを振っているに等しい。
(うーん、どっちが本性出てるんだか)
手の平を合わせ、指先を口元に当てて、リコリスは上目遣いで小首を傾げてみせた。
「私も性格悪いから……ごめんね?」
「可愛く謝っても駄目ですよ。あなたは性格が悪いんじゃなくて、タチが悪いんです」
「ライカにそれ言われると、褒め言葉に聞こえるから不思議だわー」
「…………」
打てば響くように憎まれ口が出てくる。リコリス本人ですら呆れるほどに。
しかも、ライカリスがこの程度では本気で怒ったりできないことを、分かっていてやっているのだから、本当にどちらが性格悪いのだか分からない。
しかし、ここらで終わりにしないと、怒りはしなくとも拗ねられるかもしれない。
そろそろ真面目に謝ろうか、と思った時、リコリスはやっと輝くような視線に気がついた。
唐突に始まった喧嘩腰のやり取りを、じっと眺めていたらしいヒースから向けられるそれ。
「あ……えーと。ごめんね、ヒース。話の途中だったのに」
うっかり熱中しすぎてしまった。
だが、会話に割り込むでもなく、年に似合わず大人しくしていた少年は、リコリスの謝罪にも鷹揚に笑ってみせた。訳知り顔で。
「いいんだ。だって、オレ知ってるから。えっとな、こういうのは『いぬもくわない』から、邪魔したら『うまにけられる』んだって!」
『………………』
沈黙した大人2人に、ヒースは自慢げに胸を張り、更なる知識を披露する。
「あとな、これも知ってる。ライカ兄ちゃん『しりにしかれてる』んだろ?」
(ちょ、誰だ、こんな言葉仕込んだ奴ーっ!)
噴くかと思った。噴かなかったのは奇跡だ。
同じことを考えたらしいライカリスが、忌々しげに顔を顰める。
「誰でしょうね。6歳の子どもにこんなことを教えている馬鹿は……」
それを聞いたヒースはきょとんとして、不機嫌なライカリスを見上げた。
「マザー・グレースが言ってたよ?」
まさかの姉の所業である。ライカリスの眉間の皺が深くなった。
そんな彼の心中など知らず、ヒースは無邪気に続ける。
「父ちゃんと母ちゃんが喧嘩してた時に、マザー・グレースが言ったんだ。父ちゃんが母ちゃんに弱いのは、父ちゃんが母ちゃんのこと大好きだからだって。ライカ兄ちゃんも一緒だよな? 2人とも、父ちゃんと母ちゃんにそっくりだもん」
まだ幼い少年が必死に紡ぐ言葉は真っ直ぐすぎて、しかも内容が内容なだけに、くだらない言い合いをしていた駄目な大人2人は非常に居た堪れない。
リコリスは空を仰いでため息をついたし、ライカリスは目線をあらぬ方向に向けた。
「それで、父ちゃんはオレのことも大好きだって言ってたんだ。ライカ兄ちゃんと違って強くないけど、それでもあの時、オレのこと守ろうとしてそれで……」
そこであの光景を思い出したのだろう。ヒースは唇を噛んで、服の裾をぎゅっと握り締めた。
「だからオレ、ライカ兄ちゃんみたいに強くなりたい。ライカ兄ちゃんは強くて、リコ姉ちゃんのことちゃんと守ってやれるだろ。オレも父ちゃんと母ちゃん大好きだから、守れるくらい、強くなりたいよ」
ヒースはもう一度顔を上げ、ライカリスを真っ直ぐに、ひたむきに見つめた。
ただ命を助けられたが故の憧れではなく、まだ幼い少年が彼なりに考えて導き出した答えだったのだ。
色々おかしなところはたくさんあるが、正直つっこみたくもあるが、さすがにできない。
そうして言葉を選び、沈黙したのはリコリスだけではなかった。ライカリスも、いつの間にか扉の影に立って、こちらを窺っているヒースの両親、サフラン、カトレア夫妻も同じだ。
リコリスの訪問に気がつき、息子に後れて出てきた2人は、息子の真剣な告白を聞いて戸口のところまで下がっていった。
息子が彼らの夫婦喧嘩をどう捉えているかが浮き彫りになり、そしてそこに親として息子の心根を誇らしく思う心とがブレンドされ、揃って何ともいえない複雑な表情をしている。尻に敷かれていると言われた父、サフランなどは、更に切なさも加わっていたりして。
4人は素早く目を見交わし、意思を確認して小さく頷きあった。
リコリスがヒースの前に膝をつき、彼の肩に手を置いて、真っ直ぐに視線を合わせる。
「――分かった、ヒース。それだけ思っているなら、きっと強くなれるから」
「ホント?!」
ぱっと表情を明るくした少年に、リコリスはしっかりと頷いてみせる。
「うん。でもね、急には難しいから。無理しないで、体を鍛えて基礎を作ろう。勉強も、お父さんにしっかり見てもらってね」
「べんきょう……」
サフランは植物学者だ。また、町の薬剤師でもある。
自然の豊かなスィエルの町に研究のためにやって来て、カトレアと出会って結婚した彼は、植物についてだけでなく様々な知識が豊富な人なのだ。
ヒースにとって、これ以上の師はいない。
「何も考えず武器を振り回すだけじゃ、ただの馬鹿でしょ?」
勉強、と言われて微妙な反応を示すヒースに、リコリスは微笑む。
「だからね。本当に強くなろうと思ったら、体を強くするのと同じくらい勉強もしないと。ライカみたいになりたいんでしょ? ライカすっごい頭いいんだよ?」
頭がよすぎて、非常にあくどいのだが。ヒースのこの真っ直ぐな気性なら、ライカリスのように性格が歪むこともないだろう。
……と心の中でだけ付け加える。
しかし余計なことは言わずにおいたのに、何を感じ取ったのか、リコリスの背中に視線が刺さった。
(いやー、心読みすぎでしょ、ライカ)
そんな無言のやり取りに気づかないヒースは、リコリスの言葉を真剣に考えている。
この真面目さは暗殺者より騎士向けな気がしないでもないが、そのあたりはまだ決めなくてもいい。大きくなったヒースが自分で選ぶことだ。
「分かった。オレ両方頑張る」
「よし! そしたら、私もできる限り協力するから。――ってことで、どうでしょう」
一区切りつけて、リコリスはヒースの後ろに話を振った。
きょとんとして振り返るヒースは、そこでやっと彼を優しく見つめている両親に気がついた。
「父ちゃん、母ちゃん」
リコリスが立ち上がり一歩下がると、彼女と入れ替わりに、ヒースの肩と頭に手が置かれる。
柔らかな金茶の髪に穏やかな笑みのサフランと、明るい空色の瞳に溌剌とした雰囲気のカトレアは、まさにヒースの両親だ。
「もうお体は大丈夫ですか?」
元通りにライカリスの隣に立ったリコリスは、サフランに問いかけた。
今こうして立って歩いているから、もう問題はないのだろうが、精神的にはどうだろう。
気遣わしげな視線に、サフランは優しく微笑んだ。
「ええ、おかげさまで。助けてくれて、本当にありがとうございました。あなたの方は大丈夫ですか? リコリス」
「はい。もう何とも」
「でも病み上がりでしょう? 無理をしたら駄目よ?」
心配そうに顔を歪めたカトレアが、リコリスの手を握る。
ぎゅっと優しく力を込められ、見上げた先で、空色の瞳が潤んでいた。
「本当にありがとう、リコリス。ライカリスも。サフランとヒースを助けてくれて、本当にありがとう……っ」
「カトレアさん……」
嗚咽を漏らし始めたカトレアの肩を、サフランがそっと抱いた。
カトレアが泣く理由も分かる。夫と息子を亡くすところだったのだ。精神的なことで言えば、彼女も相当ショックを受けているだろう。
こんな時、すんなり声が出ないのがもどかしい。
言葉を探すリコリスに、サフランが静かに首を振った。
「すみません。ずっとリコリスは大丈夫か、お礼が言いたいと言い続けていたので」
「いえ……」
嫌味ならあれだけぽんぽん飛び出したのに、こんな時は本当に駄目だ。
大丈夫だから気にしないでほしいとか、無事でよかったとか、泣かないでとか、言いたいことはたくさんあるのに。
しかし、黙り込んだリコリスをに向く眼差しは穏やかで、分かっている、と伝えるようでもあった。
「――ところで、リコリス。息子のことですが」
「えっ、あ、はい」
恐らくリコリスを慮ってのことだろう。サフランが不意に話題を変えた。
心配そうに母親を見上げるヒースの頭を撫で、顔を上げたリコリスに首を傾げてみせる。
「息子の意志を尊重したいのですが、何分、私は体を動かすのは得意でないので。鍛錬となるとそちらにお邪魔させていただくことにもなるのですが、本当にいいのですか?」
「それはもちろん。――ライカも、いい?」
「ええ」
「ありがとうございます。――ヒース」
名を呼ばれ、はい、と生真面目な声で答える息子に、父は静かに問う。
「頑張れるんだね?」
「うん! オレちゃんとやる! 頑張る!」
「私はお前が私の息子であることを誇りに思うよ」
しみじみと言う声には、本当に心からの響きがった。
感動の場面に見入るリコリスに、サフランは苦笑し、まだ鼻を鳴らしているカトレアの髪を撫でた。
夫の肩に顔を伏せてしまった彼女は、どうやら泣いてしまったことを恥じているようだ。耳が赤い。
「親馬鹿ですみませんね。では、妻と相談しまして、日程などは後ほど。改めてご挨拶に伺いますので――よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
「はい、こちらこそ」
色々と予想外だったが、何とか話がまとまった。
何だかんだで家の前での立ち話になってしまったが、他の町民に見つからなくてほっとしつつ、リコリスは考える。
(――さて、次はこの拗ねちゃった奴を何とかしないと)
ライカリスがリコリスの心を読めるように、その逆もまた然り。
その感情の起伏が手に取るように分かって、彼女はこっそりため息をついた。
どうやらいじめすぎたらしい。
拗ねモードに入ってしまった相棒をどうやって宥めようか、……難題は尽きない。