第20話 スクレットの森の悪魔
しかしその空気は一瞬で吹き飛ばされた。
いくらも経たないうちに、ばん! と音をさせて家の扉が内側から開いたのだ。
「!」
当惑の中、次の行動を決められずたむろしていたリコリスたちの視線が、出てきた人物に向く。
鷹を腕に乗せたまま出てきたライカリスはまじまじと見つめられていることなど気にも留めず、頭上に障害物のない場所まで歩くと、大きく腕を振り上げた。
来た時と同じく足に紙を括りつけられた鷹は翼を広げると、ライカリスの動きに乗じて宙へと舞い上がる。
夏の強い日差しに、大きな翼がくっきりと地面に影を落とした。
羽ばたきは力強く、振り返ることもなく飛び去っていくのを、誰ひとりとして言葉を発せないまま見送った。
リコリスはライカリスをそっと観察する。もう、声をかけてもいいだろうか、と。
だが見つめる先、その表情は相変わらず不機嫌で、彼女は躊躇する。
(まいった……いや、考えすぎなんだろうけど……)
それでも先ほどの軽い拒絶のような反応が、予想以上にリコリスに驚きをもたらし、ショックを与えていた。
あの程度で、と思う。ライカリスもそんなつもりはないだろう。――でも、それでも。
ふとライカリスが困り果てた視線に気づいたのか、リコリスに顔を向け首を傾げた。
少し心配そうな色を宿した瞳は、既にいつも通りに彼女を映す。
「リコさん? どうかしましたか、難しい顔をして」
「あ、えぇと。あー……て、手紙! 返事書くの早くない?」
慌てふためき、一歩を退くリコリスを不思議そうに見、遠のいた以上の距離を縮めながら、ライカリスは問いかけに頷く。
「ああ、一言しか書いていませんから」
「一言?」
「ええ。――『死ね』と」
「………………」
これ以上ないほど輝かしい笑顔で、嘘偽りなく相手の死を願う。
これにはリコリスも、当然ながら弟子たち全員も盛大に顔を引き攣らせ、妖精たちが揃って「きゃっ」と小さく声を上げ、各々目や耳を塞いだ。
ジェンシャンに抱きしめられているウィードの毛もぶわりと逆立つ。
「……友達?」
聞くだけ無駄なことと知りつつも、念のためリコリスは訊いてみた。
案の定、ライカリスはひどく不本意そうに顔を歪める。
「まさか、あり得ません。あんな変態共――片方は隙あらば人の弱みを握ろうとしてきますし、苛々して斬りつければもう片方が喜ぶんですよ。手に負えません。友人だなんて、ご免こうむります」
「あ、ごめん。誰だか分かった」
ライカリスの知り合いで、彼と対等で、そしてそんな特殊な性癖のNPCといえば、リコリスに思い当たるのは2人だけだ。
ゲームではライカリス連れのソロが多かったリコリスが、何度も組んでいた数少ない友人。紫の髪とボンデージが特徴で、魔術師なのに杖の見た目を鞭にしていた女王様プレイヤー、ソニア。そのパートナーNPCたち。
見た目だけはいい黒髪の双子で、常にセットで動いており、『アクティブファーム』内でも珍しいことに2人揃って1人のプレイヤー――ソニアのパートナーになった。
言動が全体的にギリギリで、プレイヤーたちからは『変態悪魔』と呼ばれていた。ちなみにライカリスは『狂犬』だったが。
いかにも相性最悪そうなあの双子と、ライカリスが手紙のやり取りをしているとは、意外も意外である。
「師匠も知り合いなんスか?」
そうチェスナットに尋ねられて、リコリスは首を捻る。
「う、うーん。私の親友の……ご主人様、兼、奴隷。一言で言うならSM双子」
『……』
その場にいた人間全員が激しく微妙な表情になった。
育ちのいいペオニアなどは、特にドン引きしている。
「あー、何だっけ、通り名があったような……」
プレイヤーから与えられた『変態悪魔』ではなく、ゲーム中で正式に広まっていた呼び名。
『変態悪魔』が浸透しすぎて霞んでしまっていたが、リコリスはどうにか記憶を掘り起こす。
「えーと、『スクレットの森の悪魔』……?」
結局悪魔は悪魔なのだが。
スクレットの森とはスィエルの町から遥か遠く、高レベル帯専用の狩場の正式な地名である。
リコリスの牧場を囲む森とは雰囲気が全く違う不気味な森で、葉が生い茂り薄暗く、空は常に曇り灰色。採取物は毒草や毒キノコなど毒物のみで、夜の時間に入ろうものなら、慣れた者でも確実に迷う。
森そのものも気難しいが、当然モンスターも凶悪で、レベルが900あったとしても1人1体を相手にするのがやっとという鬼畜さだった。
件の双子は、その森の奥深くに棲みついていた。
リコリスの言葉を聞いた瞬間、またしても全員が反応を揃えた。
今度は微妙な表情どころではない。一斉に後退り、青ざめている。
「ススススス『スクレットの森の悪魔』ってっ」
「あ、あああの悪名高い……?!」
「魔女王の配下の極悪人じゃないですか!」
「指名手配犯ですよ?! しかも居場所も顔も割れてるのに、全く捕まる気配がない!」
(ああ、そうそう。そんな感じだったわぁ……)
クエストでは主にプレイヤーの邪魔をする立場だったあの双子。
魔女王と呼ばれる、やや特殊な条件下で出現するボスの手下であったが、ボスの命令などとは無関係に、むしろ趣味として要人暗殺から謎の大量殺人、疫病の蔓延など様々な事件に関わり、スクレットの森周辺クエストでは事あるごとに敵対していた。
NPCはクエストで関わった際、その時の好感度によって反応が変わってくるのだが、双子の場合は仲良くなっていると逆にやる気になって、嬉々として殺しにかかってくる。
リコリスなど何度返り討ちにしてやったか既に覚えていない。彼らを躊躇わせるのは飼い主であるソニアだけだった。
リコリスは懐かしく目を細め、そんな彼女を弟子たちが不気味そうに見る。
「師匠、その懐かしそうな反応が怖いッス」
「えー、そう?」
確かに、双子の設定は全力で極悪人の犯罪者だったから、一般人からしたらこんなものなのかもしれない。
(実物知ってる私からしたら、ただの変態のバカなんだけどなぁ)
正確にはゲームの中で、だが。
この世界で実際に遭遇……はできるだけ避けたい、とリコリスは頭を振る。
弟子たちが怯えるのとは違う理由で、絶対に会いたくない。
「――まぁ、いいや。お昼にしよ」
リコリスは考えるのをやめた。
「え、まぁいいやで済むのですか?!」
「怖ぇ……」
「だって、ライカの慌ててた理由なんとなく想像つくし。双子からの手紙であの反応なら、絶対碌なこと書いてないわ」
「いや、俺らが言いたいのはそういうことじゃなくて……」
言いたいことは分かるが、リコリスはそれでもあえて口を閉ざすことを選んだ。
人差し指を口元に当てて、僅かに声をひそめる。
「……あんまり噂してると、湧いて出ちゃうかもよ?」
『………………』
ぴたり。
そんな音が目に見えるかと思うほど、全員が動きを止め口を閉ざした。
リコリスとしても、あながち嘘ではないと思う。あの双子ならば、それもあり得ると思ってしまうのだ。
もしソニアが同じようにこの世界に来ているのならさほど問題はないが、彼女がいないとなると制御する人間がいない双子が、どれほど暴れるか想像できない。
リコリスは扱いきれない、というより疲れそうだから関わりたくないし、ライカリスも手に負えないと言った。ならば妙なフラグは立てないに限る。
「そういうことだから、お昼にしよう?」
『はい……』
7人分の首肯を受けて、リコリスも頷き返す。理解が早くて何よりだ。
「じゃあライカ、ペオニアついてきて。チェスナットたちは――」
「ういッス。牧場見てますんで」
「用意ができましたら、お声をおかけください」
そこは慣れたもので、チェスナットとアイリスが代表で返してくる。
だがいつもと違い、ジェンシャンが不意に手を上げた。
「私もそちらでいいでしょうか。ウィードちゃんのご飯を作りたいので」
「あ、うん。そうだね、よろしくジェンシャン」
「はい。――ふふふ、美味しいご飯作ってあげるからねぇ?」
豪奢な金の巻き毛の美女の、その大きな胸に抱き込まれて、ちゃん呼ばわりの完全犬扱い。
ウィードの高い自尊心をへし折るのには十分ではないだろうか。リコリスやライカリスが怯えさせるより、よほど効果的かもしれない。
それが証拠に、耳と尻尾がヘタっている。
「よかったねぇ、ウィード?」
皮肉に言ってやれば、人間の頃と同じ青い目が、恨めしげにリコリスを睨む。まだ反抗する余力はあるようだ。
それに「ふふん」と笑い返して、リコリスは踵を返した。
弟子と妖精たちが牧場へ向かうのを背に、家に入ったリコリスはふと、すぐ後ろにいたライカリスを肩越しに見やる。
殺気を纏うほどの不機嫌をもうどこにも残していない彼は、物言いたげなリコリスに首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「いや、その……」
「リコさん?」
逡巡し、俯いた顔を覗き込まれて、リコリスは言葉を選び選び、口に出す。
「さっきのさ、ライカの……あの、態度っていうか、あれ結構ショックで」
「え? あ、ああ……驚かせてしまいましたか。すみません」
「や、仕方ないのは分かってるから! あと隠し事するなとも言わないし! でもっ……でも、いきなりああいうのは、やっぱりびっくりするから……できたら、その、す、好きな人とか恋人とかできたら、早めに教えてほしいっていうか……」
「は?!」
ライカリスの切れ長の目が丸くなり、形のいい眉が跳ね上がった。
かと思ったらその驚きの表情は一瞬で掻き消え、眉間に皺が寄り、更に周囲の温度まで下がる。
「何をどうしたらそんな話になるんです? 私に恋人なんてできると思っているんですか?」
(……思わない)
と、思ってもはっきり口に出すのはいかがなものか。
それに、リコリス以外の他人をあれだけ排斥していたライカリスが、よりにもよってあの双子と定期的に手紙のやり取りをしていたのだ。あの変態たちと関わりがもてたなら、恋人もできなくはないかもしれない。
「た、例えばの話! そうなったら私邪魔だろうけど、いきなり邪険にされたらキツいから、段階踏んでねってことで」
「だからそんなこと絶対にありません。あの双子と私が親友になるよりあり得ないです」
「そ……そんなきっぱり否定しなくても……」
冷ややかな空気に気圧され、しかし退こうにも腕を掴まれていて、リコリスは眉尻を下げる。腕が痛い。
「理解してもらえるまで何度でも言いますよ? 隣にいてくれると、約束したでしょう、リコ。私から離れるなんて許しません」
じっと見据えられて、リコリスは首を竦め、顔を俯ける。
じわじわと心を染めるのは喜びだった。ライカリスの怒りはもちろん怖かったが。
「それは、私だってライカと一緒にいたいけど、……いいのかなぁ、それで」
「いいんです。何か問題がありますか? ――ああ、もう嫌なこと言わないでくださいよ。まったく……」
「えー……ごめん」
ぶちぶちと文句を言われながら、リコリスは俯き、表情を隠す。
(私の馬鹿。卑怯者っ)
自分で提案したくせに、否定の言葉をもらえて喜んでいる。嬉しいと思ってしまった。
卑怯で臆病で、こんなことを言わせて、自分の居場所を確認している救いのない愚か者。
自分を罵りながら、リコリスは必死で緩んだ口元を見られまいと、唇を噛む。
「まだ、何か?」
訝しげな視線と声が振ってきて、彼女は慌てて首を振った。
「い、いや、何も?! ――あ、ペオニア!」
「ひゃい?!」
突然声をかけられ、それまで黙って背後に控え、顔を真っ赤にしていたペオニアが飛び上がる。
「ごめん、お昼作ろう!」
「えええええ、わ、分かりましたっ」
身を翻すと、口論の際にはびくともしなかった手が簡単に外れて、リコリスはキッチンへの短い距離を跳ねるように移動した。
後ろで誰かの大きなため息が聞こえたが、聞かなかったことにする。下手に振り返って、追求されては堪らない。
リコリスはキッチンとペオニアだけを視界に入れて、作業を開始する。
背後ではジェンシャンが肩を震わせ小声で何事かを言い、ライカリスがそれを横目で睨みながら短く返すというやり取りがあったのだが、全く気がつかないまま……。




