第16話 喧嘩する心と謎の声
優先すべきを優先しただけ。そこに、良いも悪いもない。
守りたいものを守っただけ、とリコリスは自分に言い聞かせていた。
足だけが機械的に動いて、酒場へと向かう。
何かを、誰かを殺すなんて嫌だと思った。恐ろしいと。
ただこの世界に来た以上、それは避けて通れないだろうとも覚悟していた。
今思えば、その覚悟のなんと薄っぺらなことか。
まさか2日目にして人の死ぬ様を、それも己の判断で見ることになるとは想像もしなかったのだ。
(――でも)
それよりも、とリコリスは瞑目する。
人の死に深く関わったことよりも、その光景にあまりショックを受けていない自分が、彼女は信じられなかった。
首から血を噴き出して倒れる人間、濃い血の匂い、小刻みに痙攣しやがて動かなくなった身体。
それを目の前にして、リコリスの頭も心も落ち着いていたのだ。
あんな血生臭い光景に慣れるような生活はしていなかったはずだというのに。吐き気も催さず、目を逸らす必要すら感じなかった。
それが何よりショックだった。
(自分の理由を優先して人を殺した、のに……私は、)
――ただ、その理由が守られたことを安堵している。
誰かを殺すなんて嫌? 恐ろしい?
死を目の前に平然と心落ち着けながら、よくもそんなことを。
リコリスは呆然と、虚ろな目で前を歩くライカリスを見た。
それから妖精と、その腕に掴まれてもがいているローブの男を順に見つめる。
男は名をダックウィードといった。
先ほどリコリスが【沈黙薬】をかけたため、魔法の詠唱も、罵倒も、許しを請う声も音になっていない。
レベルは580。死んだ男と同様に、プレイヤーのパートナーだったのだろう。
リコリスにはそのレベル帯の知り合いがいない。
だから死んだ男が誰のパートナーだったのかは分からないが、もしその誰かがリコリスのようにこの世界にやってきても、あるいは既に来ていたとしても、もう会うことはできない。
どんな関係だったのだろうか。
パートナーNPCの好感度はクエスト、イベント、それからどれだけの時間一緒に行動したか、などが関わってくる。
リコリスとライカリスほどに親密だったということはないはずだが、500を超えるまで育っていたことを考えると、それなりだったのかもしれない。
先ほど「謝らないと」と言ったが、本当にそのプレイヤーがこの世界に来て、もう自分のパートナーがいないことを知り、リコリスの前に現れたら。
先に手を出してきたのは男の方だ。そう理解しても、納得できるだろうか。
(……私だったら……ライカ――)
ならば殺さずに済ませるべきだった?
しかしその選択肢はリコリスにはなかったのだ。あったとしても、きっと選ぶことはなかった。
これは考えるだけ無駄なこと。
あの男はもう死んでしまったのだから。
己の選んだ行動に実力が伴わず、負けて、死んだ。それだけだ。
……それだけ?
思考が虚しく空転する。
頭が勝手に、何かを考えてはそれを否定し、否定したばかりのそれを今度は肯定するような意味のない行為を繰り返して、そのうちに、リコリスはもう何を考えているのかも分からなくなり、自分が歪んでいるような気すらしてきた。
足元も覚束なくなって、石畳の僅かな段差に蹴躓きそうになる。
咄嗟に踏み止まろうとして、しかしリコリスは逆に強く地面を蹴った。
「……っ、ライカ!」
「え?」
切羽詰った声に呼び止められ、驚きの表情でライカリスが振り返る。
体半分振り向いたライカリスの首に、リコリスは強くしがみついた。それこそ、体当たりの勢いで。
「わ、っと……リコさんっ?」
何事かと困惑を滲ませながらも、ライカリスは飛びついてきた頼りない体を受け止める。
「――ごめん。5分だけ待って」
懇願は早口で。
ライカリスがどんな顔をしているのか分からないが、長い腕がリコリスの背に回り、大きな手が宥めるように優しく触れた。
妖精とダックウィードの気配がそっと遠ざかる。
ぎゅう、とリコリスは腕に力を込めた。
(何してるんだろ、私)
こんな意味にない行動に走って、これで疑われたらどうする。
そう思うのに、正体の分からない衝動がリコリスを動かした。
自分が2つに分かれているようだ、とリコリスは思う。
ライカリスに隠していることを知られ、拒絶されることに、心臓を突き刺されるような恐怖を感じる心と。
全てを知って、受け入れてほしい、と。私はここにいるのだと。泣き叫びたくなるような感情。
相反する意思が、ただライカリスと一緒にいたいという願いの中で共存している。
強く強く渦を巻く何かに翻弄されて、意思も感情もコントロールを失って、リコリスの混乱は加速していく。
――バラバラに、なる。
「ラ、ライカ、……ライカッ」
「リコさん?」
「何、これっ? 怖い、こわいっ」
「リコ。リコ、どうしたんです。ほら、落ち着いて、大丈夫ですから。……リコ?」
宥める声、背中を撫でる手。
きっと世界で一番安心できる場所にいて、それでもリコリスの意識は現実との境目を失っていく。
困惑を狼狽に変えた、ライカリスの声も、揺さぶられる感覚も遠く――。
■□■□■□■□
――ごめんなさい。
声を聞いた。
優しい声だった。
――ごめんなさい。ごめんなさい。怯えないで……あなたは悪くないのよ
声は何度も何度も謝った。
悲しげで、泣きそうで。
――悪いのはあなたではないの。あなたは優しいだけ
声はただただ謝罪を繰り返す。
――ごめんなさい、ごめんなさい……
■□■□■□■□
「――――……」
リコリスは薄く目を開けた。
ぼやけた視界に牧場にある自宅の天井と、赤い色が映って、そのことに彼女は安堵した。
「リコッ!」
目を開けた途端顔を覗き込んできたライカリスの顔色は悪く、そして目元だけが赤い。泣き腫らした目だ。
どれだけ心配させてしまったのだろう。
覆い被さるようにして抱きついてきた体にリコリスは手を回し、震える背中を撫でた。
「……ごめん、ライカ……」
絞り出した声は掠れて、喉に痛みを残した。
リコリスは全部覚えていた。
寝起き特有の倦怠感はあるが、記憶ははっきりしている。
頭がパンクしそうな感情の渦に呑まれ、ライカリスにしがみついたまま昏倒したのだ。
ただ、今はあの時の混乱すら冷静に省みられるほど、リコリスの頭は落ち着いていた。
リコリスの中でぶつかり合っていた感情――激情が、今は何事もなかったかのように……むしろ倒れる前より矛盾なく、ひとつに重なったような。
一眠りしてすっきりした、というレベルではない。
(もしかして……あの声が何か)
夢と決めてしまうには鮮やかすぎる、あの声。
普通、あの状況でああも意味深に聞こえる声というのはもっと朧げで、薄らと覚えているくらいがセオリーだとリコリスは思っていたのだが、全くもってそのようなことはなく、しっかりと彼女に記憶に残っている。
正体不明であるところは、見事にお約束なのだが。
リコリスは吐息を零した。
考えても分からないし、仕方がない。
あれだけぐるぐると考え込み、泣き叫びそうなほど取り乱しておいておかしな話だが、あの襲撃者よりも、あの声よりも、今は目の前で泣いている男が気にかかる。
嗚咽を堪えているライカリスの髪を、何故か全く力の入らない手でどうにか梳くと、彼女の肩口に伏せられていた顔がゆるゆると上がる。
例によってぱたぱたと雫が降ってきた。
「ホント、ごめんね……なんか、泣かせてばっかり、で」
泣き虫、とからかったことを、リコリスは後悔している。
この男が涙を見せるのは、リコリスの身に何かあった時だけなのだ。
いくら仕返しだったとはいえ、あんまりな仕打ちだった。
「――リコ、リコ。よかった……もう、目を覚まさないんじゃないかと……」
涙を拭いながら、怖かった、と悲痛な声が告げる。
「……ごめん」
「何回呼んでも眠ったままで――3日も……っ」
「み……」
(みっか……3日?!)
唐突な情報に愕然とする。
(5分待ってとか言ったくせに、3日っ?!)
道理で体が異様に重たいはずだ。
慌てて起き上がろうとするが、そんな体力がなかった。手や首を少し動かすくらいが限界だ。
それでもリコリスが焦ったように身じろぐと、ライカリスは彼女を抱く腕に力を込めた。
「い、いけません、そんな急に動いたら」
「だって」
気になることが多すぎる。
真っ青な顔のライカリスはもちろん、町の人々のこと、捕らえた男のこと、牧場のこと。
少し眠っただけだと思っていた。
それなのに、どうして、3日も。
「町の人は皆さん無事です。あなたが倒れた後も妖精たちは消えませんでしたから、怪我人も全員治療されましたし、今も町を守ってくれています」
皆、無事。その言葉に、リコリスはひとまず安堵して動きを止めた。
「牧場も、家妖精とチェスナットさんたちが見てくれていたので、変わりありません。それに、ほら。私が壊してしまった扉ですが……あれも直してもらえましたよ」
見えますか、とリコリスの首の下に手が差し込まれ、それを助けに体が少しだけ起こされる。
頭をライカリスの胸に半ば預けるようにして見た家の出入り口には、言葉の通り真新しい扉が納まっていた。
「あ、ホントだ」
「サイプレスさんが来てくれたんです。それと、姉さん夫妻も。皆リコさんを心配していました」
「後でお礼に行かないとね。……あと、謝らないと」
再び枕に頭を沈めて、リコリスは嘆息した。
あの大変な時に、役に立たなかったどころか、倒れて迷惑をかけてしまった。
「あなたには何も非はない。あなたの妖精がいなければ、死者が出ていたかもしれないんです」
「でも」
「気負いすぎです。責任を負うような立場でもないでしょう。そもそも謝るべきはあなたではないんですから」
諭す声に苦々しさが混ざる。
「――あの神官は」
「……捕らえてありますよ。【沈黙薬】の効果が切れず何も聞けていないので、とりあえず町外れの小屋に転がしてあります。妖精が見てくれています」
一気に室内の温度が下がった気がして、リコリスは微かに体を震わせた。
ライカリスの顔を直視する勇気がない。
それをどう捉えたのか、ライカリスが更に不機嫌な、というより怨念の固まりかというような空気を纏って、リコリスを見下ろした。
「正直あんな輩、今すぐにでも始末してやりたいです。けどね、」
吐き捨てるように、忌々しげに言う。
「でも、リコさんの様子がおかしくなったのが、最初にあの男を殺してからなので……もしそれが倒れた原因なら、その仲間も安易に殺してはいけない気がして」
眉根を寄せて、問いかける視線を向けられて、リコリスは少し考えた。
ライカリスが疑問に思うのも無理はない。
散々敵を殺してきたゲームの、その延長らしいこの世界。殺人が恐ろしいなどという理由は今更すぎて、ずっと行動を共にしてきたライカリスは思い至らないのだ。
それはリコリスにとっては幸いだったが、それ故に生まれる疑惑には答えなければいけないだろう。
「……あの時、あの男のパートナーに謝らないと、って言ったよね、私」
「ええ」
「あの男も、仲間の神官もね、一緒に行動してた仲間がいたんだよ。多分2年前まで」
「牧場主さんのことですよね、あなたと同じ。パートナーの有無は私には分かりませんでしたが、まさか謝るって――その方、リコさんのお知り合いでしたか」
「いや全然。あの2人のことも知らないし」
『アクティブファーム』ではNPCが多すぎて、リコリスでも全ては把握しきれていなかった。プレイヤーも当然そうだ。
まさか殺した相手がリコリスとなんらかの繋がりがあったのかと不安そうな顔をしたライカリスに、そうではないと首を振る。
「そうじゃなくて。この先その人がこの世界に戻ってきたら、もしかしてもう戻ってきてたら、ってちょっと考えたの」
それ以外にも色々とあったが、それは言えないので省略する。
「パートナーってことはさ、私とライカみたいな関係でしょう? 同じではないだろうけど。もし、戻ってきてそういう人が殺されてたら」
「考えすぎです」
すぱっと、ひどく呆れた声とため息に、リコリスは言いかけた言葉を遮られた。
幾分空気を和らげたライカリスが、リコリスの前髪を掻き上げる。
「まぁ、言いたいことは理解できますが。無意味ですよ、そういう仮定の話は。そんなことを考えて倒れたんですか?」
「だって。私はライカがすごく大事だし、その」
「だから考えすぎですって」
「う、そうだよね。考えすぎで、いつの間にか頭の中ぐるぐるなっちゃったよ」
リコリスの前髪を指先で弄ぶライカリスは、既に先ほどの尖った気配を完全に引っ込めて、苦笑することしきりだった。
まだ涙の気配が色濃く残る瞳が、微笑みながらも、切なそうに細められる。
「心配してくれるのは嬉しいですが、私は一応弱い方ではないですし、簡単に死んだりしませんから。むしろリコさんの方が心配ですよ? ……本当に、心臓が止まるかと思いました」
「ご、ごめん……」
「いつだってあなたの隣にいますから、だからもっと頼ってください。せめて、あんな状態になる前に。馬鹿なことを考えていたら、ちゃんと止めてあげます」
「……頼もしいなぁ」
でももう、あんな風に悩むことはきっとない。
あの混乱は、もうリコリスの中に残っていない。今はもう不自然なほどに自然に、あの出来事を、死を、受け入れられる気がした。
プレイヤーとパートナーのことを考えるとまだ若干凹みそうになるが、優しく髪を撫でる大きな手が、その不安を抑えてくれる。
ほう、とリコリスは目を閉じて、その感触だけに集中しようとして……、
『ぎゃあああああああああああああっ!!』
「?!」
「……」
とても聞き覚えのある声が、部屋に飛び込んできて、リコリスは目を見開いた。
それは以前お仕置きした時よりもけたたましい悲鳴だった。