地味な礼装係ですが、王宮の敷石は私の歩幅でできております
「殿下、本当に、アリス様でよろしいのですか?」
3年、同じ声が、同じ茶会の卓で、跳ねた。
トリシア・バーンリー子爵令嬢。
「殿下のお隣にお立ちになる方が、そのように地味で、厳しくて、面白みがない方で——殿下があまりにも、お可哀想ですわ」
くすくすと、取り巻きの令嬢たちが追従する。
3年、毎回、同じ台詞だった。語尾だけが、少しずつ、厳しくなっていく。
3年、殿下は、ただの1度も、わたくしを、トリシア様から、お守りにならなかった。
「わたくしは、ただ、殿下のお幸せを、願っているだけですのよ。誤解なさらないでくださいませね、アリス様」
トリシア様は、目尻を柔らかく下げて、微笑んだ。
——善意で、いらっしゃるのですね。
わたくしは、それが、1番、困るのですわ、トリシア様。
私——アリス・ラングレー伯爵令嬢は、紅茶に浮かぶ薄い湯気を見つめたまま、磁器を2度、親指の腹でなぞった。
(3度なぞれば、それは怒りの合図。今日はまだ、2度でよろしい)
(それにしても、面白みがない、というのは、たぶん、正解ですわね。わたくしは、面白くあろうとしたことが、生まれてこのかた1度もございませんから)
隣席の婚約者、セドリック・アルフォート王太子殿下は、カップを傾けたまま、動かなかった。
カップを置く音は、しなかった。
(殿下、お答えになられませんのね。——そちらも、3年、正解ですわ)
「まあ、トリシア様。仮にも殿下の御前で、殿下の御婚約者を——」
侍女のメリッサが、茶菓の皿を下げながら、にこやかに口を挟んだ。
「——いえ、失礼いたしました。きっと、殿下の御前だからこそ、そのような、勇気あるご発言をなさっていらっしゃるのでございますわね」
「そ、そうよ、その通りよ、メリッサ」
「ええ、本当に。知らないというのは、恐ろしいくらい、勇気がございますもの」
「……え」
メリッサの腹黒さについては、わたくしは、もう3年、目をつぶっている。
「それよりも、殿下」
トリシア様は、気を取り直したように、セドリック殿下の袖に、白い指先をかけた。
「わたくし、殿下にはもっと、華やかで明るい方がお似合いだと思いますのよ。ですから——」
彼女は、にこりと、微笑んだ。
「今度の建国記念夜会、わたくしに、仕切らせてくださいませ」
殿下は、カップを置いた。
かちゃり、と、磁器が茶托に当たる音は、正確に、常の1度きり。
「——トリシア」
「はい、殿下」
「いいだろう。任せよう」
場が、凍った。
わたくしは、磁器をなぞる指を、静かに、止めた。
殿下は、わたくしのほうを、見なかった。
ただ、立ち上がる前に、1度だけ——
わたくしの左の、袖口を、見た。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「アリス様。よろしいのですか」
自室に戻ったあと、メリッサの腹黒い微笑みは、消えていた。眉を寄せて、わたくしを見ている。珍しいことだった。
「よろしいも何も。殿下がそうお決めになったのです」
「殿下は、きっと何か、お考えがあってのことですわ」
「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。3年、わたくしは、殿下のお考えが、わかりませんから」
「アリス様」
「メリッサ」
わたくしは、書き物机についた。
「引き継ぎ資料を、お作りいたしますの。トリシア様に、お渡ししなくては」
王宮礼装係筆頭補佐——というのが、わたくしの公の肩書きだった。
表向きは、夜会衣装の手配を取り仕切る係。
だが、実態は、少し、違う。
王宮大広間、玉座前の敷石、240枚。
あれは、わたくしの歩幅で、切られている。
正確には、わたくしの曾祖母、ラングレー伯爵家初代の王宮礼装係長官の歩幅で切られ、それが代々、ラングレー家の娘に、引き継がれてきた。1歩1歩が、1枚の敷石にちょうど乗るように、王族と高位貴族の入場導線が、その寸法で、設計されている。
玉座前まで、24歩。
王妃の裾のさばきは、12歩目で、右に1度、流れる。
来賓の並び順は、王国旗の赤を基準に、東西に左右対称。衣装の色味は、18色までなら視認され、それ以上は、混ざって、見える。
夜会は、美しさの集合ではない。
動きの設計、なのだ。
そして誰も——本当に、誰1人として——そのことを、知らない。
(お母さま)
わたくしは、筆を、止めた。
(わたくしが5つのとき、お母さまはわたくしを王宮の大広間にお連れになって、仰いましたわ)
(「アリス、ここから玉座まで、お母さまの歩幅で、24歩よ」)
(「そして、あなたが大人になる頃には、あなたの歩幅で、また、24歩になるのよ」)
(——わたくし、最初、意味が、わかりませんでしたの)
(敷石は、24枚、決まっているものではないのですか、と伺いましたら、お母さまは、少しだけ、お笑いになりましたわ)
(「アリス。敷石は、あなたの歩幅で、切り直されるのよ。ラングレーの娘が、次の王宮礼装係長官になるとき」)
——お母さまは、3年前の春に、お亡くなりになった。
わたくしが、殿下の御婚約者に、なった、その、半年後のこと。
つまり、わたくしは、王宮の敷石を、3年、1人で、数えてきた。
(お母さま。今日、わたくし、数えるのを、誰かに、任せます)
(……いいのでございましょうか)
(——いえ、お答えは、きっと、「いいえ」でございますね)
わたくしは、筆を、取り直した。
書き続けた。
『1、玉座前広間の敷石、歩幅1.3フィートを基準とする』
『2、王妃の衣装の袖丈は、玉座昇段の手すりに接触せぬ寸法を厳守』
『3、来賓の入場順は、王国旗の赤を基準に、東西左右対称』
『……』
38項目。
それを書き終えるのに、夜半までかかった。わたくしは、自分が何を書いているのかを、書きながら、初めて、文字として、知った。
『38、万が一、これらの寸法に誤りが生じた場合、夜会は、成立しない』
窓の外で、何かが、通った。
わたくしは、顔を上げた。が、窓の外は、もう、暗かった。
翌朝。
庭師の老人が、紅茶を運んできたメリッサに、こう言ったと、メリッサはわたくしに伝えた。
「昨夜、殿下が、馬を引いて、お嬢様の窓の外を、3度、通られておりました」
わたくしは、紅茶を、淹れた。
「……何でしょうね」
「何でしょうね、アリス様」
磁器を、親指の腹で、2度、なぞった。
(2度目。……殿下、少し、怒っておりますのよ、わたくし)
(3年、お守りにならなかったのですから、今さら、馬で、いらっしゃっても)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
建国記念夜会、当日。
わたくしは自室で、灰藤色のドレスを、着ていた。
招待は、届いていた。だが、仕切りはトリシア様のもの。出席しても、わたくしの居場所は、ない。
「アリス様、出られないのですか」
「出ます。ただ、少し、遅く、参ります」
メリッサが、不思議そうな顔をした。
「トリシア様は、引き継ぎ書を、お読みになったでしょうか」
「読まれたと、思いますよ。ただ——」
わたくしは、窓の外を見た。城館の石畳を、招待客の馬車が、通っていく。
「——38項目は、たぶん、『厳しすぎる』と、お思いになったでしょうね」
メリッサが、静かに、笑った。
腹黒く、ではなく、少し、悲しそうに。
「アリス様」
「ええ」
「今日は、少しだけ、お泣きになっても、よろしゅうございますわ」
わたくしは、メリッサを、見た。
——メリッサは、こういうことは、言わない女だった。
「……メリッサ、あなた、何を知っていますの」
「何も。ただ、庭師の老人が、もう1つ、言っていただけですの」
「何と」
「殿下が馬を引いておられた夜、窓の外で、1度だけ、殿下が立ち止まって——」
メリッサは、静かに、微笑んだ。
「——袖口を、3度、絞っておられたそうですわ」
わたくしは、磁器を、置いた。
そして——自分の、左の、袖口を、見た。
(……殿下も、3度、絞られるのですね)
(わたくしと、同じ、場所を)
指先で、1度だけ、そっと、自分の袖口に、触れた。
(3年、わたくし、見られていた、のですね)
(——気づいて、いませんでした)
(殿下も、……緊張していらしたのですね)
(3年、沈黙されていた方が、何を、緊張されるというのでしょう)
(——わからない。わたくしには、まだ、わかりません)
(ただ、1つだけ)
(わたくしは、3年、1人で、立っているつもりで、1人では、なかった)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
わたくしが王宮に着いたのは、夜会開始から40分後、だった。
大広間の扉の前で、靴音が、止まっていた。
王族の入場が、始まっているはずの時刻に、誰も、動いていない。
扉の隙間から覗くと、玉座前、王妃殿下の裾が、3段目の昇段で引っかかっていた。袖が、手すりの金具に、絡んでいる。
そして、そのすぐ後ろ——
王陛下が、玉座前で、半歩、ずれていた。
敷石の目地の真上に、足を置いてしまっている。王族の長は、敷石の中央に立たなければならない。さもなくば、入場の拝礼が、できない。
玉座前24歩が、23歩と半で、終わっていた。
誰かが、敷石を、1枚、入れ替えた。
「わたくし、玉座前の敷石が、少し殺風景でしたから、真ん中に、大理石を、はめ込んでおきましたのよ。いかがでしょう、殿下。華やかで、よろしゅうございましょう?」
広間の中央で、トリシア様の、軽やかな声が、響いていた。
(……)
(大理石をはめ込んだから、視線が集まる、なのですわね)
(——それは、華やかにしてはいけない場所ですのよ、トリシア様)
(視線が集まるから、敷石の寸法を、1ミリも、ずらしてはならない場所なのですわ)
来賓の衣装は、18色を、とうに超えていた。紫と金で統一されたトリシア様の装飾は、それ自体は、美しかったが——王国旗の赤を背景にすると、色が、死んで、見えた。
東の貴族席では、白髪の老公爵夫人が、扇を、ゆっくりと、閉じられた。
北の来賓席では、隣国の大使が、懐のノートを、無意識に、開いていた。
南の若い男爵が、口を、小さく、開けた。が、言葉には、ならなかった。
誰も、動かなかった。誰も、動けなかった。
3年、誰も、言葉にできなかった「何か」が、今夜、ようやく、目に見える形で、現れていた。
そして——
トリシア様は、玉座前で、立ち尽くしていた。
「……殿下、これは……」
彼女は、セドリック殿下のほうを、振り向いた。
殿下は、動かなかった。
ただ、大広間の扉のほうを、見ていた。
わたくしが、立っているほうを。
「——ラングレー嬢」
殿下の声が、広間に、通った。
「君の歩幅で、王妃殿下を、お助けできるか」
わたくしは、1度、息を、吸った。
(数えましょう)
12歩目。王妃殿下の裾は、右に、1度、流れるはず。
わたくしは、袖口を——3度、絞った。
(今日は、怒りでは、ございません)
(今日は、仕事でございます、殿下)
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
わたくしは、広間に、入った。
灰藤色のドレスの裾を、右手の親指と人差し指で、1ミリだけ、摘まみ上げる。
——敷石の1枚目。
2歩目。3歩目。
(母の歩幅と、わたくしの歩幅は、等しい)
(だから、24歩で、玉座に、着く)
12歩目。
わたくしは、王妃殿下の、裾の、わずかに引っかかった位置を、見た。
右手を、伸ばす。人差し指の先で、手すりの金具に絡んだ絹糸を、1本だけ、外す。
金具の角度は、30度。絹糸の織りは、斜めに交差している。触る指の腹は、親指ではなく、人差し指の、第2関節の内側。
——7秒で、王妃殿下の袖は、手すりから、離れた。
わたくしが袖を外し終えた瞬間、王妃殿下は、わたくしにだけ、聞こえる声で、こう仰った。
「ありがとう、アリス」
——王妃殿下は、わたくしの名前を、ご存じで、いらしたのですね。
「いえ、殿下。お待たせを」
「待ってなど、いないわ」
王妃殿下は、玉座のほうを、静かに、見られた。
「——あなたが来ることを、わたくしも、3年、知っていたもの」
わたくしは、顔を、上げた。
王妃殿下は、わたくしを、見て、微笑まれた。
「わたくしの曾祖母も、ラングレー家の娘だったのよ、アリス」
——息が、止まった。
王妃殿下は、それ以上、何も、仰らなかった。
わたくしは、ただ、膝を、折った。
3年、誰も、教えてくれなかった秘密が、いま、王妃殿下の、たった1言で、明かされた。
——王家は、代々、知っていたのだ。
ラングレーの娘の、歩幅で、敷石が、切られていることを。
そして、3年、沈黙で、それを、守ってきたのだ。
入れ替えられた大理石を、元の敷石に戻すのに、2人の侍従を呼んで、20秒。
わたくしは、王陛下の、立ち位置に、目を、向けた。
王陛下の靴の、つま先が、敷石の目地の、わずか2ミリ上に、乗っている。
わたくしは、何も、申し上げなかった。
ただ、陛下の視線の先に、1歩、進み出た。
陛下は、わたくしと、目が、合った。
1度、短く、頷かれた。
そして、半歩、お下がりになった。
——声ではなく、目線だけで、3秒。
陛下も。
——ご存じで、いらしたのですね。
王家の皆さまは、3年、黙って、わたくしを、数えていらした。
来賓の衣装の視認色を整えるのに、東の貴族席の夫人がたに、「申し訳ございません、お手袋を、お外しいただけますか」と、それぞれ、5秒ずつ。
合計、約1分。
1分で、大広間が、正しい動きを、取り戻した。
わたくしの手袋の、左の親指の付け根と、右の小指の外側が、灰色に、汚れていた。
——3年分の、汚れではない。
1分の、汚れだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
トリシア様が、広間の中央から、退く必要があった。
彼女の位置は、本来、東の5列目。北の来賓席と、東の貴族席の視線が交差する、ちょうどその1点——最も、誰からも、見られる場所に、いた。
だが、わたくしは、彼女の名前を、呼ばなかった。
ただ、彼女の横を通るときに、1度だけ、立ち止まった。
「……トリシア様」
「な、何ですの」
「敷石を、1枚、動かされましたね」
「そ、それは、その、もっと、華やかに、見えるようにと——殿下の、お幸せのためですわ」
「ええ、華やかで、ございましたわ」
わたくしは、微笑んだ。
(——これが、3度目ですね)
指が、磁器をなぞる代わりに、スカートの横で、小さく、動いた。
「ただ、華やかさには、歩幅が、必要ですの」
「歩幅?」
「わたくしの歩幅しか、知らない敷石で、ございますので」
トリシア様の顔から、色が、引いた。
彼女は何も、言い返せず、広間の端へと、下がった。
——下がったその先が、どの敷石の中央でもない、目地の上であることに、彼女は、まだ、気づいて、いなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
夜会が、進んだ。
王妃殿下が玉座に座られ、王陛下が起立され、来賓の拝礼が順序どおりに行われ、建国の詩が、朗読された。
その間、わたくしは広間の北側、柱の陰に、立っていた。
——灰藤色のドレスは、柱の石色と、よく、馴染んだ。
朗読が終わったとき、セドリック殿下が、柱の陰の、わたくしの前に、立った。
手に、白い手袋が、2枚。
「ラングレー嬢」
「はい、殿下」
(間)
「——本当は、あの茶会のとき、俺は、怒っていた」
「殿下?」
「トリシアが、君を地味で厳しく面白みがないと言ったとき、俺は、君を、擁護すべきだった。だが、しなかった」
「——殿下、それは」
「3年、君を、守らなかった理由が、1つだけ、ある」
殿下の声が、低くなった。
「俺が、先に、君を守れば——王宮は、君の歩幅を、知らないまま、回り続ける」
「……」
「王家に守られた者は、記号にしかなれない。だから、俺は、君が、自分の歩幅で、立ち上がるのを、待っていた」
「——3年も、ですか」
「3年、待った」
殿下の声が、少しだけ、かすれた。
「許してくれ、とは、言わない。ただ、聞いてほしかった」
殿下は、白い手袋を、差し出された。
「これは、詫びの品、ではない。むしろ、逆だ。君が、3年、王宮の敷石を、1人で、数えてきたことへの——」
殿下の声が、もう1度、かすれた。
「——遅すぎた、記録だ」
わたくしは、手を、出した。
受け取るときに、殿下の指が、わたくしの指に、1瞬だけ、触れた。
殿下の指は、少しだけ、冷たかった。
「……ありがとう、ございます」
声が、1度だけ、詰まった。
右手の薬指が、小さく、震えた。
(——ああ、数えるのを、やめてしまった)
敷石を数える癖を、わたくしは、ここで、初めて、止めた。
(お母さま。今日、わたくし、数えるのを、やめましたの)
(……少しだけ、恥ずかしゅう、ございます)
(それから——お母さま。お母さまのお墓の前の敷石も、わたくし、曾祖母さまの歩幅で、切られていたのだと、たぶん、お気づきでいらしたのでしょうね)
殿下が、1歩、近づかれた。
「3年前の夜会」
「……はい」
「雨が、降っていた」
わたくしは、殿下を、見た。
「君は、玉座前で、24歩で、止まった。新入りの侍従が、敷石を1枚、ずらしていた。君はそれに気づいて、1度だけ、静かに、数え直した。——雨粒が、君のドレスの、左の肩だけに、5粒、落ちていた」
「……殿下、それを、覚えて、いらしたのですか」
「いいや」
殿下は、柱の陰で、少しだけ、笑われた。
「——俺はあの夜、玉座の陰で、君の歩幅を、一緒に、数えていた」
わたくしは、——息を、する、方法を、一瞬、忘れた。
吸うべきか、吐くべきか、わからなかった。
(……ああ)
(わたくしも、3年、殿下の、沈黙を、数えて、おりました)
(殿下が、わたくしをお見つめにならない、その沈黙の、深さを)
(——お互い、数えて、おりましたのね)
「君の手袋は、左の親指の付け根と、右の小指の外側が、必ず、先に、汚れる。裏で、何を持っているかが、それで、わかる」
「……」
「そして、君は、緊張すると、左の袖口を、3度、絞る」
殿下の声が、少し、柔らかく、なった。
「今日は、まだ——2度しか、絞っていないな」
わたくしは、左の袖口を、見た。
確かに、まだ、2度だった。
「俺はな、ラングレー嬢」
殿下は、わたくしの目を、見た。
初めて、その夜、殿下は、わたくしの目を、まっすぐに、見た。
「——君の歩幅しか、知らないんだ」
(間)
「華やかな女性の歩幅を、俺は、知らない」
「覚える気も、ない」
「君の歩幅でしか、入れない扉がある」
「君の手袋の汚れでしか、わからない所作がある」
「——そして」
殿下は、1度、息を、吸われた。
「君が、左の袖口を、2度で、止めた夜。3度目に、行かなかった夜。——その夜を、俺は、3年前の雨から、1度も、忘れたことが、ない」
「あの茶会で、俺が最後に見たのも、君の、2度だけ、絞られた、左の袖口だった」
「——君は、あの場で、怒ることを、自分で、選ばなかった」
「俺は、その選択を、3年、見ていた」
「君の、その静かな『怒らない』が——たぶん、俺のいちばん、好きなところだ」
わたくしは、手袋を、両手で、受け取った。
受け取ったまま、顔を、上げられ、なかった。
薬指が、もう1度、震えた。
(……泣くのは、淑女らしくないのですが)
(……でも、今日は、少しだけ、よろしいでしょうか)
「——ラングレー嬢」
「はい、殿下」
「今日は、3度、絞っていい」
わたくしは、袖口を、見た。
それから、殿下を、見た。
絞らなかった。
——代わりに、1度だけ、俯いた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
王陛下の言葉が、広間に響いたのは、その直後だった。
「王宮礼装係の職務規定を、本日、改める」
来賓が、静まった。
北の来賓席では、隣国の大使が、懐から、銀の鉛筆を取り出して、小さく何かを、書き留めた。
東の貴族席では、ラングレー家の遠縁の老伯爵が、1度だけ、深く、頷かれた。
そして、広間の西の隅では——
トリシア・バーンリー子爵令嬢の父、バーンリー子爵が、娘を、見ていた。
それは、父が、娘を見る目ではなかった。
雇った者を、解雇するときの、上役の、目だった。
「玉座前広間の敷石寸法を、ラングレー伯爵令嬢アリスの歩幅、1.3フィートを基準とし、以後、王室布告により、永久に、この基準を維持する」
王陛下は、わたくしを、見られた。
「ラングレー嬢が3年、数えてきた歩幅を、1度でも、軽んじた者は——」
王陛下は、広間を、ゆっくりと、見渡された。
その視線は、最後に、広間の西の隅で、止まった。
「——この宮に、ふさわしく、ない」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
トリシア・バーンリー子爵令嬢は、その夜、王宮を、退出された。
わたくしは、柱の陰から、見ていた。
彼女の歩幅は、バラバラだった。
広い歩幅と、狭い歩幅が、交互に、続いていた。
そして、彼女の靴のつま先は、敷石の目地の上を、踏み続けていた。
1歩ごとに、目地を。
もう1歩ごとに、また、目地を。
——誰も、彼女に、それを、教えなかった。
彼女が王宮の大扉を出るまでの、24歩。
その間、王宮の誰1人として、彼女の歩幅に、合わせなかった。
——彼女は、きっと、一生、自分が何の上を踏んで、何から外れたかを、知らないまま、生きるのだろう。
わたくしは、ただ、静かに、その24歩を、数えた。
彼女の名前が、社交界の招待状から消えるのに、1か月、かからなかった。
——王宮の敷石に、合わない歩幅の者を、招く会場は、どこにも、なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後。
ラングレー伯爵家の応接室に、セドリック殿下が来訪された。
手に、小さな、包みが、あった。
「何でございますか、殿下」
「手袋だ」
わたくしは、受け取った。絹の、白い手袋。
左の親指の付け根に、わずかに、刺繍が、施されていた。
ラングレー家の紋章と、王家の紋章が、重ねて、縫われていた。
「汚れる場所に、先回りしておいた」
「……ありがとうございます」
わたくしは、手袋を、机に、置いた。
窓の外を、見た。
石畳が、きちんと、1.3フィート刻みで、並んでいた。
殿下が、横に、座られた。
「ラングレー嬢。紅茶を、淹れてくれるか」
「はい、殿下」
紅茶を、淹れた。
茶葉の匂いが、湯気に乗って、立ち上がった。
——ラングレー家で代々使ってきた、少し、渋めの茶葉だった。お母さまが、最後に、お淹れになった日と、同じ、茶葉だった。
磁器を、親指の腹で、1度だけ、なぞった。
——2度では、なく、1度だった。
「茶菓子は、何か、お持ちいたしましょうか、殿下」
「いらん」
殿下は、即答された。
「——君の紅茶だけで、いい」
わたくしは、湯気を、少しだけ、見た。
「殿下」
「ん?」
「わたくし、今日から、磁器を、1度しか、なぞらないことに、いたしましたの」
「2度目は、どうした」
「2度目は、怒るときの合図でしたから」
「——もう、怒らないのか」
「わたくし、地味で、厳しくて、面白みがございませんので」
わたくしは、殿下を、見た。
「怒る必要が、ございませんの」
殿下は、少しだけ、笑われた。
「——地味でいい」
殿下は、言われた。
「その地味さで、俺は、3年、歩けた」
「——厳しくて、いい」
殿下は、紅茶を、口に、運ばれた。
「その厳しさで、王宮の敷石は、1ミリも、ずれずにいる」
殿下は、カップを、置かれた。
「ラングレー嬢」
「はい、殿下」
「君の数え方を、俺にも、教えてくれ」
わたくしは、顔を、上げた。
「……殿下も、数えられるのですか」
「ああ。3年、1人で、数えさせた。これからは、2人で、数えよう」
——紅茶の湯気が、わずかに、揺れた。
湯気越しに、殿下の指が、わたくしのカップの縁に、1瞬、触れた。
そして、離れた。
……それで、十分、だった。
わたくしは、殿下のほうへ、少しだけ、身体を、傾けた。
窓の外で、石畳の上を、誰かが、通っていった。
歩幅は、1.3フィート刻みだった。
殿下の、ものだった。
——そして、わたくしの、ものでも、あった。
【作者から読者様へお願いがあります】
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「面白い!」
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