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地味な礼装係ですが、王宮の敷石は私の歩幅でできております

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/25

「殿下、本当に、アリス様でよろしいのですか?」


 3年、同じ声が、同じ茶会の卓で、跳ねた。


 トリシア・バーンリー子爵令嬢。


「殿下のお隣にお立ちになる方が、そのように地味で、厳しくて、面白みがない方で——殿下があまりにも、お可哀想ですわ」


 くすくすと、取り巻きの令嬢たちが追従する。


 3年、毎回、同じ台詞だった。語尾だけが、少しずつ、厳しくなっていく。


 3年、殿下は、ただの1度も、わたくしを、トリシア様から、お守りにならなかった。


「わたくしは、ただ、殿下のお幸せを、願っているだけですのよ。誤解なさらないでくださいませね、アリス様」


 トリシア様は、目尻を柔らかく下げて、微笑んだ。


 ——善意で、いらっしゃるのですね。


 わたくしは、それが、1番、困るのですわ、トリシア様。


 私——アリス・ラングレー伯爵令嬢は、紅茶に浮かぶ薄い湯気を見つめたまま、磁器を2度、親指の腹でなぞった。


(3度なぞれば、それは怒りの合図。今日はまだ、2度でよろしい)


(それにしても、面白みがない、というのは、たぶん、正解ですわね。わたくしは、面白くあろうとしたことが、生まれてこのかた1度もございませんから)


 隣席の婚約者、セドリック・アルフォート王太子殿下は、カップを傾けたまま、動かなかった。


 カップを置く音は、しなかった。


(殿下、お答えになられませんのね。——そちらも、3年、正解ですわ)


「まあ、トリシア様。仮にも殿下の御前で、殿下の御婚約者を——」


 侍女のメリッサが、茶菓の皿を下げながら、にこやかに口を挟んだ。


「——いえ、失礼いたしました。きっと、殿下の御前だからこそ、そのような、勇気あるご発言をなさっていらっしゃるのでございますわね」


「そ、そうよ、その通りよ、メリッサ」


「ええ、本当に。知らないというのは、恐ろしいくらい、勇気がございますもの」


「……え」


 メリッサの腹黒さについては、わたくしは、もう3年、目をつぶっている。


「それよりも、殿下」


 トリシア様は、気を取り直したように、セドリック殿下の袖に、白い指先をかけた。


「わたくし、殿下にはもっと、華やかで明るい方がお似合いだと思いますのよ。ですから——」


 彼女は、にこりと、微笑んだ。


「今度の建国記念夜会、わたくしに、仕切らせてくださいませ」


 殿下は、カップを置いた。


 かちゃり、と、磁器が茶托に当たる音は、正確に、常の1度きり。


「——トリシア」


「はい、殿下」


「いいだろう。任せよう」


 場が、凍った。


 わたくしは、磁器をなぞる指を、静かに、止めた。


 殿下は、わたくしのほうを、見なかった。


 ただ、立ち上がる前に、1度だけ——


 わたくしの左の、袖口を、見た。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「アリス様。よろしいのですか」


 自室に戻ったあと、メリッサの腹黒い微笑みは、消えていた。眉を寄せて、わたくしを見ている。珍しいことだった。


「よろしいも何も。殿下がそうお決めになったのです」


「殿下は、きっと何か、お考えがあってのことですわ」


「そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。3年、わたくしは、殿下のお考えが、わかりませんから」


「アリス様」


「メリッサ」


 わたくしは、書き物机についた。


「引き継ぎ資料を、お作りいたしますの。トリシア様に、お渡ししなくては」


 王宮礼装係筆頭補佐——というのが、わたくしの公の肩書きだった。


 表向きは、夜会衣装の手配を取り仕切る係。


 だが、実態は、少し、違う。


 王宮大広間、玉座前の敷石、240枚。


 あれは、わたくしの歩幅で、切られている。


 正確には、わたくしの曾祖母、ラングレー伯爵家初代の王宮礼装係長官の歩幅で切られ、それが代々、ラングレー家の娘に、引き継がれてきた。1歩1歩が、1枚の敷石にちょうど乗るように、王族と高位貴族の入場導線が、その寸法で、設計されている。


 玉座前まで、24歩。


 王妃の裾のさばきは、12歩目で、右に1度、流れる。


 来賓の並び順は、王国旗の赤を基準に、東西に左右対称。衣装の色味は、18色までなら視認され、それ以上は、混ざって、見える。


 夜会は、美しさの集合ではない。


 動きの設計、なのだ。


 そして誰も——本当に、誰1人として——そのことを、知らない。


(お母さま)


 わたくしは、筆を、止めた。


(わたくしが5つのとき、お母さまはわたくしを王宮の大広間にお連れになって、仰いましたわ)


(「アリス、ここから玉座まで、お母さまの歩幅で、24歩よ」)


(「そして、あなたが大人になる頃には、あなたの歩幅で、また、24歩になるのよ」)


(——わたくし、最初、意味が、わかりませんでしたの)


(敷石は、24枚、決まっているものではないのですか、と伺いましたら、お母さまは、少しだけ、お笑いになりましたわ)


(「アリス。敷石は、あなたの歩幅で、切り直されるのよ。ラングレーの娘が、次の王宮礼装係長官になるとき」)


 ——お母さまは、3年前の春に、お亡くなりになった。


 わたくしが、殿下の御婚約者に、なった、その、半年後のこと。


 つまり、わたくしは、王宮の敷石を、3年、1人で、数えてきた。


(お母さま。今日、わたくし、数えるのを、誰かに、任せます)


(……いいのでございましょうか)


(——いえ、お答えは、きっと、「いいえ」でございますね)


 わたくしは、筆を、取り直した。


 書き続けた。


『1、玉座前広間の敷石、歩幅1.3フィートを基準とする』

『2、王妃の衣装の袖丈は、玉座昇段の手すりに接触せぬ寸法を厳守』

『3、来賓の入場順は、王国旗の赤を基準に、東西左右対称』

『……』


 38項目。


 それを書き終えるのに、夜半までかかった。わたくしは、自分が何を書いているのかを、書きながら、初めて、文字として、知った。


『38、万が一、これらの寸法に誤りが生じた場合、夜会は、成立しない』


 窓の外で、何かが、通った。


 わたくしは、顔を上げた。が、窓の外は、もう、暗かった。


 翌朝。


 庭師の老人が、紅茶を運んできたメリッサに、こう言ったと、メリッサはわたくしに伝えた。


「昨夜、殿下が、馬を引いて、お嬢様の窓の外を、3度、通られておりました」


 わたくしは、紅茶を、淹れた。


「……何でしょうね」


「何でしょうね、アリス様」


 磁器を、親指の腹で、2度、なぞった。


(2度目。……殿下、少し、怒っておりますのよ、わたくし)


(3年、お守りにならなかったのですから、今さら、馬で、いらっしゃっても)


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 建国記念夜会、当日。


 わたくしは自室で、灰藤色のドレスを、着ていた。


 招待は、届いていた。だが、仕切りはトリシア様のもの。出席しても、わたくしの居場所は、ない。


「アリス様、出られないのですか」


「出ます。ただ、少し、遅く、参ります」


 メリッサが、不思議そうな顔をした。


「トリシア様は、引き継ぎ書を、お読みになったでしょうか」


「読まれたと、思いますよ。ただ——」


 わたくしは、窓の外を見た。城館の石畳を、招待客の馬車が、通っていく。


「——38項目は、たぶん、『厳しすぎる』と、お思いになったでしょうね」


 メリッサが、静かに、笑った。


 腹黒く、ではなく、少し、悲しそうに。


「アリス様」


「ええ」


「今日は、少しだけ、お泣きになっても、よろしゅうございますわ」


 わたくしは、メリッサを、見た。


 ——メリッサは、こういうことは、言わない女だった。


「……メリッサ、あなた、何を知っていますの」


「何も。ただ、庭師の老人が、もう1つ、言っていただけですの」


「何と」


「殿下が馬を引いておられた夜、窓の外で、1度だけ、殿下が立ち止まって——」


 メリッサは、静かに、微笑んだ。


「——袖口を、3度、絞っておられたそうですわ」


 わたくしは、磁器を、置いた。


 そして——自分の、左の、袖口を、見た。


(……殿下も、3度、絞られるのですね)


(わたくしと、同じ、場所を)


 指先で、1度だけ、そっと、自分の袖口に、触れた。


(3年、わたくし、見られていた、のですね)


(——気づいて、いませんでした)


(殿下も、……緊張していらしたのですね)


(3年、沈黙されていた方が、何を、緊張されるというのでしょう)


(——わからない。わたくしには、まだ、わかりません)


(ただ、1つだけ)


(わたくしは、3年、1人で、立っているつもりで、1人では、なかった)


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 わたくしが王宮に着いたのは、夜会開始から40分後、だった。


 大広間の扉の前で、靴音が、止まっていた。


 王族の入場が、始まっているはずの時刻に、誰も、動いていない。


 扉の隙間から覗くと、玉座前、王妃殿下の裾が、3段目の昇段で引っかかっていた。袖が、手すりの金具に、絡んでいる。


 そして、そのすぐ後ろ——


 王陛下が、玉座前で、半歩、ずれていた。


 敷石の目地の真上に、足を置いてしまっている。王族の長は、敷石の中央に立たなければならない。さもなくば、入場の拝礼が、できない。


 玉座前24歩が、23歩と半で、終わっていた。


 誰かが、敷石を、1枚、入れ替えた。


「わたくし、玉座前の敷石が、少し殺風景でしたから、真ん中に、大理石を、はめ込んでおきましたのよ。いかがでしょう、殿下。華やかで、よろしゅうございましょう?」


 広間の中央で、トリシア様の、軽やかな声が、響いていた。


(……)


(大理石をはめ込んだから、視線が集まる、なのですわね)


(——それは、華やかにしてはいけない場所ですのよ、トリシア様)


(視線が集まるから、敷石の寸法を、1ミリも、ずらしてはならない場所なのですわ)


 来賓の衣装は、18色を、とうに超えていた。紫と金で統一されたトリシア様の装飾は、それ自体は、美しかったが——王国旗の赤を背景にすると、色が、死んで、見えた。


 東の貴族席では、白髪の老公爵夫人が、扇を、ゆっくりと、閉じられた。


 北の来賓席では、隣国の大使が、懐のノートを、無意識に、開いていた。


 南の若い男爵が、口を、小さく、開けた。が、言葉には、ならなかった。


 誰も、動かなかった。誰も、動けなかった。


 3年、誰も、言葉にできなかった「何か」が、今夜、ようやく、目に見える形で、現れていた。


 そして——


 トリシア様は、玉座前で、立ち尽くしていた。


「……殿下、これは……」


 彼女は、セドリック殿下のほうを、振り向いた。


 殿下は、動かなかった。


 ただ、大広間の扉のほうを、見ていた。


 わたくしが、立っているほうを。


「——ラングレー嬢」


 殿下の声が、広間に、通った。


「君の歩幅で、王妃殿下を、お助けできるか」


 わたくしは、1度、息を、吸った。


(数えましょう)


 12歩目。王妃殿下の裾は、右に、1度、流れるはず。


 わたくしは、袖口を——3度、絞った。


(今日は、怒りでは、ございません)


(今日は、仕事でございます、殿下)


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 わたくしは、広間に、入った。


 灰藤色のドレスの裾を、右手の親指と人差し指で、1ミリだけ、摘まみ上げる。


 ——敷石の1枚目。


 2歩目。3歩目。


(母の歩幅と、わたくしの歩幅は、等しい)


(だから、24歩で、玉座に、着く)


 12歩目。


 わたくしは、王妃殿下の、裾の、わずかに引っかかった位置を、見た。


 右手を、伸ばす。人差し指の先で、手すりの金具に絡んだ絹糸を、1本だけ、外す。


 金具の角度は、30度。絹糸の織りは、斜めに交差している。触る指の腹は、親指ではなく、人差し指の、第2関節の内側。


 ——7秒で、王妃殿下の袖は、手すりから、離れた。


 わたくしが袖を外し終えた瞬間、王妃殿下は、わたくしにだけ、聞こえる声で、こう仰った。


「ありがとう、アリス」


 ——王妃殿下は、わたくしの名前を、ご存じで、いらしたのですね。


「いえ、殿下。お待たせを」


「待ってなど、いないわ」


 王妃殿下は、玉座のほうを、静かに、見られた。


「——あなたが来ることを、わたくしも、3年、知っていたもの」


 わたくしは、顔を、上げた。


 王妃殿下は、わたくしを、見て、微笑まれた。


「わたくしの曾祖母も、ラングレー家の娘だったのよ、アリス」


 ——息が、止まった。


 王妃殿下は、それ以上、何も、仰らなかった。


 わたくしは、ただ、膝を、折った。


 3年、誰も、教えてくれなかった秘密が、いま、王妃殿下の、たった1言で、明かされた。


 ——王家は、代々、知っていたのだ。


 ラングレーの娘の、歩幅で、敷石が、切られていることを。


 そして、3年、沈黙で、それを、守ってきたのだ。


 入れ替えられた大理石を、元の敷石に戻すのに、2人の侍従を呼んで、20秒。


 わたくしは、王陛下の、立ち位置に、目を、向けた。


 王陛下の靴の、つま先が、敷石の目地の、わずか2ミリ上に、乗っている。


 わたくしは、何も、申し上げなかった。


 ただ、陛下の視線の先に、1歩、進み出た。


 陛下は、わたくしと、目が、合った。


 1度、短く、頷かれた。


 そして、半歩、お下がりになった。


 ——声ではなく、目線だけで、3秒。


 陛下も。


 ——ご存じで、いらしたのですね。


 王家の皆さまは、3年、黙って、わたくしを、数えていらした。


 来賓の衣装の視認色を整えるのに、東の貴族席の夫人がたに、「申し訳ございません、お手袋を、お外しいただけますか」と、それぞれ、5秒ずつ。


 合計、約1分。


 1分で、大広間が、正しい動きを、取り戻した。


 わたくしの手袋の、左の親指の付け根と、右の小指の外側が、灰色に、汚れていた。


 ——3年分の、汚れではない。


 1分の、汚れだった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 トリシア様が、広間の中央から、退く必要があった。


 彼女の位置は、本来、東の5列目。北の来賓席と、東の貴族席の視線が交差する、ちょうどその1点——最も、誰からも、見られる場所に、いた。


 だが、わたくしは、彼女の名前を、呼ばなかった。


 ただ、彼女の横を通るときに、1度だけ、立ち止まった。


「……トリシア様」


「な、何ですの」


「敷石を、1枚、動かされましたね」


「そ、それは、その、もっと、華やかに、見えるようにと——殿下の、お幸せのためですわ」


「ええ、華やかで、ございましたわ」


 わたくしは、微笑んだ。


(——これが、3度目ですね)


 指が、磁器をなぞる代わりに、スカートの横で、小さく、動いた。


「ただ、華やかさには、歩幅が、必要ですの」


「歩幅?」


「わたくしの歩幅しか、知らない敷石で、ございますので」


 トリシア様の顔から、色が、引いた。


 彼女は何も、言い返せず、広間の端へと、下がった。


 ——下がったその先が、どの敷石の中央でもない、目地の上であることに、彼女は、まだ、気づいて、いなかった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 夜会が、進んだ。


 王妃殿下が玉座に座られ、王陛下が起立され、来賓の拝礼が順序どおりに行われ、建国の詩が、朗読された。


 その間、わたくしは広間の北側、柱の陰に、立っていた。


 ——灰藤色のドレスは、柱の石色と、よく、馴染んだ。


 朗読が終わったとき、セドリック殿下が、柱の陰の、わたくしの前に、立った。


 手に、白い手袋が、2枚。


「ラングレー嬢」


「はい、殿下」


(間)


「——本当は、あの茶会のとき、俺は、怒っていた」


「殿下?」


「トリシアが、君を地味で厳しく面白みがないと言ったとき、俺は、君を、擁護すべきだった。だが、しなかった」


「——殿下、それは」


「3年、君を、守らなかった理由が、1つだけ、ある」


 殿下の声が、低くなった。


「俺が、先に、君を守れば——王宮は、君の歩幅を、知らないまま、回り続ける」


「……」


「王家に守られた者は、記号にしかなれない。だから、俺は、君が、自分の歩幅で、立ち上がるのを、待っていた」


「——3年も、ですか」


「3年、待った」


 殿下の声が、少しだけ、かすれた。


「許してくれ、とは、言わない。ただ、聞いてほしかった」


 殿下は、白い手袋を、差し出された。


「これは、詫びの品、ではない。むしろ、逆だ。君が、3年、王宮の敷石を、1人で、数えてきたことへの——」


 殿下の声が、もう1度、かすれた。


「——遅すぎた、記録だ」


 わたくしは、手を、出した。


 受け取るときに、殿下の指が、わたくしの指に、1瞬だけ、触れた。


 殿下の指は、少しだけ、冷たかった。


「……ありがとう、ございます」


 声が、1度だけ、詰まった。


 右手の薬指が、小さく、震えた。


(——ああ、数えるのを、やめてしまった)


 敷石を数える癖を、わたくしは、ここで、初めて、止めた。


(お母さま。今日、わたくし、数えるのを、やめましたの)


(……少しだけ、恥ずかしゅう、ございます)


(それから——お母さま。お母さまのお墓の前の敷石も、わたくし、曾祖母さまの歩幅で、切られていたのだと、たぶん、お気づきでいらしたのでしょうね)


 殿下が、1歩、近づかれた。


「3年前の夜会」


「……はい」


「雨が、降っていた」


 わたくしは、殿下を、見た。


「君は、玉座前で、24歩で、止まった。新入りの侍従が、敷石を1枚、ずらしていた。君はそれに気づいて、1度だけ、静かに、数え直した。——雨粒が、君のドレスの、左の肩だけに、5粒、落ちていた」


「……殿下、それを、覚えて、いらしたのですか」


「いいや」


 殿下は、柱の陰で、少しだけ、笑われた。


「——俺はあの夜、玉座の陰で、君の歩幅を、一緒に、数えていた」


 わたくしは、——息を、する、方法を、一瞬、忘れた。


 吸うべきか、吐くべきか、わからなかった。


(……ああ)


(わたくしも、3年、殿下の、沈黙を、数えて、おりました)


(殿下が、わたくしをお見つめにならない、その沈黙の、深さを)


(——お互い、数えて、おりましたのね)


「君の手袋は、左の親指の付け根と、右の小指の外側が、必ず、先に、汚れる。裏で、何を持っているかが、それで、わかる」


「……」


「そして、君は、緊張すると、左の袖口を、3度、絞る」


 殿下の声が、少し、柔らかく、なった。


「今日は、まだ——2度しか、絞っていないな」


 わたくしは、左の袖口を、見た。


 確かに、まだ、2度だった。


「俺はな、ラングレー嬢」


 殿下は、わたくしの目を、見た。


 初めて、その夜、殿下は、わたくしの目を、まっすぐに、見た。


「——君の歩幅しか、知らないんだ」


(間)


「華やかな女性の歩幅を、俺は、知らない」


「覚える気も、ない」


「君の歩幅でしか、入れない扉がある」


「君の手袋の汚れでしか、わからない所作がある」


「——そして」


 殿下は、1度、息を、吸われた。


「君が、左の袖口を、2度で、止めた夜。3度目に、行かなかった夜。——その夜を、俺は、3年前の雨から、1度も、忘れたことが、ない」


「あの茶会で、俺が最後に見たのも、君の、2度だけ、絞られた、左の袖口だった」


「——君は、あの場で、怒ることを、自分で、選ばなかった」


「俺は、その選択を、3年、見ていた」


「君の、その静かな『怒らない』が——たぶん、俺のいちばん、好きなところだ」


 わたくしは、手袋を、両手で、受け取った。


 受け取ったまま、顔を、上げられ、なかった。


 薬指が、もう1度、震えた。


(……泣くのは、淑女らしくないのですが)


(……でも、今日は、少しだけ、よろしいでしょうか)


「——ラングレー嬢」


「はい、殿下」


「今日は、3度、絞っていい」


 わたくしは、袖口を、見た。


 それから、殿下を、見た。


 絞らなかった。


 ——代わりに、1度だけ、俯いた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 王陛下の言葉が、広間に響いたのは、その直後だった。


「王宮礼装係の職務規定を、本日、改める」


 来賓が、静まった。


 北の来賓席では、隣国の大使が、懐から、銀の鉛筆を取り出して、小さく何かを、書き留めた。


 東の貴族席では、ラングレー家の遠縁の老伯爵が、1度だけ、深く、頷かれた。


 そして、広間の西の隅では——


 トリシア・バーンリー子爵令嬢の父、バーンリー子爵が、娘を、見ていた。


 それは、父が、娘を見る目ではなかった。


 雇った者を、解雇するときの、上役の、目だった。


「玉座前広間の敷石寸法を、ラングレー伯爵令嬢アリスの歩幅、1.3フィートを基準とし、以後、王室布告により、永久に、この基準を維持する」


 王陛下は、わたくしを、見られた。


「ラングレー嬢が3年、数えてきた歩幅を、1度でも、軽んじた者は——」


 王陛下は、広間を、ゆっくりと、見渡された。


 その視線は、最後に、広間の西の隅で、止まった。


「——この宮に、ふさわしく、ない」


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 トリシア・バーンリー子爵令嬢は、その夜、王宮を、退出された。


 わたくしは、柱の陰から、見ていた。


 彼女の歩幅は、バラバラだった。


 広い歩幅と、狭い歩幅が、交互に、続いていた。


 そして、彼女の靴のつま先は、敷石の目地の上を、踏み続けていた。


 1歩ごとに、目地を。


 もう1歩ごとに、また、目地を。


 ——誰も、彼女に、それを、教えなかった。


 彼女が王宮の大扉を出るまでの、24歩。


 その間、王宮の誰1人として、彼女の歩幅に、合わせなかった。


 ——彼女は、きっと、一生、自分が何の上を踏んで、何から外れたかを、知らないまま、生きるのだろう。


 わたくしは、ただ、静かに、その24歩を、数えた。


 彼女の名前が、社交界の招待状から消えるのに、1か月、かからなかった。


 ——王宮の敷石に、合わない歩幅の者を、招く会場は、どこにも、なかった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 数日後。


 ラングレー伯爵家の応接室に、セドリック殿下が来訪された。


 手に、小さな、包みが、あった。


「何でございますか、殿下」


「手袋だ」


 わたくしは、受け取った。絹の、白い手袋。


 左の親指の付け根に、わずかに、刺繍が、施されていた。


 ラングレー家の紋章と、王家の紋章が、重ねて、縫われていた。


「汚れる場所に、先回りしておいた」


「……ありがとうございます」


 わたくしは、手袋を、机に、置いた。


 窓の外を、見た。


 石畳が、きちんと、1.3フィート刻みで、並んでいた。


 殿下が、横に、座られた。


「ラングレー嬢。紅茶を、淹れてくれるか」


「はい、殿下」


 紅茶を、淹れた。


 茶葉の匂いが、湯気に乗って、立ち上がった。


 ——ラングレー家で代々使ってきた、少し、渋めの茶葉だった。お母さまが、最後に、お淹れになった日と、同じ、茶葉だった。


 磁器を、親指の腹で、1度だけ、なぞった。


 ——2度では、なく、1度だった。


「茶菓子は、何か、お持ちいたしましょうか、殿下」


「いらん」


 殿下は、即答された。


「——君の紅茶だけで、いい」


 わたくしは、湯気を、少しだけ、見た。


「殿下」


「ん?」


「わたくし、今日から、磁器を、1度しか、なぞらないことに、いたしましたの」


「2度目は、どうした」


「2度目は、怒るときの合図でしたから」


「——もう、怒らないのか」


「わたくし、地味で、厳しくて、面白みがございませんので」


 わたくしは、殿下を、見た。


「怒る必要が、ございませんの」


 殿下は、少しだけ、笑われた。


「——地味でいい」


 殿下は、言われた。


「その地味さで、俺は、3年、歩けた」


「——厳しくて、いい」


 殿下は、紅茶を、口に、運ばれた。


「その厳しさで、王宮の敷石は、1ミリも、ずれずにいる」


 殿下は、カップを、置かれた。


「ラングレー嬢」


「はい、殿下」


「君の数え方を、俺にも、教えてくれ」


 わたくしは、顔を、上げた。


「……殿下も、数えられるのですか」


「ああ。3年、1人で、数えさせた。これからは、2人で、数えよう」


 ——紅茶の湯気が、わずかに、揺れた。


 湯気越しに、殿下の指が、わたくしのカップの縁に、1瞬、触れた。


 そして、離れた。


 ……それで、十分、だった。


 わたくしは、殿下のほうへ、少しだけ、身体を、傾けた。


 窓の外で、石畳の上を、誰かが、通っていった。


 歩幅は、1.3フィート刻みだった。


 殿下の、ものだった。


 ——そして、わたくしの、ものでも、あった。


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