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八丈島の断罪王 〜史実の絶望をへし折った転生宇喜多秀家は、大坂の炎の中で最も美しく散るために徳川を蹂躙する〜  作者: さじ
第一章:因果の泥濘(でいでい)を断つ

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第9話:届かざる歴史の淵

第9話です。

天下人の首まであと一歩に迫った宇喜多秀家。しかし、戦国という時代の「圧倒的な質量」が、一個の狂気を無慈悲に押し潰しにかかります。

手が届きそうで届かない、血みどろの絶望をお楽しみください。

「死ねぇぇぇっ!!」


 俺の体が、泥濘を蹴って宙を舞う。

 返り血と泥水を限界まで吸い込み、鉛のように重くなった黄金の陣羽織が、バサリと不吉な音を立てて翻った。

 視線の先には、腰を抜かしかけている徳川家康の姿がある。

 兜のしころの隙間から覗く、年老いた脆弱な首の肉。そこに、俺が振り下ろした刀の青白い軌跡が、狂いなく吸い込まれていく。

 時間が凍りついたかのような刹那だった。

 歴史の因果が書き換わり、豊臣の世が永遠に続くための、たった一つの絶対条件。


 だが――。


 ガァァァン!! という、耳の鼓膜を物理的に破るような凄まじい金属音が、俺の腕の骨を肩の付け根から軋ませた。


「……ッ!」


 俺の太刀は、家康の首筋までわずか数寸というところで、横合いから弾丸のように突き出された漆黒の槍の柄によって、強引に弾き飛ばされていた。

 火花が散り、俺の両腕から一切の感覚が消失する。


「内府様に指一本触れさせるかァッ! 狂犬め、退けェイ!」


 怒号と共に現れたのは、鹿角の脇立兜を振り立て、全身から鬼神のような闘気を放つ巨漢だった。

 本多平八郎忠勝。

 天下無双と謳われ、生涯において数多の戦場を駆け抜けながら一度も手傷を負ったことがないという、徳川軍最大の武の結晶。彼が振るう名槍「蜻蛉切」が、物理的な質量となって俺と家康の間に割り込んだのだ。


 弾き返された強烈な反動で、俺は空中で体勢を崩し、泥濘の海の中へ無様に転がり落ちた。

 全身の筋肉が悲鳴を上げ、口の中に生臭い血と泥の味が広がる。


「……邪魔を、するなァッ!!」


 俺は獣のように吠え、即座に跳ね起きて再び刀を上段に構えた。

 だが、もはや俺の目の前は、先ほどまでの「家康の首だけが浮かぶ空白」ではなかった。

 本多忠勝の一撃によって生まれたわずか数秒の猶予。その間に、恐怖で硬直していた徳川の旗本衆が我に返り、親の仇でも見るかのような血走った目で、四方八方からアリの群れのように殺到してきたのだ。


「備前中納言を討てェッ! 討ち取った者には十万石の恩賞ぞ!」

「内府様をお守りしろ! 槍衾やりぶすまを作れ!」


 無数の槍の穂先が、四方から俺の身体を串刺しにしようと迫り来る。

 それを刀の腹で弾き返し、力任せに叩き斬り、隙だらけになった敵の喉元を掻き切って泥に沈める。だが、一人を殺しても、即座にその後ろから三人の足軽が槍を突き出してくる。斬っても、斬っても、目の前の肉の壁は分厚くなるばかりだった。


「閣下ッ!!」


 血だるまになった明石全登が、俺の盾となるように前へ飛び出し、数人の足軽を長太刀で薙ぎ払った。だが、彼の息はすでに絶え絶えであり、左腕は敵の凶刃を浴びてだらりと力なく垂れ下がっている。

 俺が背後を振り返ると、そこには目を覆うような凄惨な地獄が広がっていた。


 俺たちが関ヶ原に引き連れてきた一万七千の軍勢。

 小早川を処理し、福島を粉砕し、井伊を退け、ここに至るまで屍山血河を築き上げてきた最強の死兵たちは、今や二千にも満たない数にまで削り取られていた。

 弾薬はとうの昔に尽きている。児島党の兵たちは、ひしゃげた種子島を棍棒代わりに振り回し、あるいは素手で敵の甲冑の隙間に指をねじ込んで目を抉り出そうと足掻いている。

 だが、東軍は七万。

 味方が総崩れとなり、盆地を制圧し終えた東軍の部隊が、勝利の熱狂に浮かされたまま、孤立した俺たちを完全に包囲し、四方から物理的にすり潰しにかかっていたのだ。


 戦術の優位も、現代の合理性も、俺が注ぎ込んだ狂信も。

 もはやこの場においては何の役にも立たない。ただ純粋な「数の暴力」という、歴史が持つ絶対的な質量が、俺たちの存在を容赦なく圧殺しようとしていた。


 どれだけ効率的に敵を殺戮しようとも、一人が十人を殺す間に、百人の敵が押し寄せてくれば陣形は崩壊する。

 それが、戦国の現実。

 俺は、刃こぼれでノコギリのようになり、脂と血で滑る刀の柄を握りしめながら、その絶望的なまでの質量の差を呪った。

 小早川秀秋の裏切りという、史実における最大の致命傷は防いだ。だというのに、石田三成が描いた西軍の脆い連携が崩壊した時点で、この「数」の差は、個人の狂気では決して覆せない絶対の死の壁となっていたのだ。


「……家康……ッ!」


 俺は、何本もの槍に鎧を削られ、浅い傷を無数に負いながら、血走った目で桃配山の本陣を睨みつけた。


 徳川家康は、すでに本多忠勝や無数の旗本たちの分厚い人垣の奥深くに守られていた。

 その顔からは、先ほどまで俺の狂気に当てられて浮かべていた死の恐怖は完全に消え失せていた。

 代わりにそこにあったのは、抗いようのない歴史の巨大な奔流を高みから見下ろすような、冷酷で、底知れぬ安堵の表情だった。

 家康の細い目が、俺を見据えている。


『届かぬよ、備前中納言。所詮、貴様一人の狂気など、この天下のうねりの前には塵芥に過ぎん』


 声に出さずとも、老狸の目がそう雄弁に語りかけてくるのがわかった。


 距離にして、わずか五間(約九メートル)。

 俺が駆け出せば、数秒で届く距離。

 しかし、その数間の間に幾重にもひしめく数万の敵兵は、越えることのできない底なしの暗黒の淵となって、俺と家康を決定的に隔てていた。


「……俺は、こんなところで……。秀吉様との、約束を……」


 俺の足が、膝まで泥に深く沈み込む。

 肉体はすでに限界をとうに超え、アドレナリンだけで立っている状態だ。幾つもの刃傷から、命の熱がどくどくと流れ出しているのがわかる。

 周囲では、俺の手足となって動いてくれた児島党の若者たちが、一人、また一人と無言のまま槍に貫かれ、群がった敵兵に首を掻き切られていく。

 彼らは最期まで無表情のまま、痛みに対する悲鳴すら上げず、ただ俺の命じた「作業」を完遂しようと足掻き、そして泥に沈んでいった。


 その光景が、俺の胸の奥底を冷たい刃で抉った。

 俺の狂信に巻き込み、彼らを殺したのは、俺だ。


「閣下! もはやこれまでです! これ以上の突撃は、無意味な全滅を意味します!」


 全登が、自らの血で真っ赤に染まった手で、俺の鎧の袖を力一杯引っ張った。


「離せ、全登! 俺の命などどうなってもいい! あの狸を、あの狸の首さえ獲れれば、全てが終わるんだ……!」

「なりませぬ!!」


 全登が、かつて見せたことのない激しい怒気を込めて、俺の顔面を怒鳴りつけた。


「閣下がここで犬死にして、誰が豊臣の世を取り戻すというのですか! 狸の天下を認め、黙って首を差し出すおつもりか! 大坂には秀頼様が、そして閣下を待つ豪姫様がおられますぞ!」


 その言葉が、熱病に浮かされ、殺戮の快楽と狂気に支配されていた俺の脳髄に、氷水を浴びせたように響いた。


 ……そうだ。

 俺がここで意地を張って死ねば、歴史は完全に家康の掌の上で転がることになる。秀吉様が遺した豊臣の血脈は、いずれあの老狸の狡猾な謀略によって根絶やしにされるだろう。

 家康の首を獲る。そのただ一つの目的のためだけに、俺はまだ生き続けなければならないのだ。

 たとえ、それが泥水を啜り、獣のように山中を逃げ惑う屈辱の道であったとしても。


「……退くぞ」


 俺は、ギリッと奥歯を噛み砕かんばかりに食い縛り、血と脂でまみれた刀を強引に鞘に押し込んだ。

 口から、絶望と憎悪の混じった黒い血反吐を吐き捨てる。


「全軍、反転! 目指すは背後の伊吹山中だ! 血路を開け! 振り返るな、ただ前方の敵を叩き斬って逃げ延びろ!」


 俺の号令に、生き残った二千の宇喜多兵たちが、再び一つの血まみれの塊となって、西の山々を目指して動き出した。

 彼らはもはや無機質な兵器ではない。生への執着を取り戻した、手負いの獣の群れだった。

 背後からは、関ヶ原の盆地を完全に制圧し、勝利の歓喜に沸き返る東軍数万の巨大な勝鬨かちどきが、天を裂くように響き渡っていた。


 俺は、泥濘に足を取られながら、最後にもう一度だけ振り返り、桃配山に翻る徳川の金扇の馬印を睨みつけた。


『洗って待っていろ、老狸。……次こそ必ず、その喉笛を喰らい千切ってやる』


 豊臣の狂犬は、癒えることのない深い絶望の傷と、千年経っても消えない怨念を腹底に抱え込み、深い霧と死の気配が支配する伊吹の山中へと姿を消した。


 慶長五年、九月十五日。

 史実の敗因を物理的に粉砕した俺の戦いは、結局のところ、歴史という圧倒的な質量の前に敗北した。

 だが、これは終わりではない。

 大坂の陣へ向けた、長く、狂気に満ちた雌伏の時の、始まりに過ぎなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


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