第8話:老狸の眼前にて
第8話です。
味方が総崩れとなり、圧倒的な数的不利に陥った関ヶ原。
しかし、退路を捨てて「死兵」と化した宇喜多軍一万七千は、狂気と鉄砲の火力を切っ先に、徳川家康の本陣へ向けて凄惨な突撃を開始します。
泥と血に塗れた、天下人との命の削り合いをお楽しみください
慶長五年九月十五日、午後三時。
関ヶ原の盆地は、東軍の完全な勝利という歴史の結末を迎えようとしていた。
石田三成、小西行長、大谷吉継。西軍を構成していた主力部隊はすでに壊滅し、あるいは散り散りになって伊吹山中へと逃げ惑っている。彼らを追撃する東軍の将兵たちは、大将首を一つでも多く挙げようと、血走った目で戦場を駆け回っていた。
七万を越える東軍が、勝鬨を上げながら盆地を制圧していく。
だが、その圧倒的な勝利の濁流に逆行し、ただ一つの巨大な「黒い塊」が、東から西へと逃げる敗残兵たちの波を真っ向から引き裂きながら、一直線に進撃していた。
俺たち、宇喜多秀家の軍勢一万七千である。
「止まるな! 立ち塞がる者は東軍だろうが逃げ惑う味方だろうが、全て踏み潰せ! 我らの往く道に生者は不要だ!」
俺の咆哮が、血と硝煙で濁った空気を震わせた。
全軍を巨大な「楔」の陣形に再編した宇喜多軍は、もはや一個の軍隊というよりも、物理的に肉を挽き潰す巨大な石臼と化していた。
切っ先を務めるのは、俺が鍛え上げた直属の狂信部隊「児島党」。彼らの持つ三百挺の種子島(火縄銃)が、楔の先端で絶え間なく火を噴き、立ち塞がる東軍の兵を容赦なく肉塊へと変えていく。
「な、なんだあの軍勢は!? 西軍は総崩れになったのではないのか!」
「宇喜多だ! 備前中納言の軍勢が、退かずに突っ込んでくるぞ!」
勝利を確信し、陣形を崩して略奪や首獲りに夢中になっていた東軍の部隊が、次々と俺たちの放つ鉛の雨の前に薙ぎ払われていく。
彼らは恐慌状態に陥っていた。
当然だ。戦に負けた軍隊というものは、背を向けて逃げるのが戦国時代の常識である。しかし、目の前の宇喜多軍は、味方が全滅したというのに誰一人として逃げようとせず、あろうことか敵の総大将の首ただ一つを狙って、狂ったように突撃してくるのだ。
「撃て! 撃ち続けろ! 銃身が焼き付くまで火蓋を切れ!」
明石全登の声が、乱戦の中で悲痛なほどに響く。
児島党の若者たちの手は、酷使された種子島の熱で焼け焦げ、水膨れが弾けて血を流していた。それでも彼らは表情一つ変えず、焼け爛れた指で早合(弾薬包)を押し込み、引き金を引く。
だが、物理的な限界は確実に近づいていた。
ドドォン! というくぐもった爆音と共に、最前列にいた一人の兵士の種子島が暴発した。限界を超えた連続射撃により、銃身が熱で歪み、内部で火薬が爆発したのだ。
兵士の顔面半分が吹き飛び、彼はいばらのような血飛沫を上げてその場に崩れ落ちた。
しかし、後続の兵は一切の躊躇なくその死体を踏み越え、前に出て自らの銃を構える。
「……銃が壊れた者は、それを鈍器として使え! 長槍隊、前へ! 楔の切っ先を鈍らせるな!」
俺の命令に呼応し、鉄砲隊の隙間から、無数の長槍が毒牙のように突き出された。
東軍の足軽たちが、悲鳴を上げる間もなく喉や腹を串刺しにされる。槍を突いた宇喜多の兵たちもまた、横合いから振り下ろされた刀で腕を斬り飛ばされ、あるいは首を刎ねられる。
だが、腕を失った宇喜多の兵は、死ぬ間際に敵の足首に喰らいつき、そのまま共に泥の中へと沈んでいった。
死兵。
生還を完全に諦め、ただ相手を殺すことだけに己の全存在を懸けた軍隊。
俺が彼らに注ぎ込んだ「豊臣への狂信」と、四百年後の冷徹な殺戮理論が融合した結果、彼らはこの関ヶ原において、最もおぞましく、最も純粋な暴力の結晶体となっていた。
「……見えてきたぞ、全登」
俺は返り血で前が見えなくなった顔を泥水で拭い、前方を睨みつけた。
数万の敵兵がひしめく盆地の中央を強引に突破し、ついに桃配山の麓が視界に捉えられた。
そこに翻るのは、徳川の「三つ葉葵」の陣幕と、金の扇を象った巨大な馬印。
徳川家康の本陣である。
◇
その頃、桃配山の本陣に床几を据えていた徳川家康は、己の眼下で繰り広げられる信じがたい光景に、完全に言葉を失っていた。
「……馬鹿な。あり得ん。なぜ、備前中納言(秀家)は逃げぬ」
家康の枯れた声が、震えていた。
盆地はすでに東軍の兵で埋め尽くされている。本来ならば、その圧倒的な数の暴力の前に、一万七千の軍勢など一瞬で飲み込まれ、押し潰されるはずである。
だが、現実は違った。
黒糸威の甲冑で統一された宇喜多の軍勢は、まるで熱した鉄の杭がバターを切り裂くように、分厚い東軍の陣形を真っ二つに割りながら、一直線にこちらへと向かってきているのだ。
「内府様! 宇喜多の軍勢、すでに本陣の防衛線、わずか三町(約三百メートル)の距離まで肉薄しております!」
伝令の武将が、恐怖で涙目になりながら叫んだ。
「迎撃に向かった本多忠勝様の部隊も、宇喜多の異常な槍衾と鉄砲の前に足止めを喰らっております! 奴ら、味方が死ぬことを全く恐れておりませぬ! まるで、黄泉の国から蘇った悪鬼の群れにございます!」
「ええい、狼狽えるな!」
家康は立ち上がり、床几を蹴り飛ばした。
「たかが一万数千の敗残兵ではないか! 我が本陣にはまだ数万の旗本が残っておる! 力で押し潰せ! 備前中納言の首を挙げた者には、望む限りの恩賞を取らすと触れ回れ!」
家康は吼えたが、その背中には冷たい汗が滝のように流れていた。
長きにわたる戦国時代を生き抜き、武田信玄や豊臣秀吉といった数々の怪物たちと渡り合ってきた老狸の直感が、警鐘を鳴らし続けていた。
あの男は、宇喜多秀家という男は、理屈で動いていない。
領地のためでも、名誉のためでも、一族の存続のためでもない。
ただ純粋な「狂気」と、徳川家康という存在に対する底なしの「怨悪」だけで動いている。
家康が最も恐れるのは、そうした「交渉の余地が一切ない、盤面外の暴力」であった。
「……盾を並べよ! 鉄砲隊を前に出せ! 何としても、あれを我が陣に近づけるな!」
家康の悲痛な叫びが、本陣の将兵たちを叱咤する。
だが、その声が届くよりも早く、関ヶ原の泥と血を限界まで吸い込んだ「黒い楔」が、ついに徳川本陣の最終防衛線へと激突した。
◇
「死ねェェェッ!! 狸の首を差し出せェッ!!」
宇喜多の兵たちの口から、もはや言葉とも獣の咆哮ともつかない叫びが迸る。
楔の先頭は、すでに児島党の鉄砲隊から、俺自身と近習の武将たちによる白兵戦へと切り替わっていた。弾薬は完全に底を突き、種子島は全て鈍器として使い潰され、泥の中に捨てられている。
ここから先は、純粋な命の削り合いだ。
「閣下! 前方に本多平八郎(忠勝)の軍勢! 徳川の盾が厚すぎます!」
右腕を矢で射抜かれた全登が、左手一本で太刀を振り回しながら俺の傍らに寄ってきた。
彼の言う通り、徳川の旗本衆と本多忠勝の精鋭部隊が、分厚い盾を並べて防波堤を築き、その後ろから無数の槍と鉄砲を突き出して我々の行く手を阻んでいた。
一万七千いた我が軍勢は、この狂気の突撃の中で次々と命を散らし、今や半数以下の七千ほどにまで削り取られている。
四方八方から東軍の兵が群がり、我々の背後からも逃げ道を塞ぐように無数の刃が迫っていた。
完全なる四面楚歌。孤立無援の死地。
「……突破する。俺がこじ開ける」
俺は馬の腹を蹴り、愛刀を上段に振り被ったまま、徳川の盾の壁へと単騎で突っ込んだ。
「撃て! 備前中納言を撃ち落とせ!」
敵陣から一斉に火縄銃が火を噴く。
俺の乗っていた愛馬が、数発の鉛玉を頭部と胸部に受け、悲鳴を上げて前方のめりに倒れ込んだ。
俺はその勢いを利用し、馬上から宙へ躍り出た。
黄金の陣羽織が、秋の陽光を受けて燃え上がるように翻る。
「邪魔だァァァアアアッ!!」
重力と落下の勢いを全て乗せた俺の太刀が、盾を構えていた徳川の足軽の兜ごと、その頭蓋を真っ二つに叩き割った。
骨と脳漿が弾け飛ぶ。
俺の着地と同時に、できた僅かな綻びに全登たち近習衆が狂ったように雪崩れ込み、盾の壁を内側から崩壊させていく。
「押し通れ! 俺を狸の元へ連れて行け!」
泥まみれになり、自らの血と敵の血で全身を赤黒く染めながら、俺は修羅のごとく刃を振るった。
群がってくる徳川の兵の顔面に柄を叩き込み、怯んだ隙に喉笛を掻き斬る。背後から突き出された槍を左手で強引に掴み、引き寄せてからその持ち主の心臓を刺し貫く。
現代の薄っぺらい倫理観など、とうの昔に擦り切れて消滅している。
俺は今、戦国という血生臭い時代が生み出した、純度百パーセントの「殺意の具現」だった。
「……退け、退けェッ! こいつら、人間ではない!」
盾を破られ、内側に踏み込まれた徳川の旗本たちが、ついに恐怖に耐えきれず後退を始めた。
彼らもまた、精強な三河武士である。だが、死を恐れず、自らの臓物がこぼれ落ちてもなお笑いながら相手の首を絞めに来る宇喜多の死兵たちを前に、彼らの常識は完全にへし折られてしまったのだ。
「開いたぞ! 本陣への道が開いた!」
生き残った宇喜多の将兵たちが、血泡を吹きながら歓喜の絶叫を上げる。
俺は息を荒らげ、血で滑る刀の柄を握り直した。
視界が開けた。
数百の死体を踏み越え、血の海を泳ぎ切った俺の目の前。
距離にしてわずか十間(約十八メートル)。
桃配山の斜面に設けられた本陣の床几の上に、金陀美具足を身に纏い、顔を青ざめさせた初老の男が立っていた。
徳川家康。
豊臣の世を壊し、己の天下を築こうとした、史実における最大の勝者。
「……家康ゥゥウッ!!」
俺は、腹の底から絞り出した呪詛のような咆哮を放った。
家康が、ビクンと肩を震わせ、俺を見た。
四百年の時を越えた転生者の狂気が、天下を掴もうとする老狸の野心と、この関ヶ原の中心で完全に交錯した。
家康の瞳の奥底に、はっきりとした「死の恐怖」が浮かび上がるのを、俺は見た。
周囲にはまだ数百の旗本が家康を守るように控えている。だが、彼らもまた、血の塊と化した俺の姿に完全に気圧され、誰一人として槍を突き出すことができない。
「見つけたぞ、狸親父……。秀吉様の恩を仇で返した報いを、今ここで受けさせてやる」
俺は、引き攣るように笑いながら、ゆっくりと、最後の一歩を踏み出した。
俺の背後では、生き残った数千の宇喜多兵が、最後の力を振り絞って東軍の追撃を肉の壁となって食い止めている。彼らは俺に、家康の首を獲るためだけの、わずか数秒の時間を買い与えてくれているのだ。
刃の切っ先を、家康の首へと真っ直ぐに向ける。
歴史の因果が、今、俺の手によって完全に書き換えられようとしていた。
あの黄金の世を、俺の愛した豊臣の夢を取り戻すための、最後の一撃。
「……死ねぇぇぇっ!!」
俺は地を蹴り、家康の首ただ一つを目指して、修羅の如く跳躍した。
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