第7話:瓦解する西軍、孤立する狂犬
第7話です。
小早川を粉砕し、福島を蹂躙した宇喜多軍。しかし、彼らが最前線に巨大な「空白」を作ったことで、関ヶ原全体の戦局は予想外の方向へと転がり始めます。
味方が次々と崩壊していく絶望的な盤面の中、ただ一人、家康の首だけを見つめて進む狂犬の姿を描きます。
慶長五年九月十五日、午後二時。
関ヶ原の盆地は、血と泥と硝煙が混ざり合う、巨大な阿鼻叫喚の坩堝と化していた。
福島正則の陣を半ば物理的に溶かし去った俺たち宇喜多軍一万七千は、そのまま盆地の中央を東に向かって這い進んでいた。目指すはただ一点、桃配山に本陣を構える徳川家康の喉笛である。
だが、老狸もただ黙って喉を差し出すような男ではない。俺という盤面外の異物が引き起こした致命的な破綻を力技で塞ぐため、ついに己の手元に置いていた最精鋭を解き放った。
「……来るぞ、気を引き締めろ」
俺は馬上で刀の血振るいをしながら、前方から迫る異様な軍団を睨みつけた。
泥にまみれた関ヶ原の風景の中で、そこだけが異常なほどに赤く染まっている。武具、甲冑、旗印、果ては馬の装具に至るまで、全てを鮮血のような朱色で統一した軍団。
徳川四天王が一人、井伊直政が率いる「井伊の赤備え」であった。
「我こそは徳川内府の先手、井伊兵部少輔直政なり! 備前中納言(秀家)と見受ける! 豊臣の恩を忘れ、天下の安寧を乱す逆賊め、我が槍の錆にしてくれるわ!」
先頭を駆ける直政の怒号が、戦場の喧騒を切り裂いて届く。
豊臣の恩を忘れ、だと。
俺は兜の下で、腹の底から湧き上がる昏い哄笑を噛み殺した。
天下を簒奪しようとしている狸の走狗に成り下がった男が、どの口で豊臣の恩を語るのか。己の主君の野心すら正当化するために、息を吐くように大義名分を騙る。それが戦国武将という生き物の浅ましさだ。
「全登。相手は徳川の最精鋭だ。個人の武勇と狂騒で動く、古い時代の極致と言っていい」
「はっ。いかがなさいますか」
「叩き潰せ。……鉄と鉛の冷たい現実を、奴らの赤い脳髄に刻み込んでやれ」
俺の号令と共に、児島党の鉄砲隊三百が、前進しながら流れるような動作で三段の横隊を組んだ。
対する井伊の赤備えは、名乗りを上げながら、死を恐れぬ猛烈な勢いで突撃してくる。彼らの目には、手柄への執着と、主君家康への熱烈な忠誠心が炎のように燃え盛っている。戦国時代における「精強さ」を煮詰めたような部隊だ。
だが、感情は、物理法則を覆せない。
「放て」
無機質な号令。
轟音と共に、三百の鉛玉が朱色の波に叩き込まれた。
先頭を駆けていた騎馬武者たちが、見えない巨大な壁に激突したかのように次々と吹き飛ぶ。馬のいななきと、骨が砕ける生々しい音が連鎖した。
だが、赤備えの突進は止まらない。前の者が倒れれば、後ろの者がその死体を踏み越えて突っ込んでくる。彼らは狂信的なまでの勇猛さで、児島党の放つ鉛の雨を文字通り「肉の盾」でこじ開けようとしていた。
「装填、急げ。だが決して動作を乱すな」
全登の声が響く。
児島党の兵たちは、猛スピードで迫り来る赤い悪鬼たちを前にしても、一切表情を変えなかった。彼らは呼吸を揃え、機械のように正確な動作で早合を銃身に押し込み、火蓋を切る。
あと十間(約十八メートル)で白兵戦にもつれ込むという極限の距離で、第二射が火を噴いた。
直撃を受けた井伊の兵たちの胴体が弾け、血肉が俺たちの陣形まで飛沫となって降り注ぐ。それでも、数騎の騎馬が弾幕をくぐり抜け、児島党の最前列へと突入してきた。
「死ねェッ! 宇喜多の腑抜け共!」
赤備えの武将が、槍を振り被りながら吠える。
だが、児島党の若者は、振り下ろされる槍を避けようともしなかった。彼は無表情のまま、撃ち尽くした種子島の熱い銃身で敵の槍を弾き返し、同時に背後に控えていた長槍隊が無言で三本の槍を突き出した。
鎧の隙間、首の動脈、そして馬の胸部。
計算し尽くされた急所への無慈悲な刺突。赤備えの武将は、己の致命傷を理解する間もなく、声すら上げられずに絶命して泥に沈んだ。
「……な、なんだこいつらは……ッ!」
後続の井伊の兵たちが、初めて恐怖に顔を歪めた。
彼らが恐れたのは、宇喜多の軍勢の「強さ」ではない。「感情の欠落」だ。
怒りも、恐怖も、功名心もない。ただ静かに、淡々と、目の前の人間を解体する作業を繰り返す無機質な死神の群れ。自分たちが信奉してきた「熱き武士の誇り」が、冷たい鉄の論理の前に一切通用しないという絶対的な絶望。
「退くな! 押し通れェッ!」
後方で指揮を執っていた井伊直政が、血を吐くような声で叫んでいる。
だが、その直政の右腕が、唐突に不自然な方向へ弾け飛んだ。児島党の狙撃手が放った一発の鉛玉が、彼の関節を正確に撃ち抜いたのだ。
「御大将が撃たれたぞ!!」
「退け! 直政様をお守りしろ!!」
指揮官の負傷により、赤備えの猛攻が遂に限界を迎えた。彼らは朱色の波を引かせるように、無数の死体を残して後退していく。
「追うな」
俺は、刀を構えようとした前衛を制止した。
井伊の部隊を退けたとはいえ、これ以上無駄に時間を浪費するわけにはいかない。
なぜなら、俺の視界の端――関ヶ原の盆地全体を俯瞰する景色は、すでに致命的な崩壊を始めていたからだ。
「……閣下。治部少(三成)様の本陣、笹尾山が持ちこたえられぬ模様です」
背後から駆け寄ってきた物見の兵が、青ざめた顔で報告した。
その言葉を聞くまでもない。笹尾山の方角からは、西軍の「大一大万大吉」の旗印が次々と切り倒され、代わりに黒田長政や細川忠興の旗が山を這い上がっていくのが見えた。
「大谷吉継殿の陣も、すでに藤堂・京極勢に蹂躙され、大谷殿は自刃されたとのこと……! さらに、南宮山の毛利、吉川は未だ動かず、島津勢も陣を固く閉ざしたまま、一切の加勢をしておりませぬ!」
物見の兵は、絶望に震える声で叫んだ。
「西軍は……我ら西軍は、完全に瓦解いたしました!」
周囲の宇喜多の将兵たちの間に、初めてざわめきが走った。無理もない。松尾山の小早川を討ち、福島を破り、井伊を退けたというのに、気づけば自分たち以外の全ての味方が崩壊し、敗北しようとしているのだから。
なぜこんなことになったのか。
理由は明白だ。
俺が、小早川秀秋という「内なる毒」を処理するために、本来の持ち場であった最前線に巨大な大穴を空けたからだ。その結果、行き場を失った東軍の主力三万が、堰を切った濁流のように大谷陣や三成の本陣へと雪崩れ込んだのである。
加えて、三成の「理屈だけの統率」では、毛利や島津といった巨大な軍閥を動かすことはできなかった。人間の打算と泥臭さを計算に入れなかった彼の戦略は、俺が前線を放棄した瞬間、あっけなく崩れ去る砂上の楼閣に過ぎなかったのだ。
「……閣下。いかがなさいますか」
全登が、血に塗れた顔で俺を見上げた。
彼の目には、焦りはない。ただ、主君が次にどのような狂気を見せるのか、それを待ち望んでいるかのような静かな光が宿っていた。
「治部少(三成)の陣を、救援に向かいますか? あるいは、背後の伊吹山中へ血路を開き、撤退いたしますか」
俺は空を見上げた。
秋の陽が、西に傾き始めている。関ヶ原の空は、これから流れる血を予感させるように、薄く赤みがかり始めていた。
三成の救援?
冗談ではない。あの堅物は、自分が天下の差配をできると勘違いした結果、この無惨な崩壊を招いたのだ。自業自得というほかない。
では、撤退か?
今ならまだ、兵の過半数を保ったまま大坂へ逃げ帰ることができるかもしれない。
だが、大坂へ帰ってどうする? 家康が東軍数万を率いて大坂城を包囲したとき、誰があの狸の首を獲るというのだ。
俺の腹の底で、ずっと煮えたぎっていたマグマのような執念が、遂に臨界点を超えた。
あの日、孤独と暗殺の恐怖に震えていた俺に、温かい握り飯を差し出してくれた秀吉様。
あの人が作ってくれた、黄金の世。
俺は、俺の魂を救ってくれたあの世界を、何があっても守り抜くと誓ったのだ。
「……全登。陣形を変えろ」
俺は馬から飛び降り、泥濘の上に両足で力強く立った。
「防御は一切不要だ。横隊を解き、全軍を巨大な一つの『楔』の形に再編しろ。長槍隊を両翼に配置し、中央の切っ先に児島党の鉄砲隊を集中させろ」
全登の目が、驚愕に見開かれた。
それは、退路も防御も全て捨て去り、ただ前方の敵を物理的に抉り開けるためだけの、絶対的な特攻陣形だった。
「閣下……! それでは我らは、関ヶ原で完全に孤立いたします! 東軍の残存兵力、およそ七万が、我ら一万七千を四方から包囲することになりますぞ!」
「それがどうした」
俺は刀を抜き放ち、その青白い刃に傾きかけた陽光を反射させた。
「味方が全て崩れ去ったというのなら、好都合だ。これでもう、我らの前を進む邪魔者は誰もいなくなった。……俺の視界には今、桃配山でふんぞり返っている、あの老狸の首しか見えていない」
俺の狂気に当てられたのか、周囲の児島党の兵士たちの目にも、かつてない異様な熱が宿り始めていた。
感情を殺し、機械として立ち回ってきた彼らの中に、俺の流し込んだ「豊臣への狂信」という劇毒が完全に回り切ったのだ。
「いいか、お前たち!」
俺は、一万七千の死兵たちに向けて咆哮した。
「西軍は崩壊した! 大義名分も、戦略も、もはやこの戦場には存在しない! だが、俺たちには俺たちの『義』がある! 秀吉様の恩を忘れ、我が物顔で天下を簒奪しようとする徳川家康を、俺はこの泥の中に引きずり下ろして八つ裂きにしてやる!」
オォォォォォォォォッ!!!
宇喜多軍一万七千から、地鳴りのような咆哮が上がった。
それは武士の名乗りではない。人の理を捨て、ただ一匹の狸を噛み殺すためだけに顕現した、巨大な獣の産声だった。
「俺に続け! 立ち塞がる者は全て肉塊に変えろ! 狙うは徳川家康の首、ただ一つ!!」
孤立無援。四面楚歌。
常識的な将であれば絶望して切腹を選ぶであろうその完璧な死地の中で、豊臣の狂犬は、最も凶暴な牙を剥き出しにして駆け出した。
彼らの進む道には、もはや戦術も駆け引きもない。
ただ、屍の山と血の河を築きながら、天下人の喉元へと真っ直ぐに突き進む、凄惨にして壮絶な特攻が始まったのだ。
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